釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -126ページ目

「岐路に立つお寺 クローズアップ現代」は退屈だった

今日、NHK「クローズアップ現代」で、
「岐路に立つお寺 ~問われる宗教の役割~」という番組をやってました。
番組説明をNHKのHPからコピペすると以下の通り。

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「葬式仏教」と批判されて久しい日本の寺が追い詰められている。
都市への人口流出と檀家の減少、「直葬」に代表される宗教離れよって、
衰退してきた寺が経営難に陥り、数億円の負債を抱えるケースも出てきている。
原因は“墓ビジネス”の失敗だ。葬儀会社に「葬式」さえも奪わつつある寺が、
存続をかけてビル型納骨堂や巨大霊園を建設したものの、売れ残ってしまったのだ。
一方、危機的状況のなかで、信者の心の苦しみに寄り添う宗教の本分に立ち返ろうと、
自殺や高齢者の孤立の問題に向き合う僧侶も現れている。
岐路に立たされるお寺の現状を見つめ、宗教の役割と可能性について改めて考える。

コメンテーター:上田紀行氏

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釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

クロ現の国谷さん。いいよね。



録画で見ましたが、正直なところ、面白くなかったです。


「仏教の危機」と「日本の寺院制度の危機」は全く別問題ですよね。
「この混迷する時代、いよいよ仏教が求められているのではないでしょうか」
といったお話は、当たり前というか、そうに決まっている。
仏教という思想自体は、全然、危機ではないと思います。


問題は、日本のお寺・お坊さんが、何で食っていけばいいか。
葬式に替わるシノギを何にすればいいか、ということではないのかしら。
これは、堕落でも何でもなく、とても切実な話だと思います。


「現代人の心の苦しみに寄り添い」たいお坊さんだってたくさんいるはずです。
でも、それじゃ生活費は稼げないでしょう?
立派な行為だからって寄進するほど、衆生の財布のヒモは緩くないです。
衆生相手に商売してる人なら誰でもよくわかっているはず。

お坊さんの素晴らしい法話や行為に人々が払うのは、
せいぜい1時間2000円が限度で、戒名代ほどのシノギにはならないでしょう。


そして、何で食うか悩むのは、別に寺院の堕落ではないと思います。
2000年前のインドの僧院でも、僧の財産や寄進の分配など、
「いかにして僧が食うか」でモメてきたというのですから。
いつだって、お坊さんは霞を食って生きてきたわけではないんです。
(というのは、今読んでいる本の受け売り。
「根本説一切有部律」は、お金にまつわる規定が山ほどある。
これについては後日・・・)


また、かつて僧院に寄進が集まったのは、
「寄進すれば地獄に堕ちないですむ」という
輪廻由来のモチベーションがあったからではないでしょうか?
自分の利益にならないことに、衆生はお金を払いません。基本的にはね。


いまは、その輪廻モチベーションも壊滅状態である。
日本国が思想的公共事業として長らく推進してきた仏教ですが、
いまは国の援助も「宗教法人の税制優遇」ぐらいしかない。
江戸幕府が住民管理に利用してきた「檀家制度」も壊れてしまった。
ハシゴをはずして、「あとは自力で食べていって」と言われても無理だよね。
私はその点で、日本のお寺に、同情を禁じえないのです。


ああ、いま現在、不飲酒戒を破っているので、書き飛ばしています。




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初期仏典はなぜ無視されてきたの?

昨日、出たばかりの『超訳・ブッダの言葉』(小池龍之介著・ディスカバー21刊)
100万部祈願と書きましたが、別に小池さんのファンというわけではなく、
100万人レベルで初期仏典=阿含経典がヒットしてほしいとの思いがあるわけです。


信者人口でいえば、日本では浄土真宗(阿弥陀信仰)と創価学会(法華経)が
多いのだと思いますが、

初期仏典は仏教伝来から1300年以上のあいだ、無視されてきました。

その理由について、「日本に伝わった大乗仏教は、それ以前の仏教を
小乗仏教として蔑視してきたから」という説明がよくされます。

でも、それって具体的にどういうこと?
『阿含経典』(増谷文雄訳・筑摩書房刊)1巻の前書きで
増谷先生は以下のように書いています。


もっと具体的に言うならば、かの天台智顗(-597、60歳寂)の
<五時の教判>なるものの圧倒的な影響力によるものと考えられるのである
」。


天台宗を確立した6世紀中国の高僧・天台智顗は、
『天台四教儀』の冒頭で、お釈迦さまの説法を5つの段階に分けて
いるそうです。以下、増谷先生の解説から抜粋。


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1 華厳時 37日(菩提樹の下で悟りを得てからの37日)
      「華厳経」を説く
2 鹿苑時 12年 「四阿含経」を説く
3 方等時 8年 「維摩経」「勝鬘経」など諸大乗経を説く
4 般若時 22年 諸般若経を説く
5 法華・涅槃時 8年 
      8年「法華経」を説き、1日1夜にして「涅槃経」を説く

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お釈迦さまは悟りを開いてから37日間のあいだ、
「華厳経」を説いたけれど、あまりに高尚で人々にわからなかったので、

レベルを下げて12年間「阿含経」(初期仏典)を説き、そのあと中級者・

上級者むけに「般若経」「法華経」など大乗仏典を説いた、というのです。


とするならば、いまいうところの阿含経なるものは、
釈尊が無智鈍根の人々のために、その教説の程度を下げて、
卑近にして具体的な教えとして説かれたものだということになる
」(BY増谷先生)。


つまり、初期仏典はバカ向けの初級用仏典とされてきたんですねぇ。
中国仏教と、それを輸入した日本仏教で、初期仏典は最近までまったく
無視されてきたのは、天台智顗の影響力によると増谷先生は書いています。
法然・親鸞・道元・日蓮ら、日本仏教オールスターズが
みんな天台宗の比叡山延暦寺OBなのだから、
影響力が大きいのはむべなるかなという気もします。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

天台智顗さん


そして、ずっと時代が下って、1800年代後半にヨーロッパの
仏教学者たちがパーリ語の初期仏典を研究しはじめ、
ようやく日本でもその存在に気がついたのだそうです。


天台智顗さんがいう上記の「5段階」は、
今となれば、まったくのフィクション
だとわかります。
お釈迦さまの死後、最初に編纂されたのが「阿含経」で、
何百年か経ってのちに「華厳経」「般若経」「法華経」
などが書かれたわけですから。



死後数百年後に書かれたこれらのお経を「成道後の37日間に説いた」
とかいうフィクションが、その後の初期仏典の不当な扱いに
つながったのだとすれば、天台智顗さんに文句のひとつもいいたくなります。


ところで、不勉強でわからないのですが、
空海さんや親鸞さんや道元さんたちは、阿含経典を読んでいたのでしょうか?


読んで「やっぱりバカ向けの初歩経典だよね」と打ち捨てたのか、
それとも読んだこともないのか、まさか存在さえ
知らなかったのか、
そのあたりの記録は残っているのでしょうか?
ご存知の方がいたら教えてください。


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ニーチェに続きやっぱり出た『超訳ブッダの言葉』小池龍之介著

出るかな?と思っていたら、やっぱり出ました。
小池龍之介さんの『超訳・ブッダの言葉』(ディスカバー21)。
書店では、大ヒットした『超訳・ニーチェの言葉』の横にガーンと積んでありました。


出典を見たら、
法句経(ダンマバダ)、経集(スッタニパータ)、阿含経典、
つまり日本でほとんど無視されてきた初期仏典オンリーです。


これはもうね、100万部を祈願します(私は買ってないけど)。
専門家からすれば訳に難があるのかもしれませんが、
大間違いはないでしょうし。
「えっ、お釈迦さまの言葉ってこんなに私の人生の役に立つの?」
と全日本人に知ってほしいです。小池人気に乗じてね。
あなたの人生が絶対に今より善きものになります。保証します。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~


    超訳 ブッダの言葉


そして興味を持てば、とりあえず手にはいりやすい岩波文庫の
『ブッダの真理のことば・感興のことば』(ダンマバダ、ウダーナヴァルガ)
あたりにも手をのばしてほしいものです。(他にも訳はいろいろあります)


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

昔は大変ひどい男だった小池さん


小池さん超訳と中村元訳を、ひとつ比べてみると・・・・

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法句経42

●小池龍之介超訳(『超訳ブッダのことば』)


君以外の誰も君を傷つけない


「君を嫌っている敵が君に対してする酷い仕打ち、
そんなものは大したことじゃない。
君を憎む人が君に対してする執拗な嫌がらせ、
そんなものは大したことじゃない。
怒りに歪んだ君の心は、
それよりもはるかに酷いダメージを君自身に与えるのだから
。」


●中村元訳(岩波文庫『ブッダの真理のことば・感興のことば』)


「憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、
どのようなことをしようとも、
邪(よこしま)なことをめざしている心は
それよりもひどいことをする。」


(パーリ語)
Diso disam yam tam kaira veri va pana verinam
Miccha panihitam cittam papiyo nam tato kare.
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うん、たしかに小池超訳は現代風で、悩める若人にもわかりやすいですね。
私も買おうっかなぁ。




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