「ドイツ人禅僧と座禅を組もう」およびオルデンベルグ『仏陀』新版
新聞に朝日カルチャーセンターの講座一覧が出ていたのですが、
仏教関係の講座って相当たくさんあるんですねー。
なかでも写真付きで紹介されていて人気を呼びそうなのが
ドイツ人の禅僧・ネルケ無方(むほう)さんと一緒に座禅しましょう、
という講座です。
(7月31日、横浜教室、午後1時~、3465円 私は行く予定はないけれども)
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=124118&userflg=0
ネルケさんは「なんのために生きるんだ」と悩んでひきこもりになって、
日本に来てホームレスなどをやったあと、兵庫県の安泰寺の住職になった方です。
最近『迷える者の禅修行』(新潮新書)という本も出しました(未読)。
『サンガジャパン』のインタビューで、
「日本に来て初めてわかった。
生きることは問いではなくて、答えなんだ」
と言っていたのが印象的でした。
ドイツ人と仏教って、相性がいいのかしら?
よく知られているように、ニーチェは初期仏教が大好きらしいし、
ショーペンハウエルは仏教(というよりウパニシャッド哲学)が大好きだったし、
ヘルマン・ヘッセは『シッダールタ』という私の好きな美しい仏伝小説を書いているし、
19世紀に初期仏教を研究した有名な仏教学者オルデンベルグさんもドイツ人だし、
マクス・ミューラーさんも出身はドイツ。
まぁ哲学大国のドイツだから当たり前なのかもしれませんがね。
フランス人に「人生は苦だ」は、あんまり合わない気もするし。
私はニーチェをちゃんと読んでないので、真偽はわかりませんが、
こんなふうに言ってる若い思想家の人もいました。
「ニーチェは『スッタニパータ』を非常に早い時期に英訳で読んでいるんですね。
で、ニーチェは、ブッダの考えていることがわかるためには、ヨーロッパ人は
あと百年、いやもっとかかるかもしれない、レベルが違うと言ってる。
仏教は究極のニヒリズムである、と言ってる。
しかしニーチェ曰く、ニヒリズムを超えるには徹底的にニヒリズムをやるしか
ないわけですね。
そういう意味で、ブッダの<究極のニヒリズム>は、ニヒリズムを徹底化すること
によってそれ自身を超えようとしている。
これはニーチェが他人の哲学に捧げたもっとも深い賛辞のひとつですね」
(『アナレクタ1 足ふみ留めて』佐々木中著)
そんなことを思っていたら、
オルデンベルグさんの『仏陀』の邦訳が、つい最近、現代かなづかいなどで
読みやすくなって再版されたというじゃないですか。
しかも木村泰賢先生の翻訳が底本だというじゃないですか。
…また読むべき本が増えてしまった。
こうやってあくせくするのは、まったく仏教的態度ではないと思いつつ。
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ヘルマン・オルデンベルグ著
『仏陀 その生涯、教理、教団 』(1881年初版、訳書は初版1928年)
訳:木村泰賢 景山哲雄
2011年5月30日 、6825円 書肆心水刊
(以下、版元HPより)
●ニーチェが読んで刺激されたブッダ論
ブッダ研究の世界的古典。 ブッダの歴史的存在と原始仏教の姿を文献的に立証。 1881年の初版以来名声を博し、数度の改訂を経て、英語版、ドイツ語版原典は今なおペーパーバックで読み継がれる記念碑的名著。
「私はヨーロッパのブッダになるかもしれない。とは言っても、もちろんそれはインドのブッダとは対蹠的人物だろうが」と書いたニーチェと仏教の関係については種々の議論がありますが、事実関係として言えば『アンチクリスト』における仏教についての言及のほとんどが本書を踏まえたものであるということが研究者により指摘されています。
http://www.shoshi-shinsui.com/book-buddha.htm
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実は「十二縁起」がわからない(中部経典9経「正見経」2)
『中部経典』の第九経「正見経」では、舎利弗 が「十二縁起(十二因縁)」を
説いています。
これもお釈迦さまの教えの根本中の根本なのですが、
実は私は、この十二縁起がまだピンときていないようです。
たとえば、ませた中学生に「おばちゃん、なんで僕は苦しいの?」と聞かれたとき、
中坊にわかるように無明から老死までの因果を説明する自信はまったくありません。
(「行」のあたりと「有・生」のあたりがどうも繋がらない)
<十二縁起>
無明(むみょう、avidyaa)→ 行(ぎょう、saMskaara)→識(しき、vijJaana)
→名色(みょうしき、nama-ruupa)→六処(ろくしょ、SaD-aayatana)
→触(そく、sparSa)→受(じゅ、vedanaa)→愛(あい、TRSnaa)
→取(しゅ、upaadaana) →有(う、bhava) →生(しょう、jaati)
→老死(ろうし、jaraa-maraNa)
喩え話が得意な仏典でも、(私の読んだ範囲では)十二縁起は抽象的な語り口
しか出てこないような・・・。
前に根津美術館で見てのけぞった鎌倉時代の縁起絵巻。左の鬼が「無明」です。
当時の民衆が縁起をわかってなかったであろうことがわかる絵巻。
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-10601126112.html
それで、「正見経」から、縁起(逆走バージョン)のところを抜書きしました。
どこがわからないか発見するために、本当に抜書きしただけなので、
以下は読んでもちっとも面白くないです。
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第九経「正見経」より
それでは老と死とはなにか。なにが老と死との生起か。老と死との消滅はなにか。
なにが老と死の消滅におもむく実践修行か。
それぞれの有情たちは、それぞれの有情の部類のなかで老い、老衰し、壊れ、
白髪になり、皺がより、寿命が減り、もろもろの根(感官)が破れる。
これが老いといわれる。
また死とはなにか。
それぞれの有情は、それぞれの有情の部類から死去し、死し、壊れ、滅し、
死を迎え、命を終え、諸蘊が壊れ、死体を捨てる。
これが死といわれる。
生まれが生起すると老死が生起する。
生まれが消滅すると老死が消滅する。
それでは生まれとは一体なにか~(以下同じ)。
それぞれの有情はそれぞれの有情の部類のなかで生まれ、
出生し、現れ、再生し、諸蘊が明らかになる、もろもろの感官を得る。
これが生まれといわれる。
生存(有)が生起すると生まれが生じる。
生存が消滅すると生まれが消滅する。
それでは生存(有)とはなにか~。
これら三つの生存がある。
欲望あるもの(欲界)の生存、色形あるもの(色界)の生存、
色形のないもの(無色界)の生存である。
取著(執着)が生起すると生存が生起する。
取著が消滅すると生存は消滅する。
それでは取著はなにか~。
欲望の取著、見解の取著、戒や務めの取著、自説の取著である。
渇愛が生起すると取著が生起し、渇愛が消滅すると取著は消滅する。
それでは渇愛とはなにか~。
六つの渇愛の集団がある。色形あるものへの渇愛、音声への渇愛、
においへの渇愛、味への渇愛、触れられるものへの渇愛、法への渇愛である。
感受が生起すると渇愛が生起し、感受が消滅すると渇愛は消滅する。
それでは感受とはなにか~。
六つの感受の集団がある。
眼で触れて生じる感受、耳で触れて生じる感受、鼻で触れて生じる感受、
舌で触れて生じる感受、身で触れて生じる感受、意(こころ)で触れて生じる感受がある。
接触が生起すると感受が生起する。接触が消滅すると感受が消滅する。
それでは接触とはなにか~。
六つの接触の集団がある。眼で触れ、耳で触れ、鼻で触れ、舌で触れ、身で触れ、
意で触れることである。
六つの感覚の場(六入)が生起すると接触が生起し、六つの感覚の場が消滅すると
接触は消滅する。
それでは六つの感覚の場とはなにか~。
これら六つの場がある。眼がはたらく場、耳がはたらく場、鼻がはたらく場、
身がはたらく場、意がはたらく場である。
名前・色形あるものが生起すると六つの感覚の場が生起し、
名前・色形あるものが消滅すると六つの感覚の場は消滅する。
それでは、名前・色形あるものとはなにか~。
感受、概念化(想)、思念、接触、意を注ぐこと、これが名前(標識)といわれる。
また四大要素(地・水・火・風)および四大要素によって色形あるものがある。
これが色形あるものといわれる。
これが、名前・色形あるものといわれる。
識別して知ることが生起すると、名前・色形あるものが生起する。
識別して知ることが消滅すると、名前・色形あるものは消滅する。
それでは識別して知ることとはなにか~。
六つの識別して知ることの集団がある。
眼で識別して知る、鼻で識別して知る、舌で識別して知る、身で識別して知る、
意で識別して知ることである。
行(なにかを作ろう、なそうとする意志)が生起すると識別して知ることが生起し、
行が消滅すると識別して知ることは消滅する。
それではもろもろの行とはなにか~。
三つの行がある。身行(身で作りなそうとする意志)、語行(ことばで作りなそうとする意志)、
心行(心で作りなそうとする意志)である。
無明(知らないこと)が生起すると行が生起する。無明が消滅すると行は消滅する。
それでは無明とはなにか~。
およそもろもろの苦を知らないこと、もろもろの苦の生起を知らないこと、
もろもろの苦の消滅を知らないこと、苦の消滅におもむく実践修行を知らないこと、
これが無明といわれる。
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根本中の根本「四諦」をあらためて(中部経典 第九経「正見経」1)
週末にようやく『原始仏典 中部経典』を少し読み進めることができました。
(第五経~第九経)
なかでも第九経「正見経」は、「四(聖)諦」「十二縁起」など、
仏教の根本中の根本を、お釈迦さまの前で舎利弗がみんなに説く、
という体裁になっていました。
こういう根本中の根本を、自分でいまいち理解できてないフシがあるのですが、
へたな解説書を読むより仏典そのものを読むほうがわかやすかったりします。
なので、忘れないうちに「四(聖)諦」の部分を”ひらがな写経”しておきます。
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第九経「正見経」
いったい何が苦(dukkha)であり、なにが苦の生起であり、なにが苦の消滅であり、
なにが苦の消滅におもむく実践修行なのか。
(すなわち)生まれも苦、老いも苦、病気も苦、死も苦である。
愁い・悲しみ・苦痛・憂い・悩みも苦である。
およそ求めているのに得ないと、それも苦である。
簡単にいえば五取蘊(取著=執着=する色・受・想・行・識)は苦である。
これが、苦といわれる。 (→苦諦)
ではなにが苦の生起か。
およそこの渇愛があり、(それは)再生するものであり、
喜びと欲情をともない、それぞれに大きな喜びをもつものである。
つまりそれは欲望の渇愛、生存の渇愛、虚無の渇愛であり、
これが苦の生起といわれる。 (→集諦)
また、なにが苦の消滅か。
(すなわち)それはその渇愛そのものの余すことなき離別・消滅であり、
捨であり、放棄、解脱、無執着である。
これが苦の消滅といわれる。 (→滅諦)
では、苦の消滅におもむく実践修行はなにか。
この聖なる八支の道こそが、苦の消滅におもむく実践修行である。
すなわちそれは、正しい見解、(正しい思惟、正しいことば、正しい生活、
正しい精進、正しい思念)、正しい精神統一である。 (→道諦)
聖弟子がこのように苦を知り、このように苦の生起を知り、
このように苦の消滅におもむく実践修行を知るならば、
かれはあらゆる潜在する欲情を捨て、潜在する瞋り(いかり)を除去して
(『わたしはある』という見方に潜在する自負心を根絶し、無明を捨てて明智を起こし)、もう現在のままで苦の終わりを作る者となる。
(訳:及川真介氏)
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ちなみに、「苦」(パーリ語でdukkha ドゥッカ)は、
日本語の「苦しい」とは少し違って、
「空しい、不満、不安定、苦しい」というような意味だそうです。
「生きることは苦である」と日本語で言われると、「そうか?」と感じてしまいますが、
「生きることは、常に不完全で満たされず安らかでない」といった意味に捉えると、
まったくその通りですよね。
それから、上記の「四諦」であらためて唸ったのが、
「渇愛=tanhâ(タンハー)」は「大きな喜びをもつものである」とのくだりです。
やっぱり楽しい、嬉しいんですよねえ。
美味しいものを食べる、好きな人と結ばれる、子供と幸せに暮らす……。
お釈迦さまだって出家する前は贅沢三昧、妻子もいるうえハーレムで遊び放題の環境にいて、それなりの喜びについても重々承知なんですよね。
「あれは喜びだよね、うん、痛いほどわかる。でもね、それはやがて<もっと欲しい><もっと生きたい>という苦しみになるんですよ。
だって現実はその通りにならないから」
と断腸の思いで言われているような気がして、
やっぱり仏教は酸いも甘いもわかった大人の教えであるよなぁ、と思う次第です。
王子時代のお釈迦様の結婚式
また、「生存への渇愛=もっと生きたい」という生物の本能まで断ち切れ、
というのですから、凄まじい教えでもありますよね・・・。
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