人生は苦と言いつつ究極は楽観的(ミリンダ王)その5
「もろもろのことに放逸であってはならぬ」という
お釈迦さまの教えを大々的に破って、
昨晩・一昨晩と放逸に酒を飲み狂っており、
ブログもかけませんでした。
仏典読む前に酒やめろ、という話です。
『ミリンダ王の問い』1巻をやっと読み終わった。
最後に、覚えておきたい本文、または中村元先生の解説を、
Tips的にメモっておきます。脈略もない引用ですが。
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第一編第一章第十 智慧を助けるものーー信仰
(サンユッタ・ニカーヤ」にも登場する詩句)
「人は信仰によって激流を渡り、
勤勉によって海を渡る。
精励(精進)によって苦しみを越え、
智慧によって全く清らかになる」
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第一編第三章第六 無霊魂説
※「霊魂」についての解説
「原始仏教においては一般に、霊魂の問題は人間の思惟能力を
超えたものという理由で、それに関する判断をくだすことを拒否した。
ところが、ナーガセーナの時代は霊魂が存在しないとの理由で、
この問題の解答を拒否した。注目してよい事実であろう」
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第一編第四章第四 修行の時機
「大王よ、時が到来してはじめてなされる努力は、
実はなすべきことをなさないのです。
あらかじめなされる努力こそ、なすべきことをなすのです」
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第一編第六章第二 ブッダの教説の実践的性格
※法を医薬に例えている部分についての解説
「仏教はもともと実践哲学であり、しばしばみずからを
医術にたとえている」
「仏教の説く四つの真理(四諦)の説は、当時の医学から
思いついたものだろうと推定され、
それらはそれぞれ
・診断(=苦諦=人生は苦である)
・病気の成因(=集諦=苦の原因は執着である)
・予後(治癒の見通し=滅諦
=執着を断ち苦を滅した涅槃の世界がある)
・治療(=道諦=涅槃に至る実践法)
に比せられる。
因縁の原語(nidana)はまた病理(Pathologie)を意味する語であり・・・
仏教はひとりインド医学のみならず、
またギリシャ医学との類似さえ認められる。
仏教の縁起説の根本趣意は、
「これがあるとき、かれがあり、これが生ずるが故にかれが生ずる。
これがないとき、かれがなく、これが滅するが故にかれが滅する」
といういうことであったが、
ギリシャの医聖ヒポクラテスがなした病因の定義は、
次のごとくであった。
『それらが存在するときに、それ(病気)がかくのごとくに起こる
にちがいないところのものを、病気の原因とみなさねばならぬ』と。」
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第一編第七章第二 念仏によるすくい
「百年間も悪を行っても、臨終にひとたび仏を念ずることを
得たならば、その人は天上に生ずることができるであろう」
(すでに、浄土教の萌芽が見られる)」
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第一編第七章第六 功徳の増大による救い
「尊者ナーガセーナよ、<善を行った果報としての>福と、
<悪を行った果報としての>禍いとでは、どちらが大きいですか?」
「大王よ、福は大きく、禍いは小です」
※これについての解説
「インド人はわれわれのなした悪をも、宗教的な功徳によって
消却できると考え、また、人間は善の方へ赴く可能性が大きいのであり、
人間の究極の運命についてはきわめて楽観的に考えていたといい得るであろう。
これはインド思想が厭世思想を説くにもかかわらず、
究極において著しく楽観的であるという特徴に対応するものである。
またインドの戯曲には、ギリシャのそれと異なって、
悲劇がないという事実ともあわせて考えるべきであろう」
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特に、最後の「インド思想は、実は底抜けに楽観的」という話は、
とても面白かったです。
人生は苦だ!身体は不浄だ!もう二度と生まれたくない!
と厭世を連呼している仏教で、なぜ私はハッピーになるのか?
不思議といえば不思議だったのですが、
仏教の底流に「人間は善」という楽観があるんでしょうね~。
ああ、「ミリンダ王」2巻3巻を読み終わるのはいつになることやら・・。

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