即身成仏とはどういうことか
南直哉さんの「仏教私流」5月の回に行った。
ここ数回は、空海のお話。
「即身成仏」という言葉がある。仏教辞典には「現在の肉身のままただちに仏になること」等と書いてある。どういう意味かピンとこなかったのが、今回のお話で少し理解できたかもしれない。以下はそのメモ。
・空海著の「即身成仏義」で確立された。
根拠として、「大日経」「金剛頂経」と「菩提心論」(龍樹著とされるが真偽不明)を挙げる
「即身成仏義」をネットに上げてる人がいた
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/sokushinnjyoubutsugi.htm
・ポイントはこの言葉
「六大無碍にして常に瑜伽なり」
六大=地・水・火・風・空・識
「六大、能く一切の仏、及び一切衆生・器界の四種法身・三種世間を造す」
要するに、仏(大日如来)も衆生も地獄も、木も山も、宇宙も、現象世界のすべては、もとをたどればこの六大要素(地・水・火・風・空・識)からできている。
仏から地獄の果てまで、もとはみーんな同じだよ。
別々のものに見えているだけで、みーんな大日如来なんだからよろしくね。
運慶作の大日如来。オークショで新興宗教・真如苑が入手
空海以前にも「疾得成仏」(速疾成仏)という概念があって、
これはものすごく速く成仏できること。
でも「即身成仏」はこれとは違う。速い・遅いという時間の問題では
なく、もともとみーんな同じ。成仏概念、思考のパラダイムが違う。
「本質はここでないどこかにある」というのでなく、
「本質はいまここで現象している」というのが即身成仏。
なるほどねー。
こんな煩悩だらけの私がなぜ速攻で成仏できるのか?密教のいう「仏と一体化」ってどういうことか?と不審に思っていたが、「もとから同じ」と言われれば、まだそっちのほうが理解しやすい。
試しに、帰り道に荒れ果てた赤坂の街を、「ぜーんぶ同じ」と思いながら歩いてみた。パチスロ屋もドンキホーテも、ネオンの看板も、道行くあの人もこの人も私も、実はすべて同じで大日如来が現象している、と思い込んでみた。
そう思い込むと、それはそれでハッピーではある。少なくとも、外界の汚さや他人がやることに腹は立たない。だってそれらのすべては自分と同じで、すべては仏だから。自分と外界の境界がメルトダウンして、なにやら巨大な大日如来(=一切の現象)に抱かれている気分。
でも、そのハッピーさは、“物は言いよう“の部類というか、気休めのような気がしないでもない・・・。
今のところの疑問。もともと仏教には、「地・水・火・風」の四大要素や「地・水・火・風・空」の五大要素が万物を構成するという考え方があった(空海はそれに識を加えた)。それとは何か違うのだろうか?

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