釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -172ページ目

解説だけで感動の嵐。増谷版「阿含経典」その1

ミリンダ君は1巻でしばらく放り投げて、
名著と評判の『阿含経典』(増谷文雄訳・筑摩書房)第1巻を
いよいよ読み始めました。


まだ、冒頭の増谷先生の解説部分だけですが、
早くも感動の嵐!


1巻は、最初の4分の1(88P)が解説なのですが、
阿含経典とは何か、結集(経典編纂)はどのように行われたか、
その文学的形式は・・・などについて、
平易な言葉で、誰にでもわかるように解説してくれています。


原始経典といえども加筆・修正によって変遷してきたものです。
その中で「お釈迦さまが本当に言いたかったことは何か?
を追い求める増谷先生の姿が伝わってきて
解説にも感動してしまったのです。


阿含経典は、パーリ語版・漢訳版ともいくつかに分けられます。

<パーリ五部>
長部・中部・相応部・増支部・小部

<漢訳四阿含>
長阿含・中阿含・雑阿含・増一阿含


増谷先生は、そのうち「相応部」(漢訳の雑阿含)にこそ、
お釈迦さま本来の教えにもっとも近くて重要なものだと
結論づけます。

例えば長部の傑作「大涅槃経」(お釈迦さまが亡くなるまでの
ロードムービー的お経)を、増谷先生が細かく解析したら、
「相応部」などから30数経を引いて編集されていることがわかって
おどろいたそうです。


だから増谷訳4巻は、相応部・雑阿含を中心に
現代語訳されています。
(岩波文庫の中村元訳「スッタニパータ」や「ダンマパダ」は
小部15経のうちに分類されます)


今後、しばらくは、この増谷本のことを
しつこくブログに書き連ねそうです。


日本で流行りの「般若心経」「歎異抄」を読むのもいいですけどね、
いっぺん「阿含経典」読んだほうがいいと思いますよ。いやホント。

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人生は苦と言いつつ究極は楽観的(ミリンダ王)その5

もろもろのことに放逸であってはならぬ」という
お釈迦さまの教えを大々的に破って、
昨晩・一昨晩と放逸に酒を飲み狂っており、
ブログもかけませんでした。
仏典読む前に酒やめろ、という話です。


『ミリンダ王の問い』1巻をやっと読み終わった。
最後に、覚えておきたい本文、または中村元先生の解説を、
Tips的にメモっておきます。脈略もない引用ですが。


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第一編第一章第十 智慧を助けるものーー信仰


(サンユッタ・ニカーヤ」にも登場する詩句)


人は信仰によって激流を渡り、
勤勉によって海を渡る。
精励(精進)によって苦しみを越え、
智慧によって全く清らかになる



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  ガンジス河


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第一編第三章第六 無霊魂説


※「霊魂」についての解説


原始仏教においては一般に、霊魂の問題は人間の思惟能力を
超えたものという理由で、それに関する判断をくだすことを拒否した

ところが、ナーガセーナの時代は霊魂が存在しないとの理由で、
この問題の解答を拒否した。注目してよい事実であろう」


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第一編第四章第四 修行の時機


「大王よ、時が到来してはじめてなされる努力は、
実はなすべきことをなさないのです。
あらかじめなされる努力こそ、なすべきことをなすのです」


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第一編第六章第二 ブッダの教説の実践的性格


※法を医薬に例えている部分についての解説


「仏教はもともと実践哲学であり、しばしばみずからを
医術にたとえている」
仏教の説く四つの真理(四諦)の説は、当時の医学から
思いついたものだろうと推定され、
それらはそれぞれ
・診断(=苦諦=人生は苦である)
・病気の成因(=集諦=苦の原因は執着である)
・予後(治癒の見通し=滅諦
          =執着を断ち苦を滅した涅槃の世界がある)
・治療(=道諦=涅槃に至る実践法)
に比せられる。


因縁の原語(nidana)はまた病理(Pathologie)を意味する語であり・・・


仏教はひとりインド医学のみならず、
またギリシャ医学との類似さえ認められる。
仏教の縁起説の根本趣意は、
「これがあるとき、かれがあり、これが生ずるが故にかれが生ずる。
これがないとき、かれがなく、これが滅するが故にかれが滅する」
といういうことであったが、
ギリシャの医聖ヒポクラテスがなした病因の定義は、
次のごとくであった。
『それらが存在するときに、それ(病気)がかくのごとくに起こる
にちがいないところのものを、病気の原因とみなさねばならぬ』と。」



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~


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第一編第七章第二 念仏によるすくい


「百年間も悪を行っても、臨終にひとたび仏を念ずることを
得たならば、その人は天上に生ずることができるであろう」
すでに、浄土教の萌芽が見られる)」


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第一編第七章第六 功徳の増大による救い


「尊者ナーガセーナよ、<善を行った果報としての>福と、
<悪を行った果報としての>禍いとでは、どちらが大きいですか?」
大王よ、福は大きく、禍いは小です


※これについての解説
「インド人はわれわれのなした悪をも、宗教的な功徳によって
消却できると考え、また、人間は善の方へ赴く可能性が大きいのであり、
人間の究極の運命についてはきわめて楽観的に考えていたといい得るであろう。
これはインド思想が厭世思想を説くにもかかわらず、
究極において著しく楽観的であるという特徴に対応するものである。
またインドの戯曲には、ギリシャのそれと異なって、
悲劇がないという事実ともあわせて考えるべきであろう」

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特に、最後の「インド思想は、実は底抜けに楽観的」という話は、
とても面白かったです。

人生は苦だ!身体は不浄だ!もう二度と生まれたくない!
と厭世を連呼している仏教で、なぜ私はハッピーになるのか?
不思議といえば不思議だったのですが、
仏教の底流に「人間は善」という楽観があるんでしょうね~。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  だからインド映画はみんな底抜けにハッピーなのか?



ああ、「ミリンダ王」2巻3巻を読み終わるのはいつになることやら・・。


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なぜ人は平等ではないのか(ミリンダ王 その4)

なぜ仏教はインドで滅びてしまったのか?
という疑問がずっとありました。


お釈迦さまは、バラモン教の四姓を否定して、
「人間は平等だ」という思想を、
世界史的にみて驚異的な早さで確立したわけでしょう。

それを捨てて、ヒンズー教のカースト制に戻ってしまったのは
なぜなんだろう?

もしかして、仏教の教えの中に、なにか弱点があったのでは?

その疑問のヒントになる記述が、『ミリンダ王の問い』の中に
出てきました。
仏教学者なら答えは明白なのかもしれませんが、
私には発見であったのです。


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<第一篇 第四章 第三 人格の平等と不平等>


王は問う、
「尊者ナーガセーナよ、いかなる理由によって
人々はすべて平等ではないのですか?
(長命・短命、容姿の美醜、生まれの貴賎など)

(中略)

「大王よ、<宿>業の異なることによって、人々はすべて平等ではないのです。
(中略)
世尊はこのことをお説きになりました。
―『バラモン学生よ、生けるものどもは、それぞれ各自の業を所有し、
業を相続するものであり、業を母胎とし、業をよりどころとしている。
業は生けるものどもを、賤しいものと尊いものに差別する』と

「もっともです、尊者ナーガセーナよ」
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つまり、生まれが賤しい・顔が醜い・病弱である、などの人は、
前世に悪いことをしたからだ、というわけです。

この節に対して、中村元先生は以下のように解説しています。


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(抜粋)

(当時の)インドでは業の観念が有力であって、一つの運命的なものとして
受け入れられていた。かかる業の社会思想史的意義は、むしろブッダによって
明らかにされた業説と逆方向をたどるものであった


この点、マウリヤ王朝の崩壊とともにバラモン教が再興し、
カースト制度が徐々に復活し始めた時流にたいして、
仏教が業説を本来の立場において生かしえず、
ただ輪廻と因果応報との観念だけから説明したことを示す。


仏教は、ブッダ以来、人間の平等、階級や身分制度の撤廃を主張し、
インド思想史上、画期的な教えを主張した。
仏教は対社会への実現にもっとも努力したが、
ナーガセーナの時代はインドの封建的社会の事情が、
仏教の人間平等観を受け入れるにはあまりに根強かったので、
本節に見るような社会事情に適合した説き方をせざるをえなかった。

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また、「新仏教辞典」の「業」の項には、こう書いてあります。

本来は未来に向かっての人間の努力を強調したものであるが、
宿業(前世につくった業)説などになると、それとは逆に
一種の宿命説におちいったきらいがある


要するに、「業」説は、両刃の剣なんだと思います。
「来世のために善行を積む」という倫理的教義であると同時に、
「前世の業だから仕方ない」という差別の温床に、やすやすと転じてしまう
だって論理的には矛盾しないですものね。


「ミリンダ王の問い」の第一編が書かれたのは紀元前1世紀頃らしいので、
かなり早い段階で転じてしまったわけですねえ。
これはカースト制を否定するどころか、強化する論理になりますよね。

オウム真理教では、
「業=カルマの浄化」だと言って熱湯風呂に信者をブチ込んだりしました。
「悪業を積む者を生かしておくと、もっと悪いことをして、
カルマによって来世苦しむから、その前に殺してやるのは救済なんだ」
といってポア=殺害を正当化しました。


「業」説は曲解されやすいという意味で、仏教の弱点ではないでしょうか。
でも一方で、わかりやすい「因果応報」説がなければ、
庶民に仏教が広がらなかったかも・・・。



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