「歓喜するけど執着せず」は可能か(阿含経典 その5)
『阿含経典』(増谷文雄訳)第2巻を、ほぼ読み終わりました。
1巻・2巻と読んで、これが文庫化されない理由がわかりました。
1巻は縁起、2巻は五蘊に関するお経が何十経も集めてあって、
表現は違えど中身はほぼ同じ。
これは一般の人が読んでも飽きちゃうわ。
その繰り返しぶりに口伝の阿含経典の妙味があるわけですが。
2巻は五蘊(色・受・想・行・識)についてのお経集です。
これらが無常であり無我であり苦であることが、
繰り返し説かれます。
それはわかるんだけど、
ここで私にとって大問題が発生します。
それは「歓喜しちゃダメなのか?」ということです。
「歓喜はするけど執着はしない」は不可能なのか?
たとえば、仏典にはこう説かれています。
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「受に歓喜し、喜びの声をあげて、縛り付けられるのである。
彼には喜心が生ずる。
受における喜びは、それは取(取著、執着)である。
取あるによって彼には有(存在)が生ずる。
有あるによって生が生じる。
生があるによって老死が生じ、愁・悲・苦・憂・悩が生じる。
かくのごときが、すべてこの苦の生ずるところである」
(相応部 22、5 「三昧」)
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色・受・想・行・識すべてについて、同じフレーズが繰り返されますが、
受がいちばん私にとって問題なので受で書きました。
喜びは執着=苦の元凶、これは仏教でよく出てくる教えです。
受=感受作用=例えば、
おいしいものを食べて「わぁ美味い!」とか、
ロックを聴いてノリノリになって踊るとか、
いい映画を観て泣くとか。
それらの「歓喜」はみんな執着の元凶でタブーなの?
これに対して、2つの態度があるとします。
A)ノリノリになって歓喜を発生させるような音楽は、聴かない。
B)聴けばノリノリになるが、別にも無音でも心は満たされている。
A)が「歓喜→必ず執着」説
B)が「歓喜しても執着しないことは可能」説です。
お釈迦さまの教えは、A/Bどちらなの?
諸先輩がた、教えてください。
美味しいものにもノレる音楽にも泣ける映画にも
近寄らなければ、そりゃ心は平和で清涼でしょう。
でもそんな人生、面白いか?
という疑問がムクムクと沸いてしまうのです。
「面白い」と「平穏」はトレードオフなのか?
実はこれについて、
スマサーラ長老が先日の法話で面白いことを
おっしゃっていたのですが、それはまた後日。

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