性的エクスタシーは菩薩の境地(理趣経) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

性的エクスタシーは菩薩の境地(理趣経)

ようやく、仏教の最終段階である密教の経典に辿り着きました。
本日は真言宗など密教系の宗派でよく読誦される「理趣経」です。

テキストは『密教経典・他』中村元著 東京書籍。

(ただし、この本は解説がメインで、経典の和訳は多くない)。


理趣経は「大般若波羅蜜多経」の第十会「般若理趣品」にあたる短いお経で、
独立した経典としては、その異本である
大楽金剛不空真実三摩耶経」(だいらくこんごうふくうしんじつさんまやきょう、
不空三蔵が8世紀に翻訳)が一般に用いられるそうです。


このタイトル「大楽金剛不空真実三摩耶経」の意味は、
「大いなる楽は金剛のごとくに堅固・不変で空しからずして真実である
 との仏の悟りの境地を説く経
」。


タイトルからして、今までの仏教とは全く違って驚きます。

「楽しいことを求める」のを積極的に宣言している
(初期仏教の、快楽なんて迷妄、というのとは逆)
しかも「楽」は「空ではない、真実である」と宣言しているのですから。


このお経で教えを説いているのは、架空の”根本仏”である
ヴァイローチャナ仏(音写で毘盧遮那如来。大日如来も同じ)で、
傍らには菩薩が80コーティ(約80億人!当時の地球人口より多いよ)
もいるという設定です。


そこでヴァイローチャナ仏が説く「17清浄句」が、これまたすごい。
(以下は、サンスクリット原文からの中村訳)

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1.(男女和合の)恍惚たる快楽(surata)が実は清浄であるという境地。
   これがすなわち菩薩の境地である。


2.偏見があるのが実は清浄であるという境地。
   これがすなわち~( 以下同じ)。


3.(男女)の快楽(rati)が実は清浄であるという境地。


4.愛執があるのが実は清浄であるという境地。


5.装飾するのが 6.歓喜して恍惚たらしめるのが

7.(欲心をもって異性を)眺めるのが 8.身体で快感を味わうのが(以下略)

どれも「実は清浄である」。

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「一切のものが、その本性では清浄である」、
そして「一切の有情は如来蔵なり」(第12 有情加持の法門)というのです。
欲望を持ち、煩悩に悩まされている凡夫の暮らしのなかに、
真理に生きるその姿を認めようというのが、この理趣経の立場
」だと
中村先生は書いております。


びっくりしましたね。
お釈迦さまの登場から1000年ぐらい経って、
ついに仏教は煩悩も性的エクスタシーも推奨するようになったわけです


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

大日如来の法界定印(上)が女性、智拳印(下)が男性のシンボル、

と梅原猛氏が書いていたが、どうなのでしょうか。直接的だな~。




インド密教の後継者であるチベット仏教が、
エロティックな男女和合の像を好むのも納得がいくというものです。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

チベットのカーラチャクラ父母仏像は、男女結合中。

理趣経は難解で膨大な解釈書もあって、

「煩悩容認」と単純化してはいけないのかもしれません。

ですが、17清浄句を素直に読むとそうなりますわな。


日本の空海・最澄の密教は禁欲的であったそうですが、
その後インド密教はほとんどセックス教団のような行為も行われて
滅亡へと向かいます。その話と歴史的な背景については後日・・・。



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