佐々木閑最新刊 『生物学者と仏教学者 七つの対論』
「阿含経典」増谷訳の2巻を読み終わったので、
少し仏典を休んで、
最近の書を1冊はさむことにしました。
その本とは、『生物学者と仏教学者 七つの対論』
(09年11月、斎藤成也・佐々木閑著、ウェッジ選書)です。
出ました、理屈っぽい私の好きな佐々木先生。
斎藤成也さんは、遺伝子研究のすごい人(1957年生まれ)。
(国立遺伝学研究所教授、総合研究大学院大学遺伝学専攻教授、
東京大学大学院生物科学専攻教授)。
『遺伝子は35億年の夢を見る』『ゲノム進化学入門』などの本を
たくさん書いています。
遺伝学者なのに、愛読者が『ミリンダ王の問い』なんですって!
斎藤先生。この写真はヤバい。マッドサイエンティスト風。
佐々木閑さん(1956年)は、花園大学教授で主に初期仏教の研究者。
ゴリゴリの合理主義者で釈迦原理主義者です。
科学と両立できる唯一の宗教が釈迦仏教、と主張し続けています。
先日の講演でも、「釈尊が説いたのは、要は脳の改良システム」
などと言っていて、私はその通りだと思いますが、
こういう物言いがイマイチ仏教界で好かれてない気配も感じます。
高校時代からの友達だというこの2人が
「物質と精神」「意識と無意識」「生と死」
などのテーマについて、それぞれの立場で執筆し、
最後に対論するという趣向です。
ね、面白そうでしょ!!!?
「科学では解き明かせないことがある」という言い方があります。
思考停止の言い訳として使われるとき、私はこの言葉が大嫌いです。
お釈迦さまほど、徹底的に思考する人はいなかった。
佐々木先生の「まえがき」にこう書いてあります。
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「科学は進み、宗教は衰える」といった前世紀的な通念がなんとなく
古くさく感じられ、かといって「これからは宗教復権の時代だ」などと
声高に叫ぶほどの純朴さもないこれからの時代、
「真に合理的である」ためには、「科学的に物を見る」ことと、
「一貫した死生観を持ちながら人生を全うする」ことが
両立できるような立脚点が必要となってくる。
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これから何度かのブログは、この本の備忘録になるでしょう。
楽と苦とを、ただ超然として受ける(阿含経典 その6)「熟慮」
え~、昨日書きました「歓喜してもダメなのか?」
ということなんですけど。
眼・耳・鼻・舌・身・意に楽しい快いことは、
執着につながるから近寄るべきでなのか?
阿含経典には何度も「厭い離れておれ」と書かれているけれど、
それは人生としてつまらなくないか?
以前Nスペで見たタイの修行僧は、
托鉢でもらった食べ物を「美味しい」と感じた自分を
責めていました。
「美味しい」「不味い」と感知する自分はダメなのではないか、と。
今年のウェーサーカ祭で、スマナサーラ長老は
法話の中でこんなお話をされました。
(記憶なので表現は少し違いますが)
「『ああ、きれいな人だ』と思う。これはいいんです。
でも(感情を込めて)
『うっわ~、きれいな人だ! 私はあの人、大好きです!!』
こうなったら執着です。
いいなと思うのと、執着は、ほんとに微妙な違いなんですね」
「私もね、”この映画観たいな”と思って、
DVDを買っちゃったりするんですけどね。
でも買うと、めんどくさくなって、観ないんですね。
だから私の家、ビニールも空けてないDVDがいっぱい。
お金もったいないね。 でもいいんです。
観たいから買ったけど、観たくなくなったから観ないで
ころがしておくんです」
長老は、ちゃんと観衆の笑いを取るから偉いな。
で、私はこのお話を聞いて、それこそ歓喜したのでした。
きれい、美味しい、心地よい等と感知するのはOK。
感知しても執着しないことは可能だ。
長老のお話は、つまりそういうことですよね?
それがアリなら、
よし、美しいけれど苦しくない人生を目指すぞ、
と思ったわけなんです。
以下、「阿含経典」増谷訳1巻、
「熟慮」(相応部12,51「思慮」)より。
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「彼は、もし彼が楽しいことを感受しても、
それは無常であると知り、取著すべきものではないと知り、
享受すべきものではないと知る。
もしまた、彼が苦しいことを感受しても、
それは無常であると知り、取著すべきものではないと知り、
享受すべきものではないと知る。
彼は、もし楽しいことを感受すれば、超然としてその感受を受ける。
もし苦しいことを感受すれば、また超然としてその感受を受ける。
またもし、楽しいことでも苦しいことでもないことを感受すれば、
また超然としてその感受を受けるのである。
彼は、また、その身の堪える限りの感覚を受けながら、
ただ<わたしはわが身の堪える限りの感覚を受けている>と知り、
そして、ついにその身の壊するに及んでは、
<わたしはいまわが命を終るのであるが、
これで一切の感覚を受けることはおわり、
もはやなにごとを享受することもなく、
わが身は冷たくなって、ここに遺骸となって横たわるのみである>
と知るのである」
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「歓喜するけど執着せず」は可能か(阿含経典 その5)
『阿含経典』(増谷文雄訳)第2巻を、ほぼ読み終わりました。
1巻・2巻と読んで、これが文庫化されない理由がわかりました。
1巻は縁起、2巻は五蘊に関するお経が何十経も集めてあって、
表現は違えど中身はほぼ同じ。
これは一般の人が読んでも飽きちゃうわ。
その繰り返しぶりに口伝の阿含経典の妙味があるわけですが。
2巻は五蘊(色・受・想・行・識)についてのお経集です。
これらが無常であり無我であり苦であることが、
繰り返し説かれます。
それはわかるんだけど、
ここで私にとって大問題が発生します。
それは「歓喜しちゃダメなのか?」ということです。
「歓喜はするけど執着はしない」は不可能なのか?
たとえば、仏典にはこう説かれています。
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「受に歓喜し、喜びの声をあげて、縛り付けられるのである。
彼には喜心が生ずる。
受における喜びは、それは取(取著、執着)である。
取あるによって彼には有(存在)が生ずる。
有あるによって生が生じる。
生があるによって老死が生じ、愁・悲・苦・憂・悩が生じる。
かくのごときが、すべてこの苦の生ずるところである」
(相応部 22、5 「三昧」)
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色・受・想・行・識すべてについて、同じフレーズが繰り返されますが、
受がいちばん私にとって問題なので受で書きました。
喜びは執着=苦の元凶、これは仏教でよく出てくる教えです。
受=感受作用=例えば、
おいしいものを食べて「わぁ美味い!」とか、
ロックを聴いてノリノリになって踊るとか、
いい映画を観て泣くとか。
それらの「歓喜」はみんな執着の元凶でタブーなの?
これに対して、2つの態度があるとします。
A)ノリノリになって歓喜を発生させるような音楽は、聴かない。
B)聴けばノリノリになるが、別にも無音でも心は満たされている。
A)が「歓喜→必ず執着」説
B)が「歓喜しても執着しないことは可能」説です。
お釈迦さまの教えは、A/Bどちらなの?
諸先輩がた、教えてください。
美味しいものにもノレる音楽にも泣ける映画にも
近寄らなければ、そりゃ心は平和で清涼でしょう。
でもそんな人生、面白いか?
という疑問がムクムクと沸いてしまうのです。
「面白い」と「平穏」はトレードオフなのか?
実はこれについて、
スマサーラ長老が先日の法話で面白いことを
おっしゃっていたのですが、それはまた後日。
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