「釈迦族」ってどんな族?(「中部経典」第18経「蜜丸経」)
あまりにも基本的な疑問が浮かんできたのですが、
釈迦族って何人ぐらいいて、どういう関係性の「族」なのでしょうか?
古代インドの「族」とは、どういう単位なんでしょうか? やはり血縁?
(こういうことを書いた文献は絶対にあるはずで、単に未読なだけなのですが)
釈迦族が形成していた小国家・カピラヴァットゥは
「千葉県ぐらいの大きさ」(新・仏教辞典)だそうで、
すると日本でいう「曽我一族」「北条一族」ぐらいの規模かなのかしらと
思いましたが、「釈迦」が姓ではないのなら血縁とは限らないのかな?
そんな疑問があらためて起こったのは、
「中部経典」第18経「蜜丸経」を読んだからです。
このお経には、お釈迦さまの母方の叔父・ダンダパーニが登場します。
ダンダパーニ叔父さんは、マーヤー夫人(お釈迦さまの実の母)の弟で、
デーヴァダッタのお父さんですね。
そして、マーヤー夫人・ダンダパーニ・デーヴァダッタ・たちは、
釈迦族ではなくてコーリヤ族という、隣の「族」なんですよね。
叔父さんは、お釈迦さまにこう問います。
「一体、沙門よ。あなたはなにを論じ、なにを説く方なのか」。
お釈迦さまは、
「わたしは世間の誰とも論争しない。
欲望・疑念・渇愛がなく想念がない」と答えます。
すると、ダンダパーニ叔父さんは、
「頭を振り、舌を上下させて、三筋の皺を額に寄せた渋面を現して、
(黄金の)杖に寄りかかって立ち去った」。
まったく勝手に想像すると、こんな感じでしょうか?
姉が隣の「族」に嫁いで、男の子を産んだが、7日目に死んでしまった。
姉が命がけで産んだのに、甥っ子は成人して妻子を捨てて失踪してしまい、
なんだか訳のわからない新しい教えを説いて新興教団を作っている。
「甥っ子よ、キミは一体、何をしたいんだ?」と聞いても、
「私には想念がない」などと訳のわからないことを言うから、
もう叔父ちゃんとしては、呆れて渋面で立ち去ったよ。
お釈迦さまが、この話を比丘たちにしたところ、比丘にもよくわからず、
「誰とも論争しないというなら、世尊は一体何を論じているのか」という
質問が出るのですが、お釈迦さまはあまりちゃんと答えずに、
席を立って僧房にこもってしまいました。
このときのお釈迦さまの気持ちを想像すると胸が痛くもあるのですが、
同時に「釈迦族・コーリヤ族」の「族」とはいかなる単位か?
という疑問も浮上したのでした。
このお経の註としてブッダゴーサの註が添えられているのですが、
これが面白い。
「聞くところでは、かれ(デーヴァダッタ)はこういう。
『沙門ゴータマは家を含めてわれわれの怨敵である。
かれは我々の家の繁栄を望まない。
私の姉も、かつては輪転王(お釈迦さま)の妃であった。
彼女を捨てて<この女は滅びる>と、家を出て出家した。
私の甥・ラーフラ(お釈迦さまの息子)をも、まだ若年のうちに出家させた。
そしてわたし(デーヴァダッタ)は、この人がいないとやっていけないので、
従って出家した。
このように出家した私をも、(お釈迦さまは)素直な眼で見ない・・・」
ああ、眠くて文章がメロメロだ。
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捨てられた木片のように沈黙を(入菩提行論 その2)
先日に続き、『菩提行経』(入菩提行論)について。
8世紀にシャーンティディーヴァが書いたもので、
ダライ・ラマ法王はよく法話で取り上げるようです。
今日から使える実践的なアドバイスが多くて、私はたくさん線を引きました。
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第5章 よく気をつける心を護ること(護戒品)
(もしも敵を殺すというのなら)私はどれだけの敵を
殺したらよいのだろう。敵は虚空に等しいほど無数に
あるのだから。しかし怒りの心を殺したならば、
一切の敵を殺したことになる。
(5章ー12)
それと同様に、私は外界の諸事物を制することはできない。
私は自分の心を制することにしよう。
私はどうして他のものを制する要があろうか。
(5章ー14)
(ブッダを憶念することに)次いで私は、感官のない者のように
とどまらねばならない。―ーあたかも木片のごとくに。
いつでも無益にまなざしをうろつかせてはならない。
視線はつねに、瞑想しているがごとくに、下に向けていなければならない。
(5章ー34,35)
もしも自分の心が愛著になずみ、あるいは憎悪しているのを見るならば、
(何事をも)してはならぬ。言ってはならぬ。
(捨てられた)木片のごとくであれ。(5章-48)
(わが心は)忍耐心なく、怠慢で、畏れおののき、向こうみずで、
罵詈を好み、また自分の徒党を偏愛する。
それゆえに私は木片のようでありたい。(5章-53)
眉をしかめることを止めよ。世の人々を親友として、
まず自分のほうから話しかけるものであれ。(5章-71)
私は身体で読もう。ことばを読むことに何の意義があろうか。
治療法を読むだけならば、病める人にとって何の役に立とうか。
(5章ー109)
第6章 耐え忍びの完成(菩提心忍辱波羅蜜多品)
敵あるいは友が道理にかなわぬ行いをしていても、
「この人には、このようにさせる諸の原因があるのだ」と
このように考えて、安楽にしておれ。
(6章ー33)
もしも他人に悩害を加えることが凡夫の本性であるならば、
私が凡夫に向かって怒りを起こすことは正当ではない。
それは譬えば焼くという本性のある火にたいして
(怒りを起こすことが正当でないのと)同様である。
(6章ー39)
第8章 禅定の完成(菩提心静慮般若波羅蜜多品)
私は唯だひとり楽しく暮らして行こう、心を汚されることなく。
愚迷なる者からは遠く離れて逃れよ。
もしも出会ったならば、かれらを喜ばしめよ。
しかし親しい交わりを結ぶな。行者のように無関心、平静であれ。
(8章ー15)
「私には所得がある。私は尊敬されている。多くの人は私を熱望
している」と思っている人に、死が到来すると、怖れが生じる。
(8章ー17)
『論書・他』(東京書籍、中村元著)
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あんまり書くと何ですから、興味があれば上記の本を買ってください。
200ページ以上が、『菩提行経』についてで、漢文書き下しと
サンスクリット和訳が相当長く載っています。
後期大乗時代に書かれたものでありながら、
このあたりは初期仏教好きの人にも違和感がないと思いませんか。
「犀の角のように」(スッタニパータ)と同時に、
「捨てられた木片のように」も心に留め置きたいフレーズだと思いました。
ただ、読んでいるうちに、「そこまでいくと私には無理!」という
方向に進んでいくのも事実です。
たとえば、
「私に害を加える人々は、私の業に駆り立てられたにすぎず、
それによって地獄行きになるのだから、私こそが彼らに害を加えたのだ」
という倒錯スレスレの境地は、これいかに。
また、この『菩提行経』は「奉仕の精神」がメインテーマです。
「我」という概念が迷妄なのだから、私の苦しみと他人の苦しみの間には
何の差もない。苦しみはすべて無差別に主体のないものであって、
他人(=自分)を救うためには地獄の釜にも飛び込むのが悟りの道である。
自分ひとり解脱するなどという味気ないことには何の意味もない。
生けるものどもは、犬畜生であっても、仏と区別はなく同等である――。
このへんまでいくと、ザッツ・大乗という感じでしょうか。
ですが、人類38億人の苦しみや、無量大数=10の68乗を超えるであろう
生きとし生けるもの全ての苦しみまでしょい込むのは現実問題として不可能だし、
すいませんが私だけでも解脱させてください、というのが正直なところです。
ぬかるみにいる者が、ぬかるみにいる者を引き上げることはできませんから。
菩薩道って、自分を救われる立場に置けば優しいようでいて、
自分を救う立場に置くととんでもなく厳しい教えですよね。
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罪深い私の懺悔(入菩提行論 その1)
初期仏典と大乗仏典を並行して読むという、
でたらめな大小チャンポン読みをしておりますが、
今回たまたま出会った大乗文献は強烈でした。
『菩提行経』または『入菩提行論』。
仏典ではなくて、シャーンティデーヴァ(寂天、650~750年頃、西インドの王族)
という人が記したもので、チベットや、また欧米ではよく知られているそうです。
日本では現代になるまでほとんど読まれていなかったのを、
中村元先生が感銘を受けて普及に励んでおられたそうです。
それで中村先生が訳したものを、私は偶然読んだのでした。
いままで読んだどの大乗仏典よりも、
私はこの『入菩提行論』が面白かったし、好きかもしれない。
今の段階では、ですけれども。
その理由は、私自身が何をすべきで何をすべきでないかが
はっきり書かれているーーという点なのですが、
いっぺんに書くとパワーがないので、少しずつひらがな写経をいたします。
たとえば、この部分のパッション、どうでしょうか。
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2章 罪悪の告白
私は、私自身を、諸のみ仏と仏の子らにすっかりささげます。
最上の人々(み仏がた)よ、私を受け容れてください。
私は熱烈な信愛をもってあなたがたの召し使いとなりましょう。
(2ー8)
三宝にたいし、あるいは父母にたいし、あるいは師にたいし、
あるいは他人にたいし、怠慢のゆえに、身と語と意をもってなした過失、
無数に多くの過ちに汚されている罪深き私がつくった恐ろしい罪悪
ーーその一切を、私は告白いたします。
(2-30、31)
私はここにとどまっているが、そのあいだに数多くの愛しい者・憎い者どもが
過ぎ去って行った。
しかしかれらのために犯した恐ろしい罪悪だけは私の前面にとどまっている。
(2-38,39)
導きたもうみ仏がたよ。罪過を罪過として納受したまえ。
諸の師王よ。このような悪を私は二度といたしません。(2-66)
『論所・他』(東京書籍、中村元著より)
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なにか、パイプオルガンの音が聞こえてきませんか。
長い長い輪廻のなかで、自分が犯してきたはずの罪を告白し懺悔するーー
ほとんどキリスト教の「原罪=人は生まれながらにして罪である」
という感覚に近いように思えるのですが。
(続きは後日)
関係ないけど、まだ見てないけど、この映画おもしろそう。
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