なぜ人は平等ではないのか(ミリンダ王 その4)
なぜ仏教はインドで滅びてしまったのか?
という疑問がずっとありました。
お釈迦さまは、バラモン教の四姓を否定して、
「人間は平等だ」という思想を、
世界史的にみて驚異的な早さで確立したわけでしょう。
それを捨てて、ヒンズー教のカースト制に戻ってしまったのは
なぜなんだろう?
もしかして、仏教の教えの中に、なにか弱点があったのでは?
その疑問のヒントになる記述が、『ミリンダ王の問い』の中に
出てきました。
仏教学者なら答えは明白なのかもしれませんが、
私には発見であったのです。
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<第一篇 第四章 第三 人格の平等と不平等>
王は問う、
「尊者ナーガセーナよ、いかなる理由によって
人々はすべて平等ではないのですか?
(長命・短命、容姿の美醜、生まれの貴賎など)
(中略)
「大王よ、<宿>業の異なることによって、人々はすべて平等ではないのです。
(中略)
世尊はこのことをお説きになりました。
―『バラモン学生よ、生けるものどもは、それぞれ各自の業を所有し、
業を相続するものであり、業を母胎とし、業をよりどころとしている。
業は生けるものどもを、賤しいものと尊いものに差別する』と」
「もっともです、尊者ナーガセーナよ」
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つまり、生まれが賤しい・顔が醜い・病弱である、などの人は、
前世に悪いことをしたからだ、というわけです。
この節に対して、中村元先生は以下のように解説しています。
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(抜粋)
(当時の)インドでは業の観念が有力であって、一つの運命的なものとして
受け入れられていた。かかる業の社会思想史的意義は、むしろブッダによって
明らかにされた業説と逆方向をたどるものであった。
この点、マウリヤ王朝の崩壊とともにバラモン教が再興し、
カースト制度が徐々に復活し始めた時流にたいして、
仏教が業説を本来の立場において生かしえず、
ただ輪廻と因果応報との観念だけから説明したことを示す。
仏教は、ブッダ以来、人間の平等、階級や身分制度の撤廃を主張し、
インド思想史上、画期的な教えを主張した。
仏教は対社会への実現にもっとも努力したが、
ナーガセーナの時代はインドの封建的社会の事情が、
仏教の人間平等観を受け入れるにはあまりに根強かったので、
本節に見るような社会事情に適合した説き方をせざるをえなかった。
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また、「新仏教辞典」の「業」の項には、こう書いてあります。
「本来は未来に向かっての人間の努力を強調したものであるが、
宿業(前世につくった業)説などになると、それとは逆に
一種の宿命説におちいったきらいがある」
要するに、「業」説は、両刃の剣なんだと思います。
「来世のために善行を積む」という倫理的教義であると同時に、
「前世の業だから仕方ない」という差別の温床に、やすやすと転じてしまう。
だって論理的には矛盾しないですものね。
「ミリンダ王の問い」の第一編が書かれたのは紀元前1世紀頃らしいので、
かなり早い段階で転じてしまったわけですねえ。
これはカースト制を否定するどころか、強化する論理になりますよね。
オウム真理教では、
「業=カルマの浄化」だと言って熱湯風呂に信者をブチ込んだりしました。
「悪業を積む者を生かしておくと、もっと悪いことをして、
カルマによって来世苦しむから、その前に殺してやるのは救済なんだ」
といってポア=殺害を正当化しました。
「業」説は曲解されやすいという意味で、仏教の弱点ではないでしょうか。
でも一方で、わかりやすい「因果応報」説がなければ、
庶民に仏教が広がらなかったかも・・・。
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