暴虐マダムと女奴隷の流血試合(第21経「鋸喩経」)
阿含経典・中部をまだはじめの8分の1しか読んでませんが、
今のところ、教えの王道を説くお経が多くて、
面白エピソードにはあまり出会っていません。
ですが、第21経「鋸喩経」には、すごいエピソードが出てきました。
以下は、現代語訳をもとに適当に要約したもの。
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サーヴァッティーにヴェーデーヒカーという名前の主婦(資産家)がいて、
まわりから、やさしく穏やかでもの静かだという評価を得ていました。
ヴェーデーヒカーの家には、有能なカーリーという女奴隷がいました。
カーリーは、ふとこう思った。
「ご主人様は、内面に怒りがありながら現さないのかしら、
それとも怒りがないのかしら。あるいは、仕事がよくなされているので、
私にだけ怒りを表さないのかしら」。
奴隷カーリカーは、主人ヴェーデーヒカーを試すように、
ある日、朝寝坊して昼に起きてみます。
女主人に「なぜ昼まで寝てるのよ」と聞かれ、
女奴隷が「別に、なんでもありません」とあえてふてぶてしい答えをすると、
やさしいはずの主人は怒って、不快な言葉を発しました。
カーリカーは、
「ははーん。ご主人様は内心に怒りがないわけではないらしい。
もっと観察してみよう」と、昼のもっと遅い時間に起きてみました。
それを何度かやったら、やさしいはずのヴェーデーヒカーは大激怒。
こともあろうに閂のくさびをとってカーリカーの頭を殴りつけて流血させる
という、とんでもない暴虐マダムの一面を現したのです。
ところが女奴隷も、たいしたタマでした。
カーリカーは、頭から血をダラダラ流しながら歩き回り、
「みなさーん、やさしくおだやかな人が何をしたか見てください。
奴隷が昼に起きたからといって普通くさびで殴りますかね?」
と近隣にふれまわったのです。
当然、女主人の評判はガタ落ちとなりました。
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なんと恐ろしい、女同士の流血デスマッチ。
そこでお釈迦さまは言いました。
「女人とはかくも血なまぐさいものである」。
というのは嘘で、本当は大事な教訓があるのです。
「普段は、非常にやさしくおだやかでもの静かであっても、
それは本当かどうかわからない。
もろもろの(他者の)不快ないい方に触れてはじめて、
やさしくおだやかでもの静かであるかどうかが試される」
という趣旨のことを、お釈迦さまは修行僧に説くのです。
そして、語り方を5つの観点で見よ、と言います。
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1)ふさわしいときか、ふさわしくないときか
2)真実によるか、虚偽であるか
3)柔和にか、乱暴であるか
4)実利をともなってか、実利をともなわないでか
5)慈しみの心をもってか、怒りのこころをもってか
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つまり、「ふさわしいときに、真実によって、柔和に、
実利をともなって、慈しみの心をもって」語られれば、
それが厳しい内容だったとしても「善き語り方」だということですね。
さらにお釈迦さまは、
「われわれの心をけっして変えないようにしよう、
悪いことばを吐かないようにしよう、また(相手を)思いやって、
慈しみの想いでその人を満たそう。一切の世界を、広く、大きく、
恨みなく、怒りのない慈悲の想いで満たそう」と何度も言います。
たとえ、卑しい盗賊たちにのこぎりで手足を切り落とされても、
心をけっして変えないようにしよう、というのが「鋸喩経」の名前の
由来ですが、なんと遠く厳しい道のりでしょうか。
手足を切り落とされても、眉ひとつ動かさない人間であれ・・・と。
ですが、この教え以上に、
現代と変わらぬ女同士の泥仕合が心に残ってしまいました。
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釈尊直伝、怒り・欲望の抑え方(中部20経、「考想息止経」)
スマナサーラ長老の『怒らないこと』がベストセラーになって、
柳の下のドジョウを狙う自己啓発本も出ていたりしますが、
それだけ世の人はイライラしているんでしょうね。
「阿含経・中部」第20経、「考想息止経」を読んでいたら、
怒りや欲望などの不善の思い(貪・瞋・癡)が沸いてきたら
どうやってそれを消すかということが書かれていました。
実践的なので、明日からやってみようと思います。
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1.不善の思いが心に生起したら、
その兆相とは別の、善を伴う兆相に意を注ぐべきである。
2.それでもまだ不善の思いが生起したら、
その思い(がもたらす結末の)悲惨さを考察すべきである。
3.それでもまだ不善の思いが生起したら、
それらの思いを思念せず、意を注がないようにすべきである。
(見たくない物から目をそらすように放擲する)
4.それでもまだ不善の思いが生起したら、
その思いを作り出してとどまるものはなにか、に意を注ぐべきである。
(つくり出す縁、原因、根元は何かを考える)
5.それでもまだ不善の思いが生起したら、
歯をくいしばって、心をもって心を強く抑え込むべきである。
(『中部経典Ⅰ』春秋社)
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たとえば、ある人に対して怒りが沸いてきそうになったら、
明日からこんなふうに試してみようかな。
1.なにか別の善いこと・やさしいこと・清らかなことを考えよう。
2.そうして怒っていることは、結局、
自分で自分をムダに苦しめているにすぎない。あほらしい。
3.もうその人のことを一切考えるのをやめよう
4.一体なぜ自分はその人を不快に思うのか。
たとえば私が得るべき賞賛を彼が得ている、とか?
私はなぜそんな賞賛が欲しいのか。賞賛などに何の意味があるのか。
5.それでもダメなら、歯をくいしばって怒りを抑え込む!
古代インドに「歯をくいしばる」という表現があったのか?と思いますが、
お経に「歯をもって歯を置き、舌をもって上顎を打ち」と書いてあるんです。
おもしろいですね。
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ユダとデーヴァダッタ
南伝仏教国の文学や映画で提婆達多はどんな扱いなんでしょうかね。
正味の悪者なのか、あるいは業深き者として負のシンパシーを感じる存在なのか。
デーヴァダッタはお釈迦さまの従兄弟で、出家して弟子になったのですが、
のちにお釈迦さまに背いて比丘を連れて別教団をつくり、
お釈迦さま殺害も企てた裏切り者とされています。
(法華経の提婆達多品では、この人も救われることになっていますが)
デーヴァダッタがどんな扱いか?と思ったのは、
キリストを裏切ったユダは、単なる大悪人とはちょっと違う、
ややこしくも文学的な位置づけをされてるような感じがするからです。

ゲイ的な含みさえ感じる「ユダの接吻」
ロックミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』では、
弟子のなかで唯一黒人のミュージシャンがユダを演じていました。
それから、若かりし頃に激しく感動した太宰治の「駆け込み訴え」。
ユダの一人称で、キリストへの愛憎が血を吐くように語られます
ぜひ読んでみていただきたい。
「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。
はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。」
(あの人とは、もちろんキリスト)
いま青空文庫で全文読めます
↓
http://mirror.aozora.gr.jp/cards/000035/files/277.html
ボブ・ディランがアコースティックギターをエレキギターに持ちかえたとき、
客席から「ユダ!」というわかりやすい野次が飛びましたが、
そういった場面で仏教国では「デーヴァダッタ!」という野次が飛んだりするのかな?
大映の壮大な失敗作、映画『釈迦』では、
デーヴァダッタが勝新太郎で、最後には救われておりましたが・・・。
それで、今回はじめて発見したのですが、
「提婆達多」という文学作品があるんですね。
作者は、漱石の弟子筋の詩人・中勘助。
どの程度のフィクション割合なのかわかりませんが、
面白そうなので、そのうち読んでみたいと思います。
『提婆達多』
中勘助(1985年、緑51-5、品切れ重版未定:もとは新潮社1921年)

(岩波HPより)
ひとり彼にのみ勝利の日を楽しませはせぬ!」――仏陀に対する狂おしいまでの嫉妬と憎しみから,生涯,執拗に仏陀に挑みつづける従弟提婆達多.我執の権化ともいうべきその姿をとおし,人間の我と妄執の生みだす悲劇が力強い文体で描き出される.和辻哲郎による書評「『提婆達多』の作者に」を付載. (解説 荒 松雄)
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