出世や名声は恐ろしく苦々しい(阿含 その4)「釣針」
職場の男性たちと話していると、
なんだかんだいって出世したいものなんだなぁ、
と驚くことがあります。
でね、出世について「ふーん、別にどうでもいいんじゃない?」
みたいな顔をしていると、労働現場ではけっこう顰蹙なのですよ。
負け惜しみと言われてるのかもしれない。
私は出世はめんどくさいけど、
お金は、安心のためにそこそこ欲しいです。
それについての厳しいお経。
阿含経典相応部の「恐ろし」(相応部 17、1)、
「釣針」(相応部 17、2)と題されたお経です。
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そこで、世尊は説いて仰せられた。
「比丘たちよ、利養と名声とは、恐ろしく、苦々しく、
苛酷なものであって、
最高の安穏に到達する障礙である。
比丘たちよ、それはちょうど、一人の漁師があって、
肉を餌としてつけた鉤を深い沼に沈めたとき、
一匹の魚が、それを見てパクリと鵜呑みにしたようなものである。
そうすると、その漁師の鉤を呑んだ魚は、災難にあい、
破滅におちいり、漁師の思うがままにならねばならない。
されば汝らはこのように学ぶがよい。
<わたしはすでに生じた利養と名声を捨てよう。
いまだ生ぜざる利養と名声には心を捉われないようにしよう」と。」
(「釣針」より)
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利養と名声・・昇進や昇給や業界有名人になることは、
恐ろしく、苦々しく、苛酷なもの。窓際に幸あれ。心していこう。
トタンと段ボールでつくった仏像展
東京で、大変にアバンギャルドな仏像展が2つ開かれています。
ひとつはトタン板仏、もうひとつはダンボール仏。
(6月23日の朝日新聞夕刊に出ていたので
知ってる方もいると思いますが)
◆秋山祐徳太子個展「高貴骨走」
2010年5月28日(金)~6月27日(日)
祐徳太子さんは、その筋では有名なハプニングアートの怪人。
今回初めて展示される「ダリコ佛」は、
トタン板製で光背のかわりに日の丸を背負い、
台座はなんと発砲スチロールだそうです。
新宿区住吉町 アイショウミラアーツ
最終日27日 13時頃から17時まで太子御大が
お出ましになるとか。
秋山祐徳太子さん公認ブログ
http://yutokutaishi-akiyama.blog.so-net.ne.jp/
◆本堀雄二 -紙の断層 透過する仏-展
2010年6月1日(火)~6月28日(月)
本堀雄二さんて、私は知らなかったのですが関西の方らしい。
今回展示される「BUTSU」は
なんと使用済み段ボールで作られているそうです。
しかも段ボールの向きを揃えているので
向こうが透けて見えるうえ、
薬師如来なんか天上から糸で吊られて虚空に浮いている!
京橋・INAXギャラリー
■ 休館日 日祝日
■ 開館時間10:00~18:00
■ 観覧料無料
http://www.inax.co.jp/gallery/contemporary/detail/d_001608.html
※写真、勝手に転載。宣伝なのでどうかお許しを。
もうじき終わっちゃいますが、こういう仏さま、いいよね。
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釈尊自身が悟りの瞬間を語った「城邑」 (阿含経典 その3)
お釈迦さまの悟りの瞬間はどんな感じだったのでしょう?
それをお釈迦さま自らが回想するという、
釈迦ファン垂涎のお経が存在するんですね~。
「城邑」(Nagara)というお経です
(パーリ語相応部12、65/漢訳雑阿含経12、5)。
詳しい方は知ってるのでしょうが、
私は去年別の本で読んで感動し、
今回、増谷幸雄訳『阿含経典』1巻にも登場したので
長めにメモしておこうと思います。
「なぜ苦しいのか」を何年も何年も考え続けた末に、
「わかった!」という法悦の瞬間がリアルに描かれています。
まずお釈迦さまは、
辛い修行時代のことを弟子たちに語り始めます。
「比丘たちよ、むかし、わたしは、まだ正覚をえなかった
修行者であったころ、このように考えた。
<この世間はまったく苦の中に陥っている。
生まれては老い衰え、死してはまた再生する。
しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。
まったくどうしたならば、この老いと死の苦しみを出離
することを知ることができようか>と」。
そして菩提樹の下で・・・
「比丘たちよ、その時、わたしには正しい考え方によって
智慧による悟りが生まれてきた。
<生があるゆえに老死があるのである>と。」
このひらめきから「ではなぜ生があるのか」と
矢継ぎ早にさかのぼっていったお釈迦さまは、
ついに「老死→生→有→取・・・名色→識」という
苦の根本原因、つまり縁起を発見(発明?)するのです。
(※このお経では、行・無明のない十支縁起)
「これがすべての苦の集積のよりてなる所以である、と」
「比丘たちよ、<これが生起である、これが生起である>と、
わたしは、いまだかつて聞いたこともないことにおいて、
眼をひらき、智を生じ、慧を生じ、明を生じ、光を生じた」
今度は、「何を滅すれば老死を滅するか?」と縁起を逆走し、
苦の根本解決を知るに至ります。
「比丘たちよ、<これが滅である、これが滅である>と、
わたしは、いまだかつて聞いたこともないことにおいて、
眼をひらき、智を生じ、慧を生じ、明を生じ、光を生じたのである」
「比丘たちよ、たとえば、ここに人ありて、人なき林の中をさまよい、
ふと、古人のたどった古道を発見したとするがよい。
その人は、その道にしたがい、進みゆいて、古人の住んでいた古城、
園林があり、岸もうるわしい蓮池がある古き古城を発見したとするがよい」
「わたしは過去の正覚者たちのたどった古道・古径を発見したのである」
ありがとう! スジャータ村の祠。
このお経「城邑」は、パーリ語・阿含「相応部」の「因縁編」に
おさめられています。
「因縁編」は縁起に関する77経もがあり、
繰り返し繰り返し繰り返し縁起を説いていて、
正直、そんなに面白くはないです。
でもその中で、「城邑」には感動しまくりでした。
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