恋わずらいに「縁起・空」は効くのか?
朝日カルチャーの斎藤明先生の講義が「空と中観」だったこともあり、それ関係のものをちょっと読み直したりした。
空とか中観って、議論するにはものすごく盛り上がるテーマらしいけど、じゃあ私の心を鎮めるためにどう使えばいいんだ?となると、どうも使い方がわからない。そういうことを自分の言葉で書いたり言ってる人って、いませんかね。
唯一、いま「役立つかも」と思えるのは、南直哉さんの言葉で「空とは『ぜんぶゲームなんだからマジになんなよ』ってこと」。
これはけっこう効く。
それから、斎藤先生は、「人間は世界を概念で切り刻んでバラバラにするクセ(宿命)がある。概念は便利だけど、煩悩の根っこでもある」というのが、龍樹の言ったことだという。
煩悩の根っこは概念化、分別、戯論(プラパンチャ)で、それを静めるのが「空」と言い出した目的であると。これもよくわかる。
ただ斎藤先生も龍樹さんも重々ご承知のとおり、人は概念(言葉)を使わなきゃ、何一つ考えられないわけで、概念化を静めるってどうすればいいのかしら。解除可能だよ、とわかったうえで(ゲームを)やんなさい、ということかしら。
たとえば、いわゆる「恋わずらい」という事態だとする。寝ても醒めてもモヤモヤした状態を、「愛」とか概念化して実体視して「永遠だ」とか思い込むほどバカではない。自分も相手も世界もどんどん変わっていくのは承知、やっぱり好ましいものは苦の元だ煩悩だというのも承知、何かを概念化した覚えもない(いや、してるのか?何をどう概念化してるのか?)。もろもろ承知のうえでそれでもモヤモヤしっぱなしだとすれば、何をどうすれば効くんですかね?
困ったときはバック・トゥ・アーガマってことで、書き写してみた。
スッタニパータに「空」が出てくるところ。
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スッタニパータ 1119
(学生モーガラージャの質問にブッダが答えた)
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、(死の王)は見ることがない」
(岩波文庫、中村元訳)
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龍樹が『中論』のなかで唯一、経典名を出したカーティヤーヤナ(迦旃延)教誡経。
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カッチャーヤナ・ゴッタ(パーリ相応部12経、因果相応内の15)
カーティヤーヤナ(迦旃延)教誡経 (雑阿含12、19 迦旃延)
(冒頭は略)
尊者カッチャーヤナは、世尊に申し上げた。
「大徳よ、正見、正見と申しますが、大徳よ、正見とはいったい、どういうことでございましょうか」
「カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、有か無か二つの極端に片寄っている。
カッチャヤーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものは、この世間には無というものはない。またカッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。
カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に所著し、こだわり、とらえられている。だが、聖なる弟子たるものは、その心の依処に取著し、振りまわされて、<これがわたしの我なのだ>ととらわれ、執著し、こだわるところところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。ここに智が生ずる。カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。
カッチャーヤナよ、<すべては有である>という。これはひとつの極端である。また、<すべては無である>という。これももう一つの極端である。
カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、中によって法を説くのである。
無明によって行がある。行によって識がある(・・・以下、縁起のおしえ)
(筑摩書房、増谷文雄訳)
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「ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て・・・」は沁みますね。なにごとも「ある・ない」でなくて、「生じた・滅した」と言うくせを、とりあえずつけてみようかな・・・。

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