実は「十二縁起」がわからない(中部経典9経「正見経」2)
『中部経典』の第九経「正見経」では、舎利弗 が「十二縁起(十二因縁)」を
説いています。
これもお釈迦さまの教えの根本中の根本なのですが、
実は私は、この十二縁起がまだピンときていないようです。
たとえば、ませた中学生に「おばちゃん、なんで僕は苦しいの?」と聞かれたとき、
中坊にわかるように無明から老死までの因果を説明する自信はまったくありません。
(「行」のあたりと「有・生」のあたりがどうも繋がらない)
<十二縁起>
無明(むみょう、avidyaa)→ 行(ぎょう、saMskaara)→識(しき、vijJaana)
→名色(みょうしき、nama-ruupa)→六処(ろくしょ、SaD-aayatana)
→触(そく、sparSa)→受(じゅ、vedanaa)→愛(あい、TRSnaa)
→取(しゅ、upaadaana) →有(う、bhava) →生(しょう、jaati)
→老死(ろうし、jaraa-maraNa)
喩え話が得意な仏典でも、(私の読んだ範囲では)十二縁起は抽象的な語り口
しか出てこないような・・・。
前に根津美術館で見てのけぞった鎌倉時代の縁起絵巻。左の鬼が「無明」です。
当時の民衆が縁起をわかってなかったであろうことがわかる絵巻。
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-10601126112.html
それで、「正見経」から、縁起(逆走バージョン)のところを抜書きしました。
どこがわからないか発見するために、本当に抜書きしただけなので、
以下は読んでもちっとも面白くないです。
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第九経「正見経」より
それでは老と死とはなにか。なにが老と死との生起か。老と死との消滅はなにか。
なにが老と死の消滅におもむく実践修行か。
それぞれの有情たちは、それぞれの有情の部類のなかで老い、老衰し、壊れ、
白髪になり、皺がより、寿命が減り、もろもろの根(感官)が破れる。
これが老いといわれる。
また死とはなにか。
それぞれの有情は、それぞれの有情の部類から死去し、死し、壊れ、滅し、
死を迎え、命を終え、諸蘊が壊れ、死体を捨てる。
これが死といわれる。
生まれが生起すると老死が生起する。
生まれが消滅すると老死が消滅する。
それでは生まれとは一体なにか~(以下同じ)。
それぞれの有情はそれぞれの有情の部類のなかで生まれ、
出生し、現れ、再生し、諸蘊が明らかになる、もろもろの感官を得る。
これが生まれといわれる。
生存(有)が生起すると生まれが生じる。
生存が消滅すると生まれが消滅する。
それでは生存(有)とはなにか~。
これら三つの生存がある。
欲望あるもの(欲界)の生存、色形あるもの(色界)の生存、
色形のないもの(無色界)の生存である。
取著(執着)が生起すると生存が生起する。
取著が消滅すると生存は消滅する。
それでは取著はなにか~。
欲望の取著、見解の取著、戒や務めの取著、自説の取著である。
渇愛が生起すると取著が生起し、渇愛が消滅すると取著は消滅する。
それでは渇愛とはなにか~。
六つの渇愛の集団がある。色形あるものへの渇愛、音声への渇愛、
においへの渇愛、味への渇愛、触れられるものへの渇愛、法への渇愛である。
感受が生起すると渇愛が生起し、感受が消滅すると渇愛は消滅する。
それでは感受とはなにか~。
六つの感受の集団がある。
眼で触れて生じる感受、耳で触れて生じる感受、鼻で触れて生じる感受、
舌で触れて生じる感受、身で触れて生じる感受、意(こころ)で触れて生じる感受がある。
接触が生起すると感受が生起する。接触が消滅すると感受が消滅する。
それでは接触とはなにか~。
六つの接触の集団がある。眼で触れ、耳で触れ、鼻で触れ、舌で触れ、身で触れ、
意で触れることである。
六つの感覚の場(六入)が生起すると接触が生起し、六つの感覚の場が消滅すると
接触は消滅する。
それでは六つの感覚の場とはなにか~。
これら六つの場がある。眼がはたらく場、耳がはたらく場、鼻がはたらく場、
身がはたらく場、意がはたらく場である。
名前・色形あるものが生起すると六つの感覚の場が生起し、
名前・色形あるものが消滅すると六つの感覚の場は消滅する。
それでは、名前・色形あるものとはなにか~。
感受、概念化(想)、思念、接触、意を注ぐこと、これが名前(標識)といわれる。
また四大要素(地・水・火・風)および四大要素によって色形あるものがある。
これが色形あるものといわれる。
これが、名前・色形あるものといわれる。
識別して知ることが生起すると、名前・色形あるものが生起する。
識別して知ることが消滅すると、名前・色形あるものは消滅する。
それでは識別して知ることとはなにか~。
六つの識別して知ることの集団がある。
眼で識別して知る、鼻で識別して知る、舌で識別して知る、身で識別して知る、
意で識別して知ることである。
行(なにかを作ろう、なそうとする意志)が生起すると識別して知ることが生起し、
行が消滅すると識別して知ることは消滅する。
それではもろもろの行とはなにか~。
三つの行がある。身行(身で作りなそうとする意志)、語行(ことばで作りなそうとする意志)、
心行(心で作りなそうとする意志)である。
無明(知らないこと)が生起すると行が生起する。無明が消滅すると行は消滅する。
それでは無明とはなにか~。
およそもろもろの苦を知らないこと、もろもろの苦の生起を知らないこと、
もろもろの苦の消滅を知らないこと、苦の消滅におもむく実践修行を知らないこと、
これが無明といわれる。
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