お釈迦さまなら地震の被災者にどんな言葉をかけるか?
東北関東大震災を受けて、仏教界も支援に動いているようです。
義捐金や支援物資を送った宗派もあるし、
被災地に入って炊き出しをしたり、被災者の話を聞いたり、
亡くなった方の葬儀で読経ボランティアをなさるお坊さんも
いらっしゃるようで、頭が下がります。
ここに各宗派の支援活動がざっくりまとまっていました。
↓
http://www.jbf.ne.jp/2011/03/post_186.html
支援物資を積み込む浄土真宗本願寺派のみなさん。
NPOや心理カウンセラーではないので、
ここはやはり、仏の教えによって法話や声明を出しているのでは・・・・
と思ったところ、新聞・雑誌・HPの範囲では、
一般的なお見舞い文といった感じでした(現場での法話などはわかりませんが)。
その中で、やはりというべきか、
果敢にメッセージを出していたのが日本テーラワーダ仏教協会の
スマナサーラ長老です。
「東日本大震災で被災された皆様へ」として、
スマナサーラ長老からのメッセージが掲載されていました(3月18日)。
http://gotami.j-theravada.net/2011/03/post-247.html
以下、勝手ながら一部抜粋させて頂きました。
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このような状況において、皆様のこころの拠り所になるよう、
一切の苦しみを乗り越えることに成功したお釈迦様のお言葉を
申し上げることにいたします。
Āpadāsu, bhikkhave, thāmo veditabbo,
アーパダース ビッカヴェー ターモー ヴェーディタッボー
比丘たちよ、精神力があることは
災難に遭遇した時わかるものです。
この言葉に対するお釈迦様自身の解説はこのようになります。
親族が災難に遭った時、財産が被害を受けた時、病害に遭った時、
ある人はこのように熟慮します。
この世の中はこんなものである。この世も、この命も、八つの現象によって
振り回されているものです。
その八つとは、得すること、損すること、名誉、不名誉、非難を受けること、
称賛されること、幸福になること、不幸になることです。
この八つは世に対して、わが命に対して、常であると知るその人は、悲しまない、
へこたれない、嘆かない、胸を打って慟哭したりしない、精神的に混乱に陥らない。
(Anguttara Nikāya, Catukka nipāta, Mahāvagga, sutta No.2)
(中略)
皆様方に「天罰」が落ちたわけではないのです。神様が怒ったわけでもないのです。
かつて悪業を犯したから、その報いを受けたわけでもないのです。
今の災害は誰のせいでもありません。自然法則なのです。
いつだって私たちは、自然法則によって振り回されているのです。
(中略)
何を失っても、こころの落ち着きを失わないように、人格が乱れないように、
こころが悩まないように努力することこそが、智者の生き方なのです。
変わるものは変わるのです。なくなるものはなくなるのです。
失われるものは失われるのです。
世の常に対して、人は完全に無力なのです。
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理由なき不幸に見舞われることは、この世の常である。
それでも嘆かない強い心を持つ以外、我々にできることはない――。
「冷たい」と思うでしょうか?
でもこれが初期仏典に書かれた、お釈迦さまの(と推定される)言葉なのですよね。
インドではしょっちゅう、洪水で村ごと流されたりしていましたし、
こういった教えは阿含経典の各所に出てきます。
そして、現代にあっても完全に有効な理法だと、私は思います。
それぞれの宗派が、それぞれの教えと依拠する経典をもとに、
こういったメッセージを出されたらいいなと思います。
法華経、般若経、無量寿経などなどは、被災した方に何が言えるか。
「阿弥陀仏が大慈悲でもってご遺族を浄土にお連れしました」とか、
「一人残らず魂が救われるまで観音様が見守っておられます」とか、
……どういう話になるのかわかりませんが、
また現代でもリアリティがあるのかわかりませんが、
理不尽な不幸が起こったときに宗教の真価が試される気がしています。
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性的エクスタシーは菩薩の境地(理趣経)
ようやく、仏教の最終段階である密教の経典に辿り着きました。
本日は真言宗など密教系の宗派でよく読誦される「理趣経」です。
テキストは『密教経典・他』中村元著 東京書籍。
(ただし、この本は解説がメインで、経典の和訳は多くない)。
理趣経は「大般若波羅蜜多経」の第十会「般若理趣品」にあたる短いお経で、
独立した経典としては、その異本である
「大楽金剛不空真実三摩耶経」(だいらくこんごうふくうしんじつさんまやきょう、
不空三蔵が8世紀に翻訳)が一般に用いられるそうです。
このタイトル「大楽金剛不空真実三摩耶経」の意味は、
「大いなる楽は金剛のごとくに堅固・不変で空しからずして真実である
との仏の悟りの境地を説く経」。
タイトルからして、今までの仏教とは全く違って驚きます。
「楽しいことを求める」のを積極的に宣言している、
(初期仏教の、快楽なんて迷妄、というのとは逆)
しかも「楽」は「空ではない、真実である」と宣言しているのですから。
このお経で教えを説いているのは、架空の”根本仏”である
ヴァイローチャナ仏(音写で毘盧遮那如来。大日如来も同じ)で、
傍らには菩薩が80コーティ(約80億人!当時の地球人口より多いよ)
もいるという設定です。
そこでヴァイローチャナ仏が説く「17清浄句」が、これまたすごい。
(以下は、サンスクリット原文からの中村訳)
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1.(男女和合の)恍惚たる快楽(surata)が実は清浄であるという境地。
これがすなわち菩薩の境地である。
2.偏見があるのが実は清浄であるという境地。
これがすなわち~( 以下同じ)。
3.(男女)の快楽(rati)が実は清浄であるという境地。
4.愛執があるのが実は清浄であるという境地。
5.装飾するのが 6.歓喜して恍惚たらしめるのが
7.(欲心をもって異性を)眺めるのが 8.身体で快感を味わうのが(以下略)
どれも「実は清浄である」。
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「一切のものが、その本性では清浄である」、
そして「一切の有情は如来蔵なり」(第12 有情加持の法門)というのです。
「欲望を持ち、煩悩に悩まされている凡夫の暮らしのなかに、
真理に生きるその姿を認めようというのが、この理趣経の立場」だと
中村先生は書いております。
びっくりしましたね。
お釈迦さまの登場から1000年ぐらい経って、
ついに仏教は煩悩も性的エクスタシーも推奨するようになったわけです。
大日如来の法界定印(上)が女性、智拳印(下)が男性のシンボル、
と梅原猛氏が書いていたが、どうなのでしょうか。直接的だな~。
インド密教の後継者であるチベット仏教が、
エロティックな男女和合の像を好むのも納得がいくというものです。
チベットのカーラチャクラ父母仏像は、男女結合中。
理趣経は難解で膨大な解釈書もあって、
「煩悩容認」と単純化してはいけないのかもしれません。
ですが、17清浄句を素直に読むとそうなりますわな。
日本の空海・最澄の密教は禁欲的であったそうですが、
その後インド密教はほとんどセックス教団のような行為も行われて
滅亡へと向かいます。その話と歴史的な背景については後日・・・。
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キリスト教福音派の空恐ろしい「ジーザス・キャンプ」
ようやく今日になってブログをいじる時間ができました。
ようやく映画を観る時間もできました。
本日見たのは、いまさらですが、これ。
「ジーザス・キャンプ ~アメリカを動かすキリスト教原理主義~」
キリスト教福音宣教会のフィッシャー女史が主催する、子供のサマーキャンプを追う。
全米・全世界の福音宣教会信者の家庭から子供たちが参加するキャンプでは、
子供たちに原罪を懺悔させ、中絶反対を説き、キリスト教を推進するブッシュを奉っていた。
2006 / アメリカ / 87min
いま最も信頼できる映画批評家の町山智浩さんが、
去年日本に紹介した一連の「未公開映画」がDVDになってまして、
そのうちの1本です。
ブッシュ政権の支持層でもあるアメリカのキリスト教福音派の
ドキュメンタリーですが、ほとんど自己啓発セミナー同然です。
宗教に興味ある方は、一見の価値ありです。
スマナサーラ長老そのほかの方が、
「仏教は原理主義になればなるほど安全」と言っていたとおり、
「一切皆苦、イエー! 不殺生、イエーイ!」といって
盛り上がるのは、なかなか難しいのではないかと。
宗教にドラッグのようにコカインなどアッパー系と、
ヘロインなどダウナー系があるとしたら、
どうも仏教はダウナー系ですね。
ですが、聖書やコーランをきちんと読んだ人に言わせると、
どこをどう読んだって、異教徒を折伏するための暴力を容認するような
理屈は書いてない、と言います。
あのどうかしちゃった人たちを
キリスト教原理主義、イスラム教原理主義と呼ぶのは
たぶんキリストやマホメッドに失礼で、
どうかしちゃった人たちは
なにかを都合よく曲解しているだけなのではないでしょうか。
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