厄除けのおまじない、漢訳グッジョブ般若心経
先日、般若心経の一節「度一切苦厄」(一切の苦厄を度したまえり=一切の苦悩や災厄をとり除く)が、もとのサンスクリット語のお経にはなく、漢訳するときに挿入された、ということをブログにメモした。
ちょうど斎藤明先生の講義(@朝日カルチャー)でもその話が出て、玄奘訳で「度一切苦厄」が入っているのは、世話になった皇帝(649年に亡くなった太宗かな)の病気治癒のためもあって入れたと言われているそうだ(後半の「能除一切苦=すべての苦悩を鎮めるものであり・・」はサンスクリット語にもあるので、おかしくはない)。でも玄奘の前の鳩摩羅什訳にもあるみたいだけど・・・。
般若経は漢訳されたものだけでも42種類もあって、どんどん長く増殖していって『二万五千頌般若』とか『十万頌般若』と、とんでもない長さになっていきつつ、一方で『般若心経』のような超短い般若経も作られた。
般若心経は最後にギャーテーギャーテーという真言(呪文というかおまじないというか)が入っているが、
斎藤先生いわく、般若心経全体が一種の真言として機能したのではないか、その際に「度一切苦厄」が入っていたことが親しまれた理由のひとつではないか、とのこと。
つまり厄除けのおまじないとして。
確かに、「みんな空である」なんて話は一般ウケしないわけで、厄除けのおまじないが入っていることは重要だったかもしれない。
現代の日本でも、写経というと初心者でもいける短さの般若心経で、わけもわからず漢訳を書き写して何がおもしろいのかと思っていたが、まるごと真言と思えば筋は通っている。
玄奘さんの翻訳は、当時の中国皇帝・太宗の支援で、ほとんど国家事業として行われたようだ。で、こんなキナくさいお話も読んだ。
=============================
玄奘と同時代に来朝した悲劇の訳経者、ナディー(那提 なだい)がいる。かれは中観派の学匠で、インドではナーガールジュナ没後の第一人者と目されていたらしい。
千五百余の経論を携えて永黴六(655)年に中国へ来て大慈恩寺に入ったが、ちょうど玄奘の訳業が大々的に進められていたために、またおそらく学系が異なることから玄奘一門による排斥があったために、ほとんど翻訳を行うことができなかった。
(中略、ナディーさんは飛ばされて、663年に大慈恩寺に帰ってくる)
しかし、すでにナディーがもたらした経論はあらかた玄奘の所有となって持ち出されていた。そこで「師子荘厳王菩薩講門経」1巻など、わずか3部3巻の経典を訳しただけで、真臘国からの招きに応じて旅立ち、消息を絶ったという。(中略)
われわれはこのナディーの処遇に、玄奘を取り巻く華やかな世界の、醜い裏面を垣間見る思いを禁じえない。
(『新アジア仏教史06』P49 木村清孝先生)

にほんブログ村
『シリーズ大乗仏教4 智慧/世界/ことば』がめちゃくちゃ面白い
5月に出た『シリーズ大乗仏教4 智慧/世界/ことば』(春秋社)をやっと読み始めた。
まだ第1章「初期大乗経典のあらたな理解に向けて 大乗仏教起源再考」(下田正弘先生)を読み終わっただけだが、すごくエキサイティング。(メモを作ったけど、人様にお見せできる状態ではない・・・)
とりあえず、以下のように思っている人は、すべて気持ちいいぐらいにひっくり返されます。
・ パーリ仏典がお釈迦さまが説いた“ほんとの仏教”、大乗仏典は創作でインチキだ
・ スリランカのテーラワーダのお坊さんが言ってることが“ほんとの仏教”だ
・ 仏典や仏伝から、当時の歴史的な事実、たとえば“実在した人間ブッダの姿”を読み取れる
・ 大昔、僧院では出家者が静かに孤高の修行生活をしてて、在家者は仏塔に集まってガチャガチャやっていた
・ 大乗仏典を作って保持したのは、伝統教団とは別のグループだったり、辺境の人だったり、在家者だったり、つまり傍流である
最近の考古学的な発見・研究などを挙げながら、こういう偏見がいかに仏教理解をゆがめてきたか、という論が第1章で100ページ近く展開されている。
私も過去のブログに、上のとおりのことを書いてて恥ずかしく、削除したいけど、めんどくさい。
ただ、プロ仏教学者の世界でも、上記のような見方は長らく(今でも?)あるそうだ。そのことに、下田先生は怒り狂っておられる(ように読める)。
この巻は、般若経、華厳経、法華経という大物三役が取り上げられていて、中ぐらいの仏教ファンなら必読ではないかと。けっこう難しいですけど。
「般若心経」はこうやって漢訳された、という記録
漢訳仏典はどうやって漢訳されたのか?
『新アジア仏教史06 中国Ⅰ南北朝 仏教の東伝と受容』の
5章「仏典漢訳史要略」(船山徹先生)のメモのつづき。
『仏祖統紀』43巻に、インド人僧の天息災によって行われた訳場儀式の様子が説明されている(982年、訳経院)。しかも、あの「般若心経」の有名な一節「照見五蘊皆空 度一切苦厄」に即して説明されているそうだ。
それによると、翻訳は9つの係が分業して行われた。
1 「訳主」が僧たちに向って梵文(サンスクリット語)を高らかに朗読する
2 「証義」は訳主の左に坐り、訳主と共に梵文(の意味内容)を討議する
3 「証文」は訳主の右に坐り、訳主の朗読を聞いて誤りを点検する
4 「書字梵学僧」は梵文を聞いて、それを漢字で音写する
5 「筆受」は(音写された)梵語を中国語に改める
6 「綴文」は文字の順序を入れかえて文章化し、意味が通るようにする
7 「参訳」はインドと中国の文字を比較検討して間違いないようにする
8 「刊定」は冗長なところを削除し、語句の意味を確定する
9 「潤文官」は僧たちの南側に席を設け、(訳語の表現が適切かどうかについて)調べてて(適宜)潤色する。
たとえば「般若心経」の「度一切苦厄」は、もともとサンスクリット語の経にはなかったのが、(漢語表現としてすわりがよくない、などの判断で)「潤文官」によって付け加えられた・・・らしい。
もちろん時代や人によって訳の現場は違うでしょうが、
これだけの人が分業している以上、ひとりファンキーな人が混じっていたら、おかしな漢訳になることだってあったでしょうね。
しかも982年の段階で「般若心経」をイチから訳してるの?と一瞬思うわけだが、当時は誰かの訳が本屋に出回るわけでもHPに掲載されるわけでもないから、それぞれが自力で訳すわけですよね。なかにはトンデモ訳もあったかもしれない。
あるいは、もうだいたい訳は知ってるけど、儀式としてイチから訳すとか?
残っている訳も数種類あるそうだ。
いま日本人が後生大事に写経している「般若心経」は玄奘訳(だっけ?)らしいが、それも真偽不明だという説があるとかないとか・・・・。
しかし、そのおごそかな訳経儀式の現場を見てみたかったものです。