空海と龍樹と言語(南直哉さん、仏教私流)
南直哉さんの「仏教私流」6月の回に行った。ここ数回は、空海さんのお話だ。
南さんと空海は、およそ対極的な感じがするけれど、南さんはずっと「空海はすごい」と言いつづけておられた。その理由が勝手にわかった気がした。
というのは、言語についてのことだ。
この日は、空海の著書『声字実相義』(しょうじじっそうぎ)の話だった。これは空海の言語哲学を記したもので、言語にこだわりまくる南さんにとって核心はこれだったのかな、と思った。
(以下、私の理解をメモしただけなので、例によって間違いがあれば私のせいです)
ちゃぶ台とダイニングテーブルがあったときに、私たちは「机だ」といって安心していられる。ダイニングテーブルを見て「謎の物体だ!」とパニクったり、その上で踊りだしたりしない。なぜなのか?
立場1)「机」という意味=概念、いわば純然たる「机」性みたいなものが、どっかに独立して存在する。
立場2)そうではなくて、あるとき設定された、自分との関係が固定化されるだけ。机の上に乗って踊ると親に怒られたりして、これはメシを食うか物を書く場所らしいと知り、それを「机」と呼んでおく。
たぶん、言葉についてはこういう議論がずっとあったのでしょう。それで、
立場1)に近いのが空海さん
立場2)に近いのが龍樹さん
だというのが、(たぶん)南さんのお話であった。
資料に、空海の『声字実相義』の引用がいっぱいあったのだが、空海の偈はこう。
「五大に皆響きあり 十界に言語を具す 六塵悉く文字なり 法身は実相なり」
これを空海自身が解釈する。
その解釈の一文を引くと、「名の根本は、法身を根拠とす。彼より流出して稍く転じて世流布の言と為りまくのみ」。
なんかね、大日如来からバーッと言葉が飛び散って、意味が屹立して、それが世界だと。言葉は実在であって、世界そのものであると。「はじめに言葉ありき」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章)みたいな話なのでしょうか。
一方で龍樹は、「机」って括りは、たまたまでしょ、と。冬に大地震が来て寒ければ燃やして「薪」になるでしょ。意味が固定化されてない子猫は、机に乗るし爪も研ぐ。
そういうわけで、言葉=私たちが世界だと思っているものは、
・ 龍樹いわく「我々は縛られている!縛られている前提で考えろ。縛りを解除することだってできる」っていうのが「空」。
・ 空海いわく「すごいステキな縛られ方があるから、ずっと縛られてろ。そしたら救われるよ」。
みたいなことを、南さんはおっしゃっていました。
それで、帰りにまた、空海派のステキな縛りに感情移入してみた。
なにか、しっかり作られたソファに坐っているような安定感と窮屈さがあった。
一方で龍樹さんのは、バランスボールに坐ってる感じ。
どちらが好きですかね?