釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -169ページ目

佐々木閑最新刊 『生物学者と仏教学者 七つの対論』


「阿含経典」増谷訳の2巻を読み終わったので、
少し仏典を休んで、
最近の書を1冊はさむことにしました。


その本とは、『生物学者と仏教学者 七つの対論』
(09年11月、斎藤成也・佐々木閑著、ウェッジ選書)です。

出ました、理屈っぽい私の好きな佐々木先生。


斎藤成也さんは、遺伝子研究のすごい人(1957年生まれ)。
(国立遺伝学研究所教授、総合研究大学院大学遺伝学専攻教授、
東京大学大学院生物科学専攻教授)。
『遺伝子は35億年の夢を見る』『ゲノム進化学入門』などの本を
たくさん書いています。
遺伝学者なのに、愛読者が『ミリンダ王の問い』なんですって!
釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
 斎藤先生。この写真はヤバい。マッドサイエンティスト風。


佐々木閑さん(1956年)は、花園大学教授で主に初期仏教の研究者。
ゴリゴリの合理主義者で釈迦原理主義者です。
科学と両立できる唯一の宗教が釈迦仏教、と主張し続けています。
先日の講演でも、「釈尊が説いたのは、要は脳の改良システム」
などと言っていて、私はその通りだと思いますが、
こういう物言いがイマイチ仏教界で好かれてない気配も感じます。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  佐々木先生。いつも色シャツに細ネクタイ。


高校時代からの友達だというこの2人が
「物質と精神」「意識と無意識」「生と死」
などのテーマについて、それぞれの立場で執筆し、
最後に対論するという趣向です。
ね、面白そうでしょ!!!?


「科学では解き明かせないことがある」という言い方があります。
思考停止の言い訳として使われるとき、私はこの言葉が大嫌いです。
お釈迦さまほど、徹底的に思考する人はいなかった。


佐々木先生の「まえがき」にこう書いてあります。
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「科学は進み、宗教は衰える」といった前世紀的な通念がなんとなく
古くさく感じられ、かといって「これからは宗教復権の時代だ」などと
声高に叫ぶほどの純朴さもないこれからの時代、
「真に合理的である」ためには、「科学的に物を見る」ことと、
「一貫した死生観を持ちながら人生を全うする」ことが
両立できるような立脚点が必要となってくる

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これから何度かのブログは、この本の備忘録になるでしょう。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ 生物学者と仏教学者 七つの対論 (ウェッジ選書)


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楽と苦とを、ただ超然として受ける(阿含経典 その6)「熟慮」

え~、昨日書きました「歓喜してもダメなのか?」
ということなんですけど。
眼・耳・鼻・舌・身・意に楽しい快いことは、
執着につながるから近寄るべきでなのか?


阿含経典には何度も「厭い離れておれ」と書かれているけれど、
それは人生としてつまらなくないか?


以前Nスペで見たタイの修行僧は、
托鉢でもらった食べ物を「美味しい」と感じた自分を
責めていました。
「美味しい」「不味い」と感知する自分はダメなのではないか、と。


今年のウェーサーカ祭で、スマナサーラ長老は
法話の中でこんなお話をされました。
(記憶なので表現は少し違いますが)


「『ああ、きれいな人だ』と思う。これはいいんです。
  でも(感情を込めて)
 『うっわ~、きれいな人だ! 私はあの人、大好きです!!』
  こうなったら執着です。
  いいなと思うのと、執着は、ほんとに微妙な違いなんですね」


「私もね、”この映画観たいな”と思って、
 DVDを買っちゃったりするんですけどね。
 でも買うと、めんどくさくなって、観ないんですね。
 だから私の家、ビニールも空けてないDVDがいっぱい。
 お金もったいないね。 でもいいんです。
 観たいから買ったけど、観たくなくなったから観ないで
 ころがしておくんです」


長老は、ちゃんと観衆の笑いを取るから偉いな。
で、私はこのお話を聞いて、それこそ歓喜したのでした。
きれい、美味しい、心地よい等と感知するのはOK。
感知しても執着しないことは可能だ。
長老のお話は、つまりそういうことですよね?


それがアリなら、
よし、美しいけれど苦しくない人生を目指すぞ、
と思ったわけなんです。


以下、「阿含経典」増谷訳1巻、
「熟慮」(相応部12,51「思慮」)より。

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「彼は、もし彼が楽しいことを感受しても、
それは無常であると知り、取著すべきものではないと知り、
享受すべきものではないと知る。
もしまた、彼が苦しいことを感受しても、
それは無常であると知り、取著すべきものではないと知り、
享受すべきものではないと知る。


彼は、もし楽しいことを感受すれば、超然としてその感受を受ける
もし苦しいことを感受すれば、また超然としてその感受を受ける。
またもし、楽しいことでも苦しいことでもないことを感受すれば、
また超然としてその感受を受けるのである。


彼は、また、その身の堪える限りの感覚を受けながら、
ただ<わたしはわが身の堪える限りの感覚を受けている>と知り、
そして、ついにその身の壊するに及んでは、
<わたしはいまわが命を終るのであるが、

これで一切の感覚を受けることはおわり、
もはやなにごとを享受することもなく、
わが身は冷たくなって、ここに遺骸となって横たわるのみである
と知るのである」

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「歓喜するけど執着せず」は可能か(阿含経典 その5)

『阿含経典』(増谷文雄訳)第2巻を、ほぼ読み終わりました。
1巻・2巻と読んで、これが文庫化されない理由がわかりました。
1巻は縁起、2巻は五蘊に関するお経が何十経も集めてあって、
表現は違えど中身はほぼ同じ。
これは一般の人が読んでも飽きちゃうわ。
その繰り返しぶりに口伝の阿含経典の妙味があるわけですが。


2巻は五蘊(色・受・想・行・識)についてのお経集です。
これらが無常であり無我であり苦であることが、
繰り返し説かれます。

それはわかるんだけど、
ここで私にとって大問題が発生します。
それは「歓喜しちゃダメなのか?」ということです。

「歓喜はするけど執着はしない」は不可能なのか?


たとえば、仏典にはこう説かれています。

==========================

受に歓喜し、喜びの声をあげて、縛り付けられるのである
彼には喜心が生ずる。
受における喜びは、それは取(取著、執着)である
取あるによって彼には有(存在)が生ずる。
有あるによって生が生じる。
生があるによって老死が生じ、愁・悲・苦・憂・悩が生じる。
かくのごときが、すべてこの苦の生ずるところである
(相応部 22、5 「三昧」)

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色・受・想・行・識すべてについて、同じフレーズが繰り返されますが、
受がいちばん私にとって問題なので受で書きました。
喜びは執着=苦の元凶、これは仏教でよく出てくる教えです。


受=感受作用=例えば、
おいしいものを食べて「わぁ美味い!」とか、
ロックを聴いてノリノリになって踊るとか、
いい映画を観て泣くとか。
それらの「歓喜」はみんな執着の元凶でタブーなの


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  歓喜を生じせしめるコレは悪魔の食い物か?うまそ~。


これに対して、2つの態度があるとします。

A)ノリノリになって歓喜を発生させるような音楽は、聴かない。
B)聴けばノリノリになるが、別にも無音でも心は満たされている


A)が「歓喜→必ず執着」説
B)が「歓喜しても執着しないことは可能」説です。


お釈迦さまの教えは、A/Bどちらなの?
諸先輩がた、教えてください。


美味しいものにもノレる音楽にも泣ける映画にも
近寄らなければ、そりゃ心は平和で清涼でしょう。
でもそんな人生、面白いか?
という疑問がムクムクと沸いてしまうのです。
「面白い」と「平穏」はトレードオフなのか?


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
ノリノリのりぴー。これは執着だからダメだよ。

実はこれについて、
スマサーラ長老が先日の法話で面白いことを
おっしゃっていたのですが、それはまた後日。




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