釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -14ページ目

唯識と、昔読んだマンガ(『唯識と瑜伽行』1)

斎藤明先生の講義が「唯識」だったので、『シリーズ大乗仏教7 唯識と瑜伽行』(春秋社)で復習した。唯識に別段思い入れはないので基礎知識レベルのお勉強。



煎じ詰めると「すべては識(表象)のみである」ということらしい。

(自分の視覚や聴覚のフィルターを通した世界しかない)



それで、小学生のとき読んだサイコホラーみたいなマンガを思い出した。

A子について3人の男が喋ってて、「A子かわいいよな」「そうか?ブスじゃん」みたいな話なんだけど、3人が喋るコマごとに、各自の目で見えてるA子の顔が描かれている。その顔がちょっとずつ違うのだ。似てるんだけど、かわいかったりブスだったりする。

これを読んだとき、「そうか、世界はみんな違うふうに見えてるんだ」と子供心にショックで、いまだに覚えている。



じゃあ「客観的な(本当の)A子の顔」はあり得るか? これはあり得ない。

だって客観って誰が見てるの? 必ず誰かの目のフィルターを通ってしまう。


唯識の「すべては識(表象)のみである」ってこういうことじゃないかな?


じゃあA子は、いないのか? 

唯識論において「外界はない」のか「外界はある」のかは、議論の的らしい(と本には書いてあった)。


でも斎藤先生は、唯識は外界自体を否定してるのではない、と言っていた。
「だって唯識論者の人たちも物食って生きてるわけですから」と。

この説明はシンプルでいいなー。

食った気がしただけで、食物が存在しないなら、餓死しちゃうものね。


ただし、「おいしいバナナ」「甘いバナナ」が外界に存在するわけではなくて、何かを食べたときに「おいしい。これはバナナと呼ばれるものだ」と人が感じるだけだ。(人によっては、まずい)


唯識の根っこには「小空経」(阿含経典 中部 第121経)があるとのことで、

読み直してみたが、これがまたよくわからない。

「アーナンダよ、私は以前もいまも、よく空の状態にいる」

「完璧にして最高無上なる<空である状態>に達しよう」

と、お釈迦さまが言っているのだけれど・・・。




以下は『唯識と瑜伽行』(春秋社)全体からのメモ。

ブログに乗っけとくとなくさないしあとで検索できるので乗っけとくのですが、ほんと自分用メモなので無視してください。間違いもたぶんあります。



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 瑜伽行派はおそらく説一切部の瑜伽師(瞑想専門の行者)が母体になったと思われる。

   (唯識論という“考え方”なのと同時に、唯識観という瞑想実践でもある。

    目指す境地は、概念的な認識を超越した無分別智)   



 唯識という言葉が登場するもっとも古い文献は「解深密経」(げじんみっきょう、4世紀前半頃)87~9

 「華厳経」十地品には「唯心」が出て来る

 阿含の「小空経」が重要な影響『マッジマ・ニカーヤ』=中部 第121経)

  三性説(さんしょうせつ)との関連が指摘されている



 重要文献「瑜伽師地論」(ゆがしじろん)100巻!

    「声聞地」は部派仏教に根ざしたわりと伝統的な瞑想法(観)

     「菩薩地」は般若思想=空性に対する誤解を解くのが目的と見られる

・般若経の空を誤解(なんにも存在しない)する人たちも当時すでに現われていた。

瑜伽行派は、空性・無自性とは、「一切法には言語表現されたとおりの自性が存在しない」ことを意味するだけであって「離言(りごん。言語表現されえなこと)を自性とする法は否定されない」と主張した。



 「解深密経」に見る唯識の核心は、「識はその対象が表象のみ(として)現われている」。

  外界は、私の概念的認識(意言=心のつぶやき)のとおりではない。

  客観的外界、というのもない(客体も主体もない)

  外界自体を完全に否定しているのかどうかは議論がある。

  ただ、唯識は修行の過程でのひとつの境地にすぎない(目標ではなく手段)

   ↓

・入無相方便相(無相へ入る方法手段)

まず外界の対象は意言のみであり非存在であることを理解し、識のみ(唯識)と理解する。次に、対象が無いから識も無いとして、その“唯識”という想念をも打破して無分別智を得る。

分別がなくなった段階の次の一刹那に無分別智が起きたときが、凡夫が聖者となる段階であり、見道・初地・転依(てんね)とも言われるもの



 瑜伽行派の思想は五法・三性・八識・二無我に要約される(特に三性と八識)

・三性説 

1遍計所執性(へんげしょしゅうせい)

存在物(諸法)の本体や属性を日常的な言語によって定立したもの

たとえば、たまたま「色」という言葉で表現された「物質」が、あたかも「色」として実在するように受け取られているとき、そのように認識された存在は遍計所執性と呼ばれる。



2 依他起性(えたきせい)

≒縁起、分別 

存在物(諸法)が縁起的に生じるということ

すべての存在は原因と条件に依存して生じる、そのなかで生じた存在が依他起性の基体



3 円成実性(えんじょうじつせい)

≒真如、法性

1や2を離れた状態。無我、空性

仏道修行を通じて体得される本質



・外界の存在を認める常識的な人からは「識のみを主張する」観念論者だと批判されがち。中観派からは識の存在を認める実有論者だと批判される。





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「華厳荘厳世界海」という言葉がかっこいい

華厳宗というと、日本人にとっては奈良・東大寺と大仏=毘盧遮那仏(バイローチャナ)だ。教義に特に興味はなくても、国をあげて東大寺を作るほど当時流行っていたのか、毘盧遮那仏っていったい何なのか、なんであんな巨大にしたのか、と興味は尽きない。



なんとなくバロックの隙間恐怖みたいな、広大無辺な世界に仏がビッチリ詰まってるイメージがある華厳経。

『シリーズ大乗仏教4 智慧/世界/ことば』(春秋社)のなかに華厳経の章が3章ある。

以下は、5章「華厳経の世界像」(大竹晋先生)のメモ。



「華厳荘厳世界海」って、すごいゴージャスな単語ですよね。

三千大世界が銀河系だとすれば、それをさらに内包する宇宙全体みたいなのが華厳荘厳世界海だそうです。


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華厳経とは正式には「大方広仏華厳経」。全体の梵語テキストは残っていなく、漢訳(仏陀跋陀羅、420年に完成した60巻本)、7世紀の漢訳、9世紀の蔵訳があるだけ。



仏陀跋陀羅訳のサンスクリット原典は、中央アジア・コータン王国にあったものという伝承があるが、いまだに全く見付かっていない。

2002年に国際仏教大学の堀伸一郎先生が、大英図書館所蔵のコレクションから「華厳経」のサンスクリット原典の断片を発見したとか。



・「仏華厳」の言語はブッダ・アヴァタンサカ


 ブッダ・アヴァタンサカという語はもともと説一切有部の仏伝文学「ディヴィヤ・アヴァダーナ」の「神変経」において、ある種の神変(奇蹟)の名称として現われる。


 その神変とは、お釈迦さまが異教徒に神変の勝負を挑まれた際に、蓮華に座った複数の仏を化作し、そのいちいちの仏がさらに蓮華に座った複数の仏を化作し、ついには色究竟天(色界の最高天)にまで達する仏の大集団が出現したという神変を指す。(この言葉は「仏華厳経」に繰り返し出て来る



 アヴァタンサカは装身具の意味もあるので漢訳では「華厳(花つきの飾り)」としたが、ブッダ・アヴァタンサカは上記のような仏の大集団を指す特殊語。



 「仏華厳経」には「華厳荘厳世界海」(三千大世界をさらに内包する)と呼ばれる世界集合体が説かれている。

「この華厳荘厳世界海は、ヴァイローチャナ世尊如来がかつて菩薩の行いをなさていたときに、世界海にある微塵の数ほどの、海のような劫をかけて浄められ・・」

(蔵訳から大竹先生が和訳)



 ヴァイローチャナは、もともとは人名でなく、シャカムニに対する称号である、というのが大竹先生の見方。(仏華厳経で釈尊の10の称号のうちの1つとして出て来る、などなどの理由で)

(菩薩時代の称号であった可能性が高い)。


 後に、ヴァイローチャナと釈尊を別の仏とみなすようになる。



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智慧/世界/ことば: 大乗仏典I (シリーズ大乗仏教)



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『ライフ・オブ・パイ』と宗教的な映画

『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日間』という映画を劇場で観そこねて、6月にDVDが出たのでやっと観た。

85回アカデミー賞(2013年2月)で監督賞など4部門を受賞した映画だ。ベンガルトラとインド人青年が漂流した物語とはいってもプールでブルーバックで撮ってると思うとシラけるし、と思いつつも、台湾のアン・リー監督だから単純な映画のはずはない・・・・と思って観たら、よかった。ちゃんと娯楽作だけど、意外にも宗教的だった。


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主人公のインド人パイは、宗教ごっちゃ地域で育ったから、子供の頃からヒンズー教とイスラム教とキリスト教をいっぺんに信じてるんです。メッカの方向にお祈りしたあと、十字を切ったりする。

で、父親に、「その3つをいっぺんに信じるのは無理だ」とを言われて、パイは「なんで?」と返す。

なんでなんだろう?もしかして可能じゃないの?と、思わせられる映画だった。



ベンガルトラと一緒に海を漂流しながら、パイは魚を獲ってブチ殺す。ベジタリアンの彼は、泣いて魚に謝りながら「ビシュヌ神が魚に姿を変えて現われてくれた」といって神に感謝する。

そういえば仏教徒もチラッと出るんだけど、これが、なあなあで面白い。ベジタリアンの主人公一家に「肉汁は肉じゃない(から食べても平気だよ)」と言うのが仏教徒。中道というかテキトーというか。



で、なんだかんだ生き延びたパイが大人になって、白人と話していたセリフ・・・。

パイ「信仰は選ぶ自由がある」

白人「疑う自由も?」

パイ「もちろん。疑いこそが信仰を生きたものにする。試されてはじめて、信仰は強固になる」

(言葉尻は少し違うかもしれないけど。疑いは、疑問というニュアンスかもしれない)



そういうわけで、欧米の映画は、宗教と人種の問題がガッチリ基礎を固めているものだけれど、『ライフ・オブ・パイ』も果たしてそうだった。



 一方で、宗教を扱ってても宗教的だとは限らない。

最近DVDで見た日本映画で『不惑のアダージョ』(井上都紀監督、2013年公開)という映画を観てそう思った。

 教会でオルガンを弾いているド地味な40歳のシスターが、処女のまま更年期障害だってんで悶々として、ピアノにより少し解放されて、スケコマシっぽい男性バレリーナに心が動いたりして・・・という話。


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 閉経を描いた珍しい映画ということで評価され、たしかに、いいシーンもいろいろあった。

でも、わたくし的には不満だった。だって神様が小道具なんだもの。

40まで抑圧されてきた女が解放されました」というのが背骨のように見えて、じゃあ彼女が神を選んだ半生は何だったのか?性欲に罪を感じたりしないのか? という葛藤が見えてこない。



 ところが、この『不惑のアダージョ』のDVDには、同じ監督の『大地を叩く女』が収録されていて、わずか21分の短編だけど、これがもう素晴らしい。大好き。

さびれた地方商店街の肉屋でパートをして、つまらん男にDVされている不美人が主人公(ドラマーのGRACE)。

生肉を叩きながらロックンロールするシーンには思わず拍手しました。


音楽による解放、というのが2本の共通点でしたね。期待したい女性監督さんです。




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