唯識と、昔読んだマンガ(『唯識と瑜伽行』1) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

唯識と、昔読んだマンガ(『唯識と瑜伽行』1)

斎藤明先生の講義が「唯識」だったので、『シリーズ大乗仏教7 唯識と瑜伽行』(春秋社)で復習した。唯識に別段思い入れはないので基礎知識レベルのお勉強。



煎じ詰めると「すべては識(表象)のみである」ということらしい。

(自分の視覚や聴覚のフィルターを通した世界しかない)



それで、小学生のとき読んだサイコホラーみたいなマンガを思い出した。

A子について3人の男が喋ってて、「A子かわいいよな」「そうか?ブスじゃん」みたいな話なんだけど、3人が喋るコマごとに、各自の目で見えてるA子の顔が描かれている。その顔がちょっとずつ違うのだ。似てるんだけど、かわいかったりブスだったりする。

これを読んだとき、「そうか、世界はみんな違うふうに見えてるんだ」と子供心にショックで、いまだに覚えている。



じゃあ「客観的な(本当の)A子の顔」はあり得るか? これはあり得ない。

だって客観って誰が見てるの? 必ず誰かの目のフィルターを通ってしまう。


唯識の「すべては識(表象)のみである」ってこういうことじゃないかな?


じゃあA子は、いないのか? 

唯識論において「外界はない」のか「外界はある」のかは、議論の的らしい(と本には書いてあった)。


でも斎藤先生は、唯識は外界自体を否定してるのではない、と言っていた。
「だって唯識論者の人たちも物食って生きてるわけですから」と。

この説明はシンプルでいいなー。

食った気がしただけで、食物が存在しないなら、餓死しちゃうものね。


ただし、「おいしいバナナ」「甘いバナナ」が外界に存在するわけではなくて、何かを食べたときに「おいしい。これはバナナと呼ばれるものだ」と人が感じるだけだ。(人によっては、まずい)


唯識の根っこには「小空経」(阿含経典 中部 第121経)があるとのことで、

読み直してみたが、これがまたよくわからない。

「アーナンダよ、私は以前もいまも、よく空の状態にいる」

「完璧にして最高無上なる<空である状態>に達しよう」

と、お釈迦さまが言っているのだけれど・・・。




以下は『唯識と瑜伽行』(春秋社)全体からのメモ。

ブログに乗っけとくとなくさないしあとで検索できるので乗っけとくのですが、ほんと自分用メモなので無視してください。間違いもたぶんあります。



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 瑜伽行派はおそらく説一切部の瑜伽師(瞑想専門の行者)が母体になったと思われる。

   (唯識論という“考え方”なのと同時に、唯識観という瞑想実践でもある。

    目指す境地は、概念的な認識を超越した無分別智)   



 唯識という言葉が登場するもっとも古い文献は「解深密経」(げじんみっきょう、4世紀前半頃)87~9

 「華厳経」十地品には「唯心」が出て来る

 阿含の「小空経」が重要な影響『マッジマ・ニカーヤ』=中部 第121経)

  三性説(さんしょうせつ)との関連が指摘されている



 重要文献「瑜伽師地論」(ゆがしじろん)100巻!

    「声聞地」は部派仏教に根ざしたわりと伝統的な瞑想法(観)

     「菩薩地」は般若思想=空性に対する誤解を解くのが目的と見られる

・般若経の空を誤解(なんにも存在しない)する人たちも当時すでに現われていた。

瑜伽行派は、空性・無自性とは、「一切法には言語表現されたとおりの自性が存在しない」ことを意味するだけであって「離言(りごん。言語表現されえなこと)を自性とする法は否定されない」と主張した。



 「解深密経」に見る唯識の核心は、「識はその対象が表象のみ(として)現われている」。

  外界は、私の概念的認識(意言=心のつぶやき)のとおりではない。

  客観的外界、というのもない(客体も主体もない)

  外界自体を完全に否定しているのかどうかは議論がある。

  ただ、唯識は修行の過程でのひとつの境地にすぎない(目標ではなく手段)

   ↓

・入無相方便相(無相へ入る方法手段)

まず外界の対象は意言のみであり非存在であることを理解し、識のみ(唯識)と理解する。次に、対象が無いから識も無いとして、その“唯識”という想念をも打破して無分別智を得る。

分別がなくなった段階の次の一刹那に無分別智が起きたときが、凡夫が聖者となる段階であり、見道・初地・転依(てんね)とも言われるもの



 瑜伽行派の思想は五法・三性・八識・二無我に要約される(特に三性と八識)

・三性説 

1遍計所執性(へんげしょしゅうせい)

存在物(諸法)の本体や属性を日常的な言語によって定立したもの

たとえば、たまたま「色」という言葉で表現された「物質」が、あたかも「色」として実在するように受け取られているとき、そのように認識された存在は遍計所執性と呼ばれる。



2 依他起性(えたきせい)

≒縁起、分別 

存在物(諸法)が縁起的に生じるということ

すべての存在は原因と条件に依存して生じる、そのなかで生じた存在が依他起性の基体



3 円成実性(えんじょうじつせい)

≒真如、法性

1や2を離れた状態。無我、空性

仏道修行を通じて体得される本質



・外界の存在を認める常識的な人からは「識のみを主張する」観念論者だと批判されがち。中観派からは識の存在を認める実有論者だと批判される。





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