「関西の教会破壊、容疑者は元信者」に思う
関西でプロテスタント教会に消火器などを投げ込んでいた容疑者が、
逮捕されたそうです。
おととし以降、大阪・兵庫・京都・滋賀で、72件。
容疑者は、数年前まで熱心な信者だったというので、
ちょっと心が痛い事件でした。
(産経新聞 7月4日配信)======================
「キリスト教は良い宗教だ」。池田容疑者は以前、聖書を熟読し、毎日教会に通う熱心な信者だった。
転機は心酔していた牧師との別れ。「見捨てられた」と恨みに思い、
次第に「自分の周りの不幸は神の仕業」と思い込んで教会襲撃という極端な行動に走った。
池田容疑者が兵庫県川西市のプロテスタント系の教会を初めて訪ねたのは23歳のころ。
同居する父親(61)らによると、池田容疑者は大阪府内の公立高をわずか半年ほどで中退後、
数年間にわたって職を転々としており、当時、バイクで暴走するなど生活が荒れていたという。
「十字架のネックレスをください」と申し出た池田容疑者を、
牧師は「教会に通いなさい」と諭した。池田容疑者は牧師の人柄にひかれ、
毎日教会に通い、掃除や信者の送迎など熱心に奉仕。
聖書を熟読し、内容を短冊に書き写して自室に張った。
しかし2~3年前、牧師が海外留学したのを機に、
「見捨てられた」とふさぎ込むようになった。
教会の関係者は「心の支えを失ったようだった」と話す。
父親や親族の病気を「神の仕業」と決めつけ、「これだけ奉仕したのに」と嘆いた。
やがて「教会は不幸を招く」と礼拝をやめた。
父親によると、池田容疑者はこのころ「神の声が聞こえる」と言い始め、
夜中の外出が多くなった。事件の始まりもこの時期と重なる。
(以下略)
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元外務省のラスプーチンと呼ばれた佐藤優さんて知ってますか?
あの方はプロテスタントの信者なのですが、
最近、週刊誌の人生相談で、こんなことを書いてました。
「親身になってくれる牧師さんと出会いたい」という悩める信者の相談に、
「牧師はちょっと冷淡だと感じるぐらいの人がいい」と。
「牧師はあくまで神の声を届ける代理人なのだから、
牧師個人に思い入れをしてはいけない」という趣旨のことを書いていました。
牧師に特別な感情を抱いて、依存してしまうケースが多いのだそうです。
上記の容疑者が、まさにそれですね。
わたくし個人的には、仏教のお坊さんでも、
ちょっと冷淡なほうが信頼できるのですが、どんなものでしょうか。
(お釈迦さまも、そうだった気がする・・・)
それから、上記容疑者の「自分の周りの不幸は神の仕業」という言い分。
この報道が本当だとすれば、言いがかりをつけられた神様も災難ですが、
「全知全能の神が世界をつくったなら、なぜこんな悲惨な世界にしたのか」
というのはよく聞く疑問です。
(これに対して、クリスチャンの方はどう答えるのでしょうか?)
神が全知全能なら、
自分に起きた不幸も「神の意志=仕業」と思うのは普通か?
もっと筋金入りのクリスチャンなら、
「神が私に試練を与えたもうた」とか思うのでしょうか。
絶対者を立てる宗教って大変だな~。
クリスチャンの方の、この事件への感想を訊いてみたいです。
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SF界の巨人は仏教を選んだ『幼年期の終り』
SFに全く興味がないので、アーサー・C・クラークの小説を
1冊も読んだことがありません。
ですが映画『2001年宇宙への旅』は見ていたので、
その名前と、SF巨人であることは知っていました。
そのアーサー・C・クラークが、
仏教にシンパシーを持っていたことを最近知って、びっくり。
科学を知り尽くしたクラークさんが、ですよ。
人生の後半は、なんとスリランカに住んで、
イギリスといったりきたり生活だったというから、
南伝仏教に親近感を持っていた可能性大です。
氏の初期の作品『幼年期の終り』(1953年)には仏教が登場するそうです。
「オーバーロード(上帝)」と呼ばれる宇宙人が、
人類文明の歴史をビデオのような装置で延々記録していて、
それを地球人に見せるそうです。
そこに録画された文明は、
あらゆる宗教が壊滅して、仏教だけ残っていたとか!
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「おびただしい数の人類の救世主がその神性を失うことになった。
冷たく、感情の入り込む余地のない真実の光のもと、2千年にわたっ
て何百万もの人々の心を支えてきた宗教は、朝露のようにはかなく消えた。
それらによって巧妙に作られてきた善と悪は、すべて一瞬に
して過去のものとなり、人類の心を動かす力を失った。」
「新しい時代は、宗教と完全に縁を切っていた。
オーバーロードがやってくる前の時代に存在していた信仰のうち残っているのは、
純粋な形の仏教(あらゆる宗教のなかで、おそらくもっとも厳格なもの)だけだった。奇跡やお告げをよりどころとしていた宗派はことごとく破綻した。」
(『幼年期の終り』 たぶん光文社古典新訳文庫の訳?
現物もってなくてネットでコピペなので自信なし)
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ここで言う「純粋な形の仏教」は、釈迦本来の仏教
(スリランカなどに伝わる、いわゆる小乗)と思われます。
つまり「救世主」を立てる宗教はみんな滅んだと。
キリスト教もイスラム教も、また大乗の阿弥陀信仰や菩薩信仰も、
「誰かが助けにきてくれる宗教」ですよね。
それに対して、釈迦本来の仏教は、絶対的な存在や救世主を立てない。
自分で修行して、自分で悟れ。お手伝いはできるけどね。
世界は神が作ったんじゃなくて、法則で動いているんだからさ。
そう説いたのがお釈迦さまですから。
その釈迦仏教は、科学に精通したアーサー・C・クラークから見て、
唯一「科学に滅ぼされない宗教」だったのではないでしょうか。
クラークさん、さすがだね!
幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)
来週、余命数ヶ月と告げられたら(『七つの対論』その2)
仏教だとかキリスト教だとか、
教義の中身がどうだとかいうことをひとまず忘れて、
なぜ現代の私たち、いや、自分が、
宗教などというものに心惹かれるのか。
ひとつは、生きていることのもろもろのややこしさ、
もうひとつは死ぬことへの恐怖、ではないかと思うのです。
わたし自身の場合は、8割方が後者。
死ぬことで自分が完全に消滅して、
そう考えている意識そのものが消滅する恐怖です。
理屈ではわかるけど、足元から崩れさっていくような恐怖
(実存的恐怖っていうんですってね)。
たとえば、来週「あなたは癌で余命3ケ月です」と告げられたら、
自分にとって仏教は何の助けになるだろうか。
今読んでいる『生物学者と仏教学者 七つの対論』の、
佐々木閑先生のパートに、ひとつの実例が挙げられていました。
長いですけれど、引用します。
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最後に、そうやって普通の生活を送る中で仏教の教えを実践した
偉大な人物の実例を一つ挙げよう。
物理学者として、歴史に残る大業績を挙げ、その世界では知らぬ者のない
有名な方だったが、50代で癌になった。
闘病8年、科学者として最も円熟した時期に死と向き合い、
やがて余命数ヶ月と宣告された。
そこからこの人の修行が始まった。
釈迦の教えを一から学んだわけではない。
仏教の大枠だけを知ると、あとは自分の工夫と努力で、
死の恐怖と対決していったのである。
冷徹な観察力で、自分自身の心をじっと見すえて分析し、
そこに恐怖を生み出す要素を見つけだすと、それを断ち切っていく。
たとえば「自分が今まで積み上げてきたものを、すべて残して
消滅していかねばならないことが恐怖を生み出す」と考えると、
「自分は消滅しても、この宇宙は変わることなく存続していく。
自分のやってきた仕事もその中で存在し続けるのだ」
というふうに視点を変えることで、
その恐怖を打ち消していくのである。
死を恐怖する自分と、それを冷静に分析し、
恐怖の要素を取り除いていこうとする自分。
一人の人物の中で、この両者が闘い続けていくうちに、
やがてこの人の精神は鍛錬され、崇高な高みにまで達していった。
本人は「私がやっているのは一種の修行かもしれない」と
おっしゃっていたが、私に言わせれば、
「それは正真正銘、釈迦が説いた修行そのもの」である。
悟るとか悟らないとかいった高尚な問題とは別に、
修行という行為そのものに、
「死に向かう者の日々を支える包容性」があるのだ。
「釈迦の仏教は現代でも有効か」、という問いに対しては、
この科学者の答えが答えである。
現代の神なき世界で、完全消滅の恐怖と対峙せざるを得ない我々にとって、
釈迦仏教が説く「死に方の指針」は、貴重な拠り所となっていくに違いない。
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佐々木先生は実名を挙げていないけれど、
これはニュートリノ研究の第一人者・戸塚洋二氏のことです。
前にブログで、戸塚氏の著書に触れました。
↓
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-10422496564.html
戸塚氏は、「みっともない死に方はしたくない」
と書いていました。
わたしにも、あなたにも、100%確実にやってくる止滅のときに、
お釈迦さまの教えはどう活きるのでしょうか。
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