女の宿命が痛い『尼僧の告白』その2
『尼僧の告白 テーリーガーター』の続きです。
昨日書いたのは、子供と夫を亡くした悲惨なパターチャーラーの話でした。
でもこの経典には、
もう少しライトだけれども普遍的な苦悩も告白されていて、
読んでいて「いたたたたた・・・」という気持ちになります。
◆ 男に捨てられる! イシダーシー尼 ◆
豪商の娘・イシダーシーは、結婚して夫や舅姑たちに懸命に仕えました。
でもなぜか夫に嫌われて、追い返されてしまうのです。
「時間に遅れることなく起きて、夫の住居に行き、入り口で手を洗い、
合掌して夫のそばに近づきました。
櫛と顔料と目薬と鏡を持っていって、婢女(はしため)のように
みずから夫を装飾しました。
このように、貞淑な態度で、夫に愛情をいだき、高ぶらず、
早起きで、怠けず、婦徳がそなわっていたのに、夫は私を憎みました」
ある日、夫が家を出て行ってしまいます。
父母が「いい嫁じゃないか。何が気に入らないのだ」と訊くと、
夫はこう答えます。
「かの女は何もわたくしを害したりしません。
しかしわたしはイシダーシーと共に住みたくないのです。
ただ、嫌いな女は、わたくしには用がないのです。許して下さい」
いたたた・・・・。
似たようなセリフ、私も男に言われたことがありましたな。
イシダーシーは、次の男にも、次の次の男にも嫌われて追い返されます。
「自殺するか出家するか」と考えた末に、仏の道に入ります。
現代でも、およそ愛だ恋だは、こんなもんであります。
何の落ち度がなくても憎まれたり、ひどい性悪でも愛されたり、
がんばってどうこうできるものではない。
人はまず、恋愛から無常と諦観を学ぶものですよねえ。
◆ 老いて醜くなる! アンバパーリー尼 ◆
アンバパーリーは、高級娼婦で大金持ちでした。
でも生きとし生けるものは、みんな老いていきます。
「昔はわたしの毛髪は、漆黒で、蜂蜜の色に似ていて、
毛の先端は縮れていました。
しかし今は老いのために、毛髪は麻の表皮のようになりました」
「わたしの両方の乳房は、昔は豊かにふくらんで円く、
均整がとれて上に向いていましたが、いまやそれらは、
水の入ってない皮袋のように垂れ下がってしまいました」
こういった嘆きがいくつも続きます。そして最後に、
「このように、より集まって出来ているこの身は、
老いさらばえて、多くの苦しみのむらがるところです。
それは塗料の剥げ落ちたあばら家です。
真理を語るかたのことばに誤りはありません」
コラーゲンを飲もうが、ボトックス注射をしようが、
ムダな抵抗というものですね。
ほかにも、
男に誘惑されて「目がきれいだきれいだ」と言われて、
「そんなに言うならお持ち帰りください」といって、
自分の目玉をえぐり出して渡すスバー尼など、
尼僧たちが生き生きと描かれています。
ただちょっと気になる点が一つ。テーリーガーターは、
「欲望がいかに人を苦しめるか」
「一見美しい身体が、糞尿に満ちた、
いかに不浄な牢獄であるか」が、
過剰なほどに繰り返し説かれています。
もちろんそれは、仏教の教えどおりなのですが、
なんとなく男目線を感じないでもない。
つまり、
『尼僧の告白』を男性の比丘たちが読んで、
「だから不浄な女体に、くだらない欲望を持つなよ!」
と自ら言い聞かせるのにも使われた気がしたのでした。
すべての女性に読んでほしい『尼僧の告白 テーリーガーター』
初期仏典『尼僧の告白 テーリーガーター』(岩波文庫)を読みました。
これは、すべての女性、いや男性にも読んでいただきたい。
私が女だからかもしれませんが、
初期仏典の中でも胸に沁みる経典の一つでした。
「若き尼よ。幸せに眠れ。――(そなたの)作った衣を身にまとったまま。
そなたの欲情は静まっている。―― 瓶の中の枯葉のように。」
この美しい冒頭で、ちっとも若くない私も、まずやられました。
たとえば、子供に死なれた母親に、私たちは何を言えるでしょうか。
子供を失った500人の母親の前で、
パターチャーラー尼はこのように説きます。
「その子が来たりまた去って行った道をそなたは知らず、
またその子がどこから来たのかも知らないのに、
<わが子!>といって、そなたは泣き悲しむ。
しかし、その子が来たりまた去って行った道を、
そなたが知っているならば、そなたはかれのために悲しまない。
けだし、生きとし生けるものとは、
そのような定めをもっているのである。
請われないのに、かれは、そこからやって来た。
また許しを得ないのに、かれは、ここから去っていった。
― どこからかやって来て、数日間住んだあとで。―
かれは、ここから、一つの道を通ってやって来た。
かれはそこから、他の一つの道を通って行くであろう。
人間のかたちをとって死んで、輪廻しつつ過ぎ去るであろう。
来たときのようなすがたで、去って行った。
そこに何の悲嘆をする要があろうか。」
「永遠にみんなの心のなかで生き続けるのです」
「天国から、みんなのことを見守っていますよ」とかなんとか
適当ななぐさめは言わないのです。
「生きとし生けるものとは、
そのような定めをもっているのである」。
「そこに何の悲嘆をする要があろうか」。
この恐ろしくも厳しい、正しい認識よ。
◆パターチャーラーの悲惨すぎる説話
このパターチャーラー尼は
とんでもない悲惨を背負った人でした。
(ドラマや歌にもなった仏教説話の有名人です)
彼女は富豪の娘でしたが召使と駆け落ちし、子供を2人産みます。
2人目を産むとき、豪雨の森で陣痛が始まり、
探しにきたダンナは、なんと毒蛇に噛まれて死亡。
彼女は子供2人を抱えて実家に帰ろうとします。
増水した河を渡れないので、
上の子を置いてまず赤ちゃんを向こう岸に渡します。
で、再び河に入ったら、赤ちゃんにタカが近づき、彼女は絶叫。
「母に呼ばれた」と思った上の子は、河に入ってしまいます。
片方で子供がタカにさらわれ、片方で子供が濁流に飲まれ、
それを彼女は河の中で叫びながら見ていたのです。
しかも、向かった先の実家は、落雷で全焼・家族全滅。
彼女は発狂。
そこでお釈迦さまに出会い、すべては無常だと知り、出家するのです。
よくぞここまで悲惨な設定を・・・と思える説話ですが、
古代インドでは、いや現代でも難民キャンプとかでは
似たような現実があるのでしょう。
「テーリーガーター」を読んでこれを思い出した。
「テーリーガーター」に出てくる尼僧たちは、
もと遊女だったり、何度結婚しても亭主に捨てられたり、
美人だったのが老いて醜くなっていったり、
差別されてバカ扱いされていたりします。
それは2000年後の今も女の人の住む世界、
Lady Sings The Blues であります。
続きは後日。
尼僧の告白―テーリーガーター 岩波文庫 青 327-2
釈尊百景7 福岡の謎の巨大涅槃仏
私の好きな涅槃仏は、日本ではどこにあるのだろう?
と探していたら、福岡・南蔵院というお寺に、こんなデカいのが。
ブロンズでは世界最大の涅槃像だそうです(平成7年建立)。
お寺のHPいわく、
完成の際にはビル・クリントンからも祝辞が、って、ますます謎です。
http://www.nanzoin.com/
南蔵院は真言宗だそうです。
にほんブログ村



