人間関係の悩みが消える「九無悩」 『十上経』
「長阿含経」の10・11・12目のお経、
「十上経」「増一経」「三聚経」を読みました。
この3つは、「一つには」「二つには」と、
お釈迦さまの教えを整理したものです。
ストーリー性がないので、面白くはありません。
ですがその中で、頭に叩き込んでおこう、
と思った印象的な一節がありました。
「十上経」「三聚経」の両方に出てきます。
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九つの増進すべきことがらとは、
九つの”悩みを持たないこと”。
「彼は私を侵害したが、私が悩んで何になろう」と、
すでに悩みを生ぜず、いま悩みを生ぜず、将来悩みを生じないであろう。
「私が愛する人を彼は苦しめるが、私が悩んで何になろう」と、
すでに悩みを生ぜず、いま悩みを生ぜず、将来悩みを生じないであろう。
「私が憎悪する人を彼は大切にするが、私が悩んで何になろう」と、
すでに悩みを生ぜず、いま悩みを生ぜず、将来悩みを生じないであろう。
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(『現代語訳 阿含経典』 訳:辛嶋静志 より)
漢訳で「九無悩」というこの教え、
人間関係のどうでもいい悩みを
きれいに消し去ってくれると思いませんか?
たとえば職場で。
くだらない上司に嫌味ばかり言われても、
かわいがってる後輩が部長と不倫して泣いていても、
口がうまいだけの憎らしい同期が先に出世しても、
「私が悩んで何になろう」。
もし人間関係のもろもろでムカっ腹が立ってきたら、
この言葉を思い出せばいい。
「私が悩んで何になろう」。
仏教と全然関係ないですが、
今日行った、「ロトチェンコ展」(東京都港区・庭園美術館)は、
すごくよかったです。
ロシア構成主義ってかっこいいな~。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/rodchenko/index.html
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帝釈天の葛藤 「釈提桓因問経」その2
ひきつづき、
『現代語訳 阿含経典 長阿含経』(末木文美士ほか訳)第3巻より、
「釈提桓因問経」(しゃくだいかんいんもんきょう)(訳:丘山新)です。
このお経は帝釈天が、お釈迦さまに会いにいくお話ですが、
帝釈天が心情を吐露する場面があります。
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仏は帝釈に告げられた。
「おまえは、むかし心からの喜びを得た時のことを憶えているか」
帝釈、答えて、
「はい、世尊よ、むかし得た心からの喜びを憶えております。
世尊よ、私はむかし阿須輪と戦い、そして私が勝ち、
阿須輪は敗れました。
私はそこで宮殿にもどり、心からの歓喜を得たのでございます。
しかしこの心からの歓喜をよくよく考えてみますと、
ただ穢れきった武器による喜び、闘争による喜びだけでした。
ところが、いま私が仏より得ました心からの
喜びには武器や闘争による喜びはございません」
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帝釈天といえば、インド神話、リグ・ヴェーダの
武神・軍神として崇められてきました。
その帝釈天が、「穢れきった喜びだった」と吐露しているのだから
これは大変なことです。
もろもろの点で、この「釈提桓因問経」は読み応えがありました。
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仏典には珍しい男と女のラブソング『釈提桓因問経』その1
14番目のお経「釈提桓因問経」(しゃくだいかんいんもんきょう)(訳:丘山新)
を読みました。
(パーリ語仏典だと長部経典(ディーガニカーヤ)第21経の
「サッカパンハ・スッタンタ」が対応します)
「釈提桓因」は、パーリ語の「神々の帝王であるシャクラ」の音に漢字を当てたもので、
つまりこのお経はシャクラ=帝釈天=インドラ神にまつわるお経です。
帝釈天がお釈迦さまを訪ねて、「この世界はなぜ争いが絶えないか」を問う、
という内容です。
この「釈提桓因問経」は、なかなかドラマチック。
そして珍しいお経だそうです。
というのは「男女の愛情」を歌う甘美な詩が織り込まれていて、
「これほど美しく男女の愛を歌ったものは仏典では珍しい」
と本書は解説しています。
お話はこうです。
お釈迦さまがマガダ国の毘陀山の石窟にいたとき、
帝釈天に誘われて、まず音楽神の般遮翼(はんしゃよく)が
先にお釈迦さまのところに行きます。
彼は跋陀(ばっだー)という天女に恋をしていて、
瑠璃の琴を奏でながら跋陀へのラブソングを美しい声で歌います。

帝釈天に仕える音楽神楽団「ガンダルヴァ(乾闥婆)」というのがいて、
その王・ティンパルの娘が跋陀だそうです。
(画像は興福寺の乾闥婆)
(抜粋)======================
釈尊は菩提心を発せし時
必ずや正覚を完成せんと願えり
我いま彼(か)の娘を求めるに
必ずや成就せんと願うこと また同じ
我が心 愛著に染まり
汝を愛して 忘れることなし
忘れんと願えども ついに去(す)てることあたわず
あたかも象が鉤(かぎ)につながれたるがごとし
(汝に出会えばそれは)
あたかも清涼なる池に
いと多き花 浮かびて水面を覆えるに
烈しく焼かれたる象が沐浴し
からだごと清涼を得るがごとし
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※以下、「キミが死んだらオレも死ぬ!」といった
パッショネイトな歌が続く。
要は、「仏が悟りを求める」という思いと同じように、
自分が彼女を求める、と歌っているわけです。
えっ、このような渇愛は煩悩であり苦のもとであって、
仏教では唾棄すべきものではなかったの?
と思うじゃないですか。
ところが般遮翼の歌を聴いたお釈迦さまは、
「おお、なんとすばらしいことだ」とお褒めになるのです。
いわく、彼の歌には、悲哀と優しさと如来への称賛と、
多くの意味がこもっていて、人を感動させる、と。
不徹底といえば不徹底なのかもしれませんが、
このへんの、スクウェアにバッサリと断罪しない感じが、
仏教の豊穣さに思えて、私は好きです。

「瑠璃の琴」って、ラピスラズリでできた琴ですよね? どんな音がでるのか?
ちなみに、上記のラブソングについて、
脚注に面白いことが書いてありました。
「必ずや成就せんと願うこと」(漢訳:必欲会亦爾)の「会」は、
パーリ本にはmissi-bhava(=sexual intercorese)と書かれているそうで、
直訳すれば「(彼女と)必ずSEXしたい」ですよねぇ。
「おそらくは訳者(漢訳者)が露骨な表現を嫌って
『会』=かなう、一致する=という語を用いたものであろう。
仏教をも含めて、インド人は一般に男女の性に関することを
平気で口にするが、中国ではこのような描写を嫌悪したことによる」
と解説されています。
参考文献として、中村元先生の論文「仏典漢訳に影響を及ぼした儒学思想」
が挙げられていますが。
実はインド版経典にはセクシャルワードがちりばめられているのかも?
さすが、「カーマスートラ」でありとあらゆる性交体位を解説した
古代インドだけのことはあります。
続きは後日。
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Gandharva Veda Musicという、
こんな音楽がネットにあったけど・・・。
音楽神が奏でたのはこれに似ているのだろうか。
