釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -15ページ目

瞑想についての対談、神仏習合の話とかが面白かった(「サンガジャパン」Vol.14)

 仏教雑誌「サンガジャパン」Vol.14は「仏教と神道」特集だった。まだ途中までしか読んでいないのだけれど、意欲的だなあと思った。



まず文芸評論家・安藤礼二さんの長いインタビュー「折口信夫を通して見る神仏習合と神懸りの系譜」が面白かった(特集ではまだこれしか読んでないんだけど)。

天皇制、差別と被差別、能などの芸能、密教、大本教などの神懸り新興宗教から、村上春樹、オウム真理教まで引き合いに出しながら、日本人のおよそ非合理的なぐじゃぐじゃした深層を論じている。



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仏教においても、古来多くの宗派が生まれ、それぞれ違う発展を遂げていくわけですが、そこには常に、日本の深層から立ち上がってくる根源的な信仰が繰り返し繰り返し現われているように思うのです。

例えば、密教を広めた空海は、超人的な存在であったとは思いますが、それは彼本人の力というよりは、ずっと日本の深層にあって、間欠的に積み重ねられていた「核」のようなものを空海がぐっとつかみ取り、当時の密教的世界と融合させたということだと思います

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そうかもしれないなー。

いま、“合理的”とされる初期仏教に惹かれる人が増えていて、一方でスピリチュアルも隆盛を極めていて、雅子妃はバッシングされていて、こういう現代もやがて歴史として分析すると面白いことになるかもしれない。


それから、蓑輪顕量先生と田口ランディさんの瞑想に関する対談「仏教のコスモロジーを探して 仏教の瞑想と、体験の伝承」も面白かった。

蓑輪顕量先生(東大大学院教授)は、自ら瞑想をしてきた経験があって、『仏教瞑想論』(春秋社)を著された。田口ランディさんは仏教にシンパシーを感じて瞑想とかもしている作家。「瞑想の目的は何なのか」と田口さんが容赦なく蓑輪先生に突っ込んで、かみ合わないところも色々あるこの対談は、スリリングなものだった。


田口ランディさんが、周りで瞑想の合宿に行って帰ってきた人のパターンを挙げていた。

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田口 まずひとつは、ちょっとスピリチュアルな感じになっちゃう。神秘体験をめざす感じ。

もう一つは修行にのめりこむ、修行が大好きになっちゃうんですね。そういう人はワークショップなんかをたくさん渡り歩いていく。

あと、修行をハードルとして乗り越えていくことに生きがいを感じてしまう。それで達観したつもりになってどんどん高慢ちきになっていくというか。

あとね、自分の感情を抑制しすぎてつまらない人になってしまう・・・というパターンもある。

つまり、皆さん、とても迷える子羊になってしまうんです

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「瞑想あるある」ですね。

もちろん田口さんは、瞑想をクサしてるのでなくて、その目的や効力や受容のされ方について、真摯に問いかけているのです。



あと、陸上選手の為末大さんと禅僧・南直哉さんの対談(2月、紀伊国屋ホール)も載っていた。為末さんの、体験を言葉にする才能はすごいものがある。

私はこの対談をライブで聴きにいったけど、なんか為末さんのほうが坊さんっぽかった。南さんにしても小池龍之介さんにしても、2030年がかりで「我」を解体しにかかっているにもかかわらず、いまだむせかえるほどに我が立ちのぼってくるのはいかなることか。修行する前はどんだけ自意識過剰だったのか(これはご本人たちが十分語っておられますが)。まこと我というのは恐ろしいものでございます。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

サンガジャパンVol.14(Summer)


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恋わずらいに「縁起・空」は効くのか?

朝日カルチャーの斎藤明先生の講義が「空と中観」だったこともあり、それ関係のものをちょっと読み直したりした。



空とか中観って、議論するにはものすごく盛り上がるテーマらしいけど、じゃあ私の心を鎮めるためにどう使えばいいんだ?となると、どうも使い方がわからない。そういうことを自分の言葉で書いたり言ってる人って、いませんかね。



唯一、いま「役立つかも」と思えるのは、南直哉さんの言葉で「空とは『ぜんぶゲームなんだからマジになんなよ』ってこと」。

これはけっこう効く。



それから、斎藤先生は、「人間は世界を概念で切り刻んでバラバラにするクセ(宿命)がある。概念は便利だけど、煩悩の根っこでもある」というのが、龍樹の言ったことだという。

煩悩の根っこは概念化、分別、戯論(プラパンチャ)で、それを静めるのが「空」と言い出した目的であると。これもよくわかる。


ただ斎藤先生も龍樹さんも重々ご承知のとおり、人は概念(言葉)を使わなきゃ、何一つ考えられないわけで、概念化を静めるってどうすればいいのかしら。解除可能だよ、とわかったうえで(ゲームを)やんなさい、ということかしら。



たとえば、いわゆる「恋わずらい」という事態だとする。寝ても醒めてもモヤモヤした状態を、「愛」とか概念化して実体視して「永遠だ」とか思い込むほどバカではない。自分も相手も世界もどんどん変わっていくのは承知、やっぱり好ましいものは苦の元だ煩悩だというのも承知、何かを概念化した覚えもない(いや、してるのか?何をどう概念化してるのか?)。もろもろ承知のうえでそれでもモヤモヤしっぱなしだとすれば、何をどうすれば効くんですかね? 



困ったときはバック・トゥ・アーガマってことで、書き写してみた。



スッタニパータに「空」が出てくるところ。

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スッタニパータ 1119


(学生モーガラージャの質問にブッダが答えた)


つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、(死の王)は見ることがない

(岩波文庫、中村元訳)

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龍樹が『中論』のなかで唯一、経典名を出したカーティヤーヤナ(迦旃延)教誡経。

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カッチャーヤナ・ゴッタ(パーリ相応部12経、因果相応内の15

カーティヤーヤナ(迦旃延)教誡経 (雑阿含1219 迦旃延)



(冒頭は略)

尊者カッチャーヤナは、世尊に申し上げた。

「大徳よ、正見、正見と申しますが、大徳よ、正見とはいったい、どういうことでございましょうか」


「カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、有か無か二つの極端に片寄っている。

カッチャヤーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものは、この世間には無というものはない。またカッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない


カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に所著し、こだわり、とらえられている。だが、聖なる弟子たるものは、その心の依処に取著し、振りまわされて、<これがわたしの我なのだ>ととらわれ、執著し、こだわるところところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。ここに智が生ずる。カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。


カッチャーヤナよ、<すべては有である>という。これはひとつの極端である。また、<すべては無である>という。これももう一つの極端である。

カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、中によって法を説くのである。


無明によって行がある。行によって識がある(・・・以下、縁起のおしえ)

(筑摩書房、増谷文雄訳)

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「ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て・・・」は沁みますね。なにごとも「ある・ない」でなくて、「生じた・滅した」と言うくせを、とりあえずつけてみようかな・・・。



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空海と龍樹と言語(南直哉さん、仏教私流)

南直哉さんの「仏教私流」6月の回に行った。ここ数回は、空海さんのお話だ。


南さんと空海は、およそ対極的な感じがするけれど、南さんはずっと「空海はすごい」と言いつづけておられた。その理由が勝手にわかった気がした。

というのは、言語についてのことだ。


この日は、空海の著書『声字実相義』(しょうじじっそうぎ)の話だった。これは空海の言語哲学を記したもので、言語にこだわりまくる南さんにとって核心はこれだったのかな、と思った。


(以下、私の理解をメモしただけなので、例によって間違いがあれば私のせいです)


ちゃぶ台とダイニングテーブルがあったときに、私たちは「机だ」といって安心していられる。ダイニングテーブルを見て「謎の物体だ!」とパニクったり、その上で踊りだしたりしない。なぜなのか?


立場1)「机」という意味=概念、いわば純然たる「机」性みたいなものが、どっかに独立して存在する。


立場2)そうではなくて、あるとき設定された、自分との関係が固定化されるだけ。机の上に乗って踊ると親に怒られたりして、これはメシを食うか物を書く場所らしいと知り、それを「机」と呼んでおく。


たぶん、言葉についてはこういう議論がずっとあったのでしょう。それで、

立場1)に近いのが空海さん

立場2)に近いのが龍樹さん

だというのが、(たぶん)南さんのお話であった。


資料に、空海の『声字実相義』の引用がいっぱいあったのだが、空海の偈はこう。

「五大に皆響きあり 十界に言語を具す 六塵悉く文字なり 法身は実相なり」

これを空海自身が解釈する。

その解釈の一文を引くと、「名の根本は、法身を根拠とす。彼より流出して稍く転じて世流布の言と為りまくのみ」。


なんかね、大日如来からバーッと言葉が飛び散って、意味が屹立して、それが世界だと。言葉は実在であって、世界そのものであると。「はじめに言葉ありき」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章)みたいな話なのでしょうか。


一方で龍樹は、「机」って括りは、たまたまでしょ、と。冬に大地震が来て寒ければ燃やして「薪」になるでしょ。意味が固定化されてない子猫は、机に乗るし爪も研ぐ。


そういうわけで、言葉=私たちが世界だと思っているものは、


龍樹いわく「我々は縛られている!縛られている前提で考えろ。縛りを解除することだってできる」っていうのが「空」。


空海いわく「すごいステキな縛られ方があるから、ずっと縛られてろ。そしたら救われるよ」。


みたいなことを、南さんはおっしゃっていました。

それで、帰りにまた、空海派のステキな縛りに感情移入してみた。

なにか、しっかり作られたソファに坐っているような安定感と窮屈さがあった。

一方で龍樹さんのは、バランスボールに坐ってる感じ。

どちらが好きですかね?





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