1巻10日前後・・・仏典の漢訳スピードに驚愕
日本人はずっと漢訳仏典で仏教を学んできた。
自動車もない時代にインド・西域から
命懸けで仏典を担いできて訳してくれた諸先輩方に
感謝感激なわけです。
玄奘や鳩摩羅什がこれこれを訳した、と聞くと、そのとんでもない量に、
いったいどれだけのスピードで、どうやって訳したんだ?と
驚愕していたのだが、そのことについて
『新アジア仏教史06 中国Ⅰ南北朝 仏教の東伝と受容』の
5章「仏典漢訳史要略」(船山徹先生)に書いてあった。
「『出三蔵記集』『開元釈教録』等の経典目録に、
あるテキストの翻訳開始日と終了日を特定できる事例がある」そうだ。
それによると、ものすごいスピードで翻訳がなされたらしい。
たとえば西晋・竺法護が訳した「正法華経」10巻の翻訳は、
たった52日で完了している(『出三蔵記集』)。
1巻を訳すのにわずか5~6日。過労死するぞ!
鳩摩羅什の『大品経』24巻の場合は、1巻あたり9~10日。
他のケースでも、おおよそ1巻10日前後が目安だそうだ。
一人でちまちま訳したわけではなくて、
「訳場(やくじょう)」という施設というか場所で
役割分担しながらチームで訳したという。
しかも、鳩摩羅什の訳場なんかの場合、
数十~数百人の僧侶や在家信者が集い、
聴衆を前に、一種の仏教儀礼として訳が行われたという。
面白いですね~。
(続く)

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即身成仏とはどういうことか
南直哉さんの「仏教私流」5月の回に行った。
ここ数回は、空海のお話。
「即身成仏」という言葉がある。仏教辞典には「現在の肉身のままただちに仏になること」等と書いてある。どういう意味かピンとこなかったのが、今回のお話で少し理解できたかもしれない。以下はそのメモ。
・空海著の「即身成仏義」で確立された。
根拠として、「大日経」「金剛頂経」と「菩提心論」(龍樹著とされるが真偽不明)を挙げる
「即身成仏義」をネットに上げてる人がいた
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/sokushinnjyoubutsugi.htm
・ポイントはこの言葉
「六大無碍にして常に瑜伽なり」
六大=地・水・火・風・空・識
「六大、能く一切の仏、及び一切衆生・器界の四種法身・三種世間を造す」
要するに、仏(大日如来)も衆生も地獄も、木も山も、宇宙も、現象世界のすべては、もとをたどればこの六大要素(地・水・火・風・空・識)からできている。
仏から地獄の果てまで、もとはみーんな同じだよ。
別々のものに見えているだけで、みーんな大日如来なんだからよろしくね。
運慶作の大日如来。オークショで新興宗教・真如苑が入手
空海以前にも「疾得成仏」(速疾成仏)という概念があって、
これはものすごく速く成仏できること。
でも「即身成仏」はこれとは違う。速い・遅いという時間の問題では
なく、もともとみーんな同じ。成仏概念、思考のパラダイムが違う。
「本質はここでないどこかにある」というのでなく、
「本質はいまここで現象している」というのが即身成仏。
なるほどねー。
こんな煩悩だらけの私がなぜ速攻で成仏できるのか?密教のいう「仏と一体化」ってどういうことか?と不審に思っていたが、「もとから同じ」と言われれば、まだそっちのほうが理解しやすい。
試しに、帰り道に荒れ果てた赤坂の街を、「ぜーんぶ同じ」と思いながら歩いてみた。パチスロ屋もドンキホーテも、ネオンの看板も、道行くあの人もこの人も私も、実はすべて同じで大日如来が現象している、と思い込んでみた。
そう思い込むと、それはそれでハッピーではある。少なくとも、外界の汚さや他人がやることに腹は立たない。だってそれらのすべては自分と同じで、すべては仏だから。自分と外界の境界がメルトダウンして、なにやら巨大な大日如来(=一切の現象)に抱かれている気分。
でも、そのハッピーさは、“物は言いよう“の部類というか、気休めのような気がしないでもない・・・。
今のところの疑問。もともと仏教には、「地・水・火・風」の四大要素や「地・水・火・風・空」の五大要素が万物を構成するという考え方があった(空海はそれに識を加えた)。それとは何か違うのだろうか?

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道教・儒教 VS 仏教をめぐるトンデモ言説(「新アジア仏教史06」4章)
19世紀にヨーロッパ人が仏教徒を発見したときに、研究者らのあいだでいろんなトンデモ説が飛び交って、「大昔にアジアに伝わったキリスト教の成れの果てである」なんていう説まであった。
異教との出会いは往々にしてそういうものらしい。中国に仏教が伝来したときも、
「儒教・道教と仏教と、どっちが上か?」という激しいバトルが繰り広げられ、トンデモ説が飛び交ったそうだ。いわく、孔子・老子と仏は同じ者だとか、いやマハーカッサパが老子だとか、失礼ながら爆笑してしまった。
以下は、『新アジア仏教史06 仏教の東伝と受容』第4章「三教の衝突と融合」(著・河野訓先生)からいくつかの例をピックアップ。
老子(上)と孔子。仏とは違うと思うな・・・。
・ 三教を比べて論じた現存最古の論書は牟子(ぼうし)が書いた『理惑論』(後漢代?)。
・ 『喩道論』(孫綽・そんしゃく 311頃~368頃)
仏教への批判に対して孫綽が答えるという形式。
中国の周公、孔子と仏は同じ者である。
外なる政治の世界から名をつけると周公、孔子であり、内なる宗教の世界から名をつけると仏である。
・ 『老子化胡経』(ろうしけこきょう、300年前後)道士の王浮が書いたとされる。
老子が仏となった(作仏説)、または、仏陀は老子の弟子だった(化胡説 胡人=西域人を老子が教化した、の意)
・ 対して仏教側は『清浄法行経』などの偽経をつくった
お釈迦さまが阿難に言う――私は摩訶迦葉ら3人の弟子を中国に派遣した。それぞれが中国では老子、孔子、顔淵(孔子の弟子)と呼ばれたのだ。として仏教の優位を主張
・ 『夷夏論』(いかろん、467年)著者は顧歓(こかん)
孔子・老子は仏である。道教と仏教は同じことを説いているが、教化の仕方が違う。
(と言いつつ、後半では仏教を激しく批判)
仏教は破悪の方術で、道教は興善の方術。
仏教が相手にしているのは、夷狄(異民族)の劣悪な人間だから、破悪の教えであって勇猛であることを尊ぶ。道教が相手にしているのは善良な中国人だから、さらに善を益す教えで、あるがままを尊ぶ。
・ 『神滅論』 儒学者・ハンシン(漢字が出ない・・・450~507年)
仏教に溺れている者どもを救いたい。
仏教徒が、困窮している者や親戚をほっといて、仏や僧侶に嬉々として財産をつぎ込むのは、自分だけ功徳を得ようとしているのだ。等々と激しく批判。
というわけで、道教・儒教の人たちから見ると、
仏教のどこが「けしからん!」かというと、
・ 親孝行しない。家を捨ててほっつき歩き、子孫も残さない。先祖供養もしない。
・ 髪を剃ったりして、親からもらった身体を傷つける
・ 働かない(労働禁止)
・ 野蛮な異民族の教えである
これに対して、父母や祖先を敬う『盂蘭盆経』『父母恩重経』といった偽経をつくったり、農作業仏教・禅宗が出てきたりして、中国が仏教を受容していく過程については、これから読むところ。