『ライフ・オブ・パイ』と宗教的な映画 | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

『ライフ・オブ・パイ』と宗教的な映画

『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日間』という映画を劇場で観そこねて、6月にDVDが出たのでやっと観た。

85回アカデミー賞(2013年2月)で監督賞など4部門を受賞した映画だ。ベンガルトラとインド人青年が漂流した物語とはいってもプールでブルーバックで撮ってると思うとシラけるし、と思いつつも、台湾のアン・リー監督だから単純な映画のはずはない・・・・と思って観たら、よかった。ちゃんと娯楽作だけど、意外にも宗教的だった。


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主人公のインド人パイは、宗教ごっちゃ地域で育ったから、子供の頃からヒンズー教とイスラム教とキリスト教をいっぺんに信じてるんです。メッカの方向にお祈りしたあと、十字を切ったりする。

で、父親に、「その3つをいっぺんに信じるのは無理だ」とを言われて、パイは「なんで?」と返す。

なんでなんだろう?もしかして可能じゃないの?と、思わせられる映画だった。



ベンガルトラと一緒に海を漂流しながら、パイは魚を獲ってブチ殺す。ベジタリアンの彼は、泣いて魚に謝りながら「ビシュヌ神が魚に姿を変えて現われてくれた」といって神に感謝する。

そういえば仏教徒もチラッと出るんだけど、これが、なあなあで面白い。ベジタリアンの主人公一家に「肉汁は肉じゃない(から食べても平気だよ)」と言うのが仏教徒。中道というかテキトーというか。



で、なんだかんだ生き延びたパイが大人になって、白人と話していたセリフ・・・。

パイ「信仰は選ぶ自由がある」

白人「疑う自由も?」

パイ「もちろん。疑いこそが信仰を生きたものにする。試されてはじめて、信仰は強固になる」

(言葉尻は少し違うかもしれないけど。疑いは、疑問というニュアンスかもしれない)



そういうわけで、欧米の映画は、宗教と人種の問題がガッチリ基礎を固めているものだけれど、『ライフ・オブ・パイ』も果たしてそうだった。



 一方で、宗教を扱ってても宗教的だとは限らない。

最近DVDで見た日本映画で『不惑のアダージョ』(井上都紀監督、2013年公開)という映画を観てそう思った。

 教会でオルガンを弾いているド地味な40歳のシスターが、処女のまま更年期障害だってんで悶々として、ピアノにより少し解放されて、スケコマシっぽい男性バレリーナに心が動いたりして・・・という話。


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 閉経を描いた珍しい映画ということで評価され、たしかに、いいシーンもいろいろあった。

でも、わたくし的には不満だった。だって神様が小道具なんだもの。

40まで抑圧されてきた女が解放されました」というのが背骨のように見えて、じゃあ彼女が神を選んだ半生は何だったのか?性欲に罪を感じたりしないのか? という葛藤が見えてこない。



 ところが、この『不惑のアダージョ』のDVDには、同じ監督の『大地を叩く女』が収録されていて、わずか21分の短編だけど、これがもう素晴らしい。大好き。

さびれた地方商店街の肉屋でパートをして、つまらん男にDVされている不美人が主人公(ドラマーのGRACE)。

生肉を叩きながらロックンロールするシーンには思わず拍手しました。


音楽による解放、というのが2本の共通点でしたね。期待したい女性監督さんです。




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