来週、余命数ヶ月と告げられたら(『七つの対論』その2) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

来週、余命数ヶ月と告げられたら(『七つの対論』その2)

仏教だとかキリスト教だとか、
教義の中身がどうだとかいうことをひとまず忘れて、
なぜ現代の私たち、いや、自分が、
宗教などというものに心惹かれるのか。


ひとつは、生きていることのもろもろのややこしさ、
もうひとつは死ぬことへの恐怖、ではないかと思うのです。


わたし自身の場合は、8割方が後者。
死ぬことで自分が完全に消滅して、
そう考えている意識そのものが消滅する恐怖です。
理屈ではわかるけど、足元から崩れさっていくような恐怖
(実存的恐怖っていうんですってね)。


たとえば、来週「あなたは癌で余命3ケ月です」と告げられたら、
自分にとって仏教は何の助けになるだろうか。

今読んでいる『生物学者と仏教学者 七つの対論』の、
佐々木閑先生のパートに、ひとつの実例が挙げられていました。
長いですけれど、引用します。


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最後に、そうやって普通の生活を送る中で仏教の教えを実践した
偉大な人物の実例を一つ挙げよう。


物理学者として、歴史に残る大業績を挙げ、その世界では知らぬ者のない
有名な方だったが、50代で癌になった。
闘病8年、科学者として最も円熟した時期に死と向き合い、
やがて余命数ヶ月と宣告された。


そこからこの人の修行が始まった。
釈迦の教えを一から学んだわけではない。
仏教の大枠だけを知ると、あとは自分の工夫と努力で、
死の恐怖と対決していったのである。


冷徹な観察力で、自分自身の心をじっと見すえて分析し、
そこに恐怖を生み出す要素を見つけだすと、それを断ち切っていく。


たとえば「自分が今まで積み上げてきたものを、すべて残して
消滅していかねばならないことが恐怖を生み出す」と考えると、
「自分は消滅しても、この宇宙は変わることなく存続していく。
自分のやってきた仕事もその中で存在し続けるのだ」
というふうに視点を変えることで、
その恐怖を打ち消していくのである。


死を恐怖する自分と、それを冷静に分析し、
恐怖の要素を取り除いていこうとする自分。
一人の人物の中で、この両者が闘い続けていくうちに、
やがてこの人の精神は鍛錬され、崇高な高みにまで達していった。


本人は「私がやっているのは一種の修行かもしれない」と
おっしゃっていたが、私に言わせれば、
「それは正真正銘、釈迦が説いた修行そのもの」である。


悟るとか悟らないとかいった高尚な問題とは別に、
修行という行為そのものに、
「死に向かう者の日々を支える包容性」があるのだ。

「釈迦の仏教は現代でも有効か」、という問いに対しては、
この科学者の答えが答えである。


現代の神なき世界で、完全消滅の恐怖と対峙せざるを得ない我々にとって、
釈迦仏教が説く「死に方の指針」は、貴重な拠り所となっていくに違いない。

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佐々木先生は実名を挙げていないけれど、
これはニュートリノ研究の第一人者・戸塚洋二氏のことです。

前にブログで、戸塚氏の著書に触れました。

http://ameblo.jp/nibbaana/entry-10422496564.html


戸塚氏は、「みっともない死に方はしたくない」
と書いていました。
わたしにも、あなたにも、100%確実にやってくる止滅のときに、
お釈迦さまの教えはどう活きるのでしょうか。




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