釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -113ページ目

お釈迦さまも欲望の中でのたうち廻った(中部第14経「小苦蘊経」)

本日は阿含経・中部・第14経「小苦蘊経」。

お釈迦さまはカピラヴァッツのニグローダ園で従兄弟のマハーナーマと話しています。故郷で身内といるせいか、お釈迦さまもなにかリラックスしているような気がします。


マハーナーマが、
「貪・瞋・癡が心の汚れだと理解はしているんだけど、
 それを捨てることができない。一体どういうことだろうか」
と正直にお釈迦さまに打ち明けます。

お釈迦さまのほうも、
「実は私もかつては、わかっちゃいるけどやめられませんでした」
というようなことを正直に打ち明けます。


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正覚を得るまだ以前に、正覚者でなくまだ菩薩のままでいるわたしもまた、
『もろもろの欲望は快味が少なく、苦味が多く、悩みが多く、
 ここには苦患がより多い』と、このようにこれを如実に
正しい智慧をもってよく見た。


しかし、そのわたしは、もろもろの欲望以外の、
不善のものども以外の喜びと安らぎを、あるいは、
それよりももっと静寂な別のものを証得しなかった。
すると、なるほどわたしは、その間もろもろの欲望のなかで
のたうち廻るままでいる自分を知った


        春秋社『原始仏典 中部経典Ⅰ』訳 及川真介氏
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そして、もっと喜びと安らぎと静寂に満ちたものを証得してはじめて、

もろもろの欲望を捨てたのだと、お釈迦さまは言います。


マガダ王のビンビサーラは三つの宮殿で舞子たちとともに
栄華を享受しているけれど、言葉を発することも身を動かすこともなく
7昼夜の安楽を得ることはできない。
けれどお釈迦さまは、「私は言葉を発することも身を動かすこともなく
7昼夜の安楽を得ることができる
。ビンビサーラとわたしと、
どちらが安楽に住しているのか」と。


つまり、「欲望は苦のもとだから捨てなさい」で終わりではなくて、
「もっと喜びに満ちた世界があるんですよ」というのが本題なわけですよね。
お釈迦さまや阿羅漢たちは、
黙って禁欲しているだけに見えて、内心、楽しくってしょうがないわけですよね。


バリ島の海辺でマッサージしてもらうよりもっと安らかで嬉しい世界があるらしい。
しかもその世界に行くには旅行代金も予約も有給休暇も必要なく、
四畳半のアパートで瞑想していたって行くことができるわけでしょう?


そういう世界=境地がどこかにある、という事実だけで、
生きていける気がします。たとえ一生行けなかったとしても。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

これよりもっと安らかな世界があるんですって。


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瞑想の手引きとなるお経(中部10経「念処経」)

阿含経「中部」、今週ようやく読んだのは第10経~18経
(『原始仏典 中部経典 Ⅰ』春秋社)。


第10経の「念処経」(サティパッターナ・スッタ)は、
現代に伝わるヴィパッサナー瞑想の基本をお釈迦さま自身が説いているので、
ここに抜粋してメモしておきます。

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<1 身体を観察する>


・入息・出息を通して身体を観察する

脚を組んで坐り、身体を真直にして面前に思念を生起させて坐る。
思念をそなえたまま入息し、思念をそなえて出息する。
あるいは長く入息しつつ「わたしは長く入息している」と知り、
あるいは長く出息しつつ「わたしは長く出息している」と知る。
あるいは短く入息しつつ~(以下同じ)
「身体全体で感受しつつわたしは入息(出息)するだろう」と学ぶ。
「身体の行(なにかを作りなそうとする意志)を鎮(しず)めつつ
わたしは入息(出息)するだろう」と学ぶ。


・行住坐臥を通して身体を観察する

行きつつ「わたしは行く」と知る。「わたしは立っている」
「わたしは坐っている」「わたしは寝ている」と知る。
身体がぞれぞれ置かれているその通りに、それぞれのそれを知る。


・身体を不浄物として観察する

この身体が、足の裏から上に、毛髪の先から下に、皮膚の境目まで、
種々の類の不浄物で満ちているのを観察する。
「この身体には頭髪、毛、爪、歯・・・・腎臓、心臓、肝臓・・・
唾液、鼻水、関節滑液、小便がある」と。


・身体を構成要素から観察する

この身体には地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある、と。


・死体の観察

遺体が墓地に捨てられて、死後一日、死後二日、あるいは死後三日たち、
脹れ、青脹れて、膿みただれたものになったのを見るとしよう。
かれは同じこの身体と比較してみる。
「なるほど、この身体もこのような性質のものであり、このような状態になり、
これは避けられない」と。
遺体がカラスどもに食べられ、ハゲタカやジャッカルともに食べられ・・・
骨が白く螺貝の色に似ているのを、骨が腐って粉々になっているのを見るとしよう。
「なるほど、この身体もこのような性質のものであり、このような状態になり、
これは避けられない」と。



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小野小町が死んで腐っていく姿を描いた小野小町九相図(京都市・浄土宗安楽寺)
鎌倉時代に九相図が流行ったらしい。


<2 感受を観察する>

楽の感受を感受しつつ「楽の感受をわたしは感受する」と知る。
苦の感受を感受しつつ~、
五官の快味をともなう楽(苦)を感受しつつ~
もろもろの感受について生起と衰滅の法を観察して住する。


<3 心を観察して住する>

瞋(いか)りをもった心を、「わたしは瞋りをもっている」と知り、
瞋りを離れた心を「心は瞋りを離れている」と知る。
癡(おろかさ)をもった(離れた)心を~
統一された心を~ 散乱した心を~


<4 法を観察する>


・五つの心の障害を観察する

内部に瞋りがないとき「わたしの内部に瞋りはない」と知る。
まだ生じていなかった瞋りが生じると、それをその通りに知る。
またすでに生じている瞋りが捨てられると、それをその通りに知る。
捨てられた瞋りが将来に生じないとき、それをその通りに知る。
(瞋り、欲望、うつ気と眠気、心の浮つきと後悔、疑い、
 の五つについて同様のフレーズ)


・五取蘊(取著の集まり)を観察する

・感知の場を観察する

・七つの覚りの要目(七覚支)を観察する

法を識別して知る択法(ちゃくほう)覚支、一心に努力する精進覚支、
法を実行することを喜ぶ喜覚支、身心を安らかにする軽安(きょうあん)覚支、
対象へのとらわれを捨てる捨覚支、心を集中して乱さない定(じょう)覚支、
思いを平らかにする念覚支 の七つ


・四つの真理(四諦)を観察する



以上をさして

「この一本道は有情達を浄化し、もろもろの憂い悲しみを乗り越え、
もろもろの苦しみ、悩みを終わらせ、真理を証得し、

涅槃を作証するためのものである」

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自分の身体とその動き、心とその動きを、徹底的に客観視せよ、
一瞬たりとも油断せずに観察せよ、ということですよね。


お釈迦さまはこれが悟りへの「一本道」だと言います。
習得すれば、「誰でも必ず」、現世にいるまま全知を得るか、
または不還者(ふげんしゃ)の境地に至るか、どちらかの果報があると。

となれば、この一本道を粛々と歩むしかない、歩めばいい。
もちろん、どの項目をとっても、なかなか達成できないのですが・・・。


なかでも「不浄観」と「死体の観察」は恐ろしいです。
自分は汚物に満ちた袋であって、死体になって腐って終わるシーンを
リアルに思い浮かべなさい、というのですから。
「人間はそのままで価値がある」みたいな甘ったるい話ではないんですね。


実際、お釈迦さまが半月間、禅定でいないあいだに、
この不浄観の修行をしていた比丘たちが自己嫌悪に陥って、
自殺したり「殺してくれ」と頼んだりして僧院は血の海と化し、
お釈迦さまが帰ってみたら多くの僧が死に絶えていた、
という話が律蔵に出てくるそうです。さすが劇薬です。


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一世を風靡した 藤原 新也 のインドの写真( 「東京漂流」 1983年より)

コピーは「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」


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信州中川村でベーシックインカムを唱える仏教村長

「ブッダゴーサ」というパーリ語仏典の偉大な注釈者がいまして、
ちょっと知りたいことがあって「ブッダゴーサ」で検索したら
トップに「曽我逸郎」という個人のHPが出てきました。
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/index.html


僧侶でも学者でもないけれど初期仏教に取り憑かれた人らしく、
97年ぐらいからHPをやっていて、
ネット上でいろんな人と議論した記録を一覧にまでしていていました。
その相手は、禅僧・ネルケ無方さんから、しょうもない人まで玉石混交で、
曽我さんがボコボコにされているのもありました。
ふつうに仏教ブロガーの走りみたいな感じでした。


それで、今度は「曽我逸郎」で検索したら、

「長野県伊那郡中川村・村長」という人が出てきました。
同姓同名?と思ったら、どうも同一人物らしいのです。
つまり仏教好きの人が、中川村にIターンして、
なぜか2005年に村長選に出たら、なぜか当選したようなのです。

http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/intro/v_chief.html


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中川村という村をはじめて知りましたが、
人口わずか5000人ぐらいで、写真を見るととっても美しい田舎です。


でね、この曽我村長が最近、「ベーシックインカム」を唱えたり
「無防備都市宣言」をして、微妙に注目されているようなのです。
村長としてはあからさまに釈尊云々とは言っていないですが、
普通に考えて仏教の影響大ですよね。
それも、日本の既存宗派の関係者ではなくて、
「ブッダゴーサ」でヒットするような個人マニアが村長やってることに驚きました。
仏教村長の治世やいかに。


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