楽と苦とを、ただ超然として受ける(阿含経典 その6)「熟慮」
え~、昨日書きました「歓喜してもダメなのか?」
ということなんですけど。
眼・耳・鼻・舌・身・意に楽しい快いことは、
執着につながるから近寄るべきでなのか?
阿含経典には何度も「厭い離れておれ」と書かれているけれど、
それは人生としてつまらなくないか?
以前Nスペで見たタイの修行僧は、
托鉢でもらった食べ物を「美味しい」と感じた自分を
責めていました。
「美味しい」「不味い」と感知する自分はダメなのではないか、と。
今年のウェーサーカ祭で、スマナサーラ長老は
法話の中でこんなお話をされました。
(記憶なので表現は少し違いますが)
「『ああ、きれいな人だ』と思う。これはいいんです。
でも(感情を込めて)
『うっわ~、きれいな人だ! 私はあの人、大好きです!!』
こうなったら執着です。
いいなと思うのと、執着は、ほんとに微妙な違いなんですね」
「私もね、”この映画観たいな”と思って、
DVDを買っちゃったりするんですけどね。
でも買うと、めんどくさくなって、観ないんですね。
だから私の家、ビニールも空けてないDVDがいっぱい。
お金もったいないね。 でもいいんです。
観たいから買ったけど、観たくなくなったから観ないで
ころがしておくんです」
長老は、ちゃんと観衆の笑いを取るから偉いな。
で、私はこのお話を聞いて、それこそ歓喜したのでした。
きれい、美味しい、心地よい等と感知するのはOK。
感知しても執着しないことは可能だ。
長老のお話は、つまりそういうことですよね?
それがアリなら、
よし、美しいけれど苦しくない人生を目指すぞ、
と思ったわけなんです。
以下、「阿含経典」増谷訳1巻、
「熟慮」(相応部12,51「思慮」)より。
=============================
「彼は、もし彼が楽しいことを感受しても、
それは無常であると知り、取著すべきものではないと知り、
享受すべきものではないと知る。
もしまた、彼が苦しいことを感受しても、
それは無常であると知り、取著すべきものではないと知り、
享受すべきものではないと知る。
彼は、もし楽しいことを感受すれば、超然としてその感受を受ける。
もし苦しいことを感受すれば、また超然としてその感受を受ける。
またもし、楽しいことでも苦しいことでもないことを感受すれば、
また超然としてその感受を受けるのである。
彼は、また、その身の堪える限りの感覚を受けながら、
ただ<わたしはわが身の堪える限りの感覚を受けている>と知り、
そして、ついにその身の壊するに及んでは、
<わたしはいまわが命を終るのであるが、
これで一切の感覚を受けることはおわり、
もはやなにごとを享受することもなく、
わが身は冷たくなって、ここに遺骸となって横たわるのみである>
と知るのである」
===============================
にほんブログ村