釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -177ページ目

女の宿命が痛い『尼僧の告白』その2

『尼僧の告白 テーリーガーター』の続きです。
昨日書いたのは、子供と夫を亡くした悲惨なパターチャーラーの話でした。
でもこの経典には、
もう少しライトだけれども普遍的な苦悩も告白されていて、
読んでいて「いたたたたた・・・」という気持ちになります。


◆ 男に捨てられる! イシダーシー尼 ◆


豪商の娘・イシダーシーは、結婚して夫や舅姑たちに懸命に仕えました。
でもなぜか夫に嫌われて、追い返されてしまうのです。


「時間に遅れることなく起きて、夫の住居に行き、入り口で手を洗い、
合掌して夫のそばに近づきました。
櫛と顔料と目薬と鏡を持っていって、婢女(はしため)のように
みずから夫を装飾しました。
このように、貞淑な態度で、夫に愛情をいだき、高ぶらず、
早起きで、怠けず、婦徳がそなわっていたのに、夫は私を憎みました」


ある日、夫が家を出て行ってしまいます。
父母が「いい嫁じゃないか。何が気に入らないのだ」と訊くと、
夫はこう答えます。


「かの女は何もわたくしを害したりしません。
しかしわたしはイシダーシーと共に住みたくないのです。
ただ、嫌いな女は、わたくしには用がないのです。許して下さい」


いたたた・・・・。
似たようなセリフ、私も男に言われたことがありましたな。
イシダーシーは、次の男にも、次の次の男にも嫌われて追い返されます。
「自殺するか出家するか」と考えた末に、仏の道に入ります。

現代でも、およそ愛だ恋だは、こんなもんであります。
何の落ち度がなくても憎まれたり、ひどい性悪でも愛されたり、
がんばってどうこうできるものではない。
人はまず、恋愛から無常と諦観を学ぶものですよねえ。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~


◆ 老いて醜くなる! アンバパーリー尼 ◆


アンバパーリーは、高級娼婦で大金持ちでした。
でも生きとし生けるものは、みんな老いていきます。


「昔はわたしの毛髪は、漆黒で、蜂蜜の色に似ていて、
毛の先端は縮れていました。
しかし今は老いのために、毛髪は麻の表皮のようになりました」
「わたしの両方の乳房は、昔は豊かにふくらんで円く、
均整がとれて上に向いていましたが、いまやそれらは、
水の入ってない皮袋のように垂れ下がってしまいました」


こういった嘆きがいくつも続きます。そして最後に、


「このように、より集まって出来ているこの身は、
老いさらばえて、多くの苦しみのむらがるところです。
それは塗料の剥げ落ちたあばら家です。
真理を語るかたのことばに誤りはありません」


コラーゲンを飲もうが、ボトックス注射をしようが、
ムダな抵抗というものですね。


ほかにも、
男に誘惑されて「目がきれいだきれいだ」と言われて、
「そんなに言うならお持ち帰りください」といって、
自分の目玉をえぐり出して渡すスバー尼など、
尼僧たちが生き生きと描かれています。


ただちょっと気になる点が一つ。テーリーガーターは、
「欲望がいかに人を苦しめるか」
「一見美しい身体が、糞尿に満ちた、
いかに不浄な牢獄であるか」が、
過剰なほどに繰り返し説かれています。


もちろんそれは、仏教の教えどおりなのですが、
なんとなく男目線を感じないでもない。
つまり、
『尼僧の告白』を男性の比丘たちが読んで、
「だから不浄な女体に、くだらない欲望を持つなよ!」
と自ら言い聞かせるのにも使われた気がしたのでした。



すべての女性に読んでほしい『尼僧の告白 テーリーガーター』

初期仏典『尼僧の告白 テーリーガーター』(岩波文庫)を読みました。
これは、すべての女性、いや男性にも読んでいただきたい。
私が女だからかもしれませんが、
初期仏典の中でも胸に沁みる経典の一つでした。


「若き尼よ。幸せに眠れ。――(そなたの)作った衣を身にまとったまま。
 そなたの欲情は静まっている。―― 瓶の中の枯葉のように。」


この美しい冒頭で、ちっとも若くない私も、まずやられました。

たとえば、子供に死なれた母親に、私たちは何を言えるでしょうか。
子供を失った500人の母親の前で、
パターチャーラー尼はこのように説きます。


「その子が来たりまた去って行った道をそなたは知らず、
またその子がどこから来たのかも知らないのに、
<わが子!>といって、そなたは泣き悲しむ。


しかし、その子が来たりまた去って行った道を、
そなたが知っているならば、そなたはかれのために悲しまない。
けだし、生きとし生けるものとは、
そのような定めをもっているのである


請われないのに、かれは、そこからやって来た。
また許しを得ないのに、かれは、ここから去っていった。
― どこからかやって来て、数日間住んだあとで。―


かれは、ここから、一つの道を通ってやって来た。
かれはそこから、他の一つの道を通って行くであろう。
人間のかたちをとって死んで、輪廻しつつ過ぎ去るであろう。


来たときのようなすがたで、去って行った。
そこに何の悲嘆をする要があろうか。」



「永遠にみんなの心のなかで生き続けるのです」
「天国から、みんなのことを見守っていますよ」とかなんとか

適当ななぐさめは言わないのです。

生きとし生けるものとは、
そのような定めをもっているのである」。
「そこに何の悲嘆をする要があろうか
」。
この恐ろしくも厳しい、正しい認識よ。




◆パターチャーラーの悲惨すぎる説話


このパターチャーラー尼は
とんでもない悲惨を背負った人でした。
(ドラマや歌にもなった仏教説話の有名人です)


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  
発狂して裸でさまようパターチャーラーさん


彼女は富豪の娘でしたが召使と駆け落ちし、子供を2人産みます。
2人目を産むとき、豪雨の森で陣痛が始まり、
探しにきたダンナは、なんと毒蛇に噛まれて死亡
彼女は子供2人を抱えて実家に帰ろうとします。


増水した河を渡れないので、
上の子を置いてまず赤ちゃんを向こう岸に渡します。

で、再び河に入ったら、赤ちゃんにタカが近づき、彼女は絶叫。

「母に呼ばれた」と思った上の子は、河に入ってしまいます。


片方で子供がタカにさらわれ、片方で子供が濁流に飲まれ、
それを彼女は河の中で叫びながら見ていたのです。
しかも、向かった先の実家は、落雷で全焼・家族全滅
彼女は発狂。
そこでお釈迦さまに出会い、すべては無常だと知り、出家するのです。


よくぞここまで悲惨な設定を・・・と思える説話ですが、
古代インドでは、いや現代でも難民キャンプとかでは
似たような現実があるのでしょう。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  昔買った、女性歌手たちのブルース・ソングブック。

                  「テーリーガーター」を読んでこれを思い出した。


「テーリーガーター」に出てくる尼僧たちは、
もと遊女だったり、何度結婚しても亭主に捨てられたり、
美人だったのが老いて醜くなっていったり、
差別されてバカ扱いされていたりします。
それは2000年後の今も女の人の住む世界、
Lady Sings The Blues であります。


続きは後日。



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尼僧の告白―テーリーガーター 岩波文庫 青 327-2

釈尊百景7 福岡の謎の巨大涅槃仏

私の好きな涅槃仏は、日本ではどこにあるのだろう?

と探していたら、福岡・南蔵院というお寺に、こんなデカいのが。

ブロンズでは世界最大の涅槃像だそうです(平成7年建立)。


お寺のHPいわく、

完成の際にはビル・クリントンからも祝辞が、って、ますます謎です。


釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~


http://www.nanzoin.com/
南蔵院は真言宗だそうです。



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