釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -115ページ目

ヘレン・ケラーの阿頼耶識

もしかして「私」はホルマリンづけにされた脳で、
いろいろな電極が繋がれて電気ショックが与えらていて、
風景や他人が見えたり音が聞こえているだけではないか?
本当は周りに何も存在しない実験室なのではないか?


といった妄想を抱いたことは誰でもあると思います(ないかな)。
今ではさすがにこういう想像に囚われることはないですが、
でも絶対に外界は存在すると証明できるのかどうか、私の頭ではよくわかりません。


こんなことを思い出したのは、少しだけ「唯識論」を触ったからです。
解説書を読んだだけで『唯識三十頌』をちゃんと読んだわけではないので、
「今の時点での自分の疑問」としてメモしておきます。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~


たとえば目の前に氷があるとします。


1・本当は外界に氷などない。見えた気がするだけ
2・外界に何かは存在するが、「氷」という実体はない  
3・外界に存在してもしなくても、どっちでも同じ


唯識論が言ってるのは、煎じ詰めると1・2・3のどれなんでしょうか?


2なら、そのとおりだと思います。
氷と名付けたものは、じき水になり水蒸気になって消えてしまうし、
人によっては「石」や「何か変なもの」に見えてるかもしれませんから。

でもこれなら「縁起」「空」と言えばいいわけですよね?

もし1だったら、私は乗れないなあ、という印象です。
ですが以下のような表現を読むと、もしや1なの?という気もしてきます。

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 この識の生成展開は[実際には実在しないものを、実在すると]
構想するはたらきである。その[構想され現し出されたものは、実には]存在しない
 それゆえに、この一切のものはただ識によって現し出されたものである


(『唯識三十頌』17 サンスクリット原文和訳 『論書・他』中村元著から引用)
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また、ひたすら唯識の本ばかり書かれている横山紘一氏のサイトには
こう書いてありました。


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唯識無境とは、ただ識のみで境はない、

すなわち「外界には“もの”(=境)はなく、ただ“識”すなわち心だけが存在する」という<唯識>の根本主張を表したものです。



「眼を開いて実際にみる太陽と、眼を閉じて心の中に描き出し再現した太陽との
二つの太陽の存在性の度合いは同じではないか。どちらも心の中の影像ではないか」と<唯識>は訴えてくるのです。
本当に心の中の影像以外に「物」として、あるいは「心」として存在するものは
あるのでしょうか。


「唯識塾」http://www.kouitsu.org/   (このサイトはわかりやすい)
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で、ありもしない氷が見えた気がするのは、
阿頼耶識(アラヤしき)という根本識の中に、ありとあらゆる種子が内蔵されていて、
それが発動するから、みたいな話らしいです。

「阿頼耶識」という言葉の響きは好きなのですが、これがまたよくわからない。


たとえば、ヘレン・ケラーは触覚があったので、

サリバン先生が水を触らせて指で「WATER」と書いたとき、

「物には名前がある」と気づいたと言われます。

ヘレン・ケラーの阿頼耶識の中の種子は、人とは違うのか?

すべてそろっているけど色や音が起動しないだけなのか?


もし生まれつき眼・耳・鼻・舌・身(触覚)のすべての感覚がない子供がいたら、
その子にも阿頼耶識と末那識はあるんですよね?
その子の阿頼耶識が何かの種子を内蔵することは可能なのでしょうか?
唯識論者が言う「識も実体はない」は、つまりどういうこと?


唯識(別名「瑜伽(ヨーガ)行派」)はマイトレーヤが開祖とされ、
4~5世紀にヴァスバンドゥ(世親 5C)が体系化して
玄奘が中国に伝え、日本では興福寺・薬師寺・清水寺などの大きな寺に
受け継がれています。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
興福寺で見た国宝の世親・無著像。ペシャワールの人には見えない。


一方で唯識を批判する人もいます。
「仏教である以上、『我』を否定しているように見せているが、
『識』という言葉に置き換えて実体視している」(定方晟著『空と無我』)とか、
もっと単刀直入に
「阿頼耶識は結局、お釈迦さまが否定したアートマン(我)じゃねーか」
と言っているテーラワーダ系の人もいました。


まあいいや。そのうち勉強しよう。
『中部経典』が重すぎるので、持ち歩き用に読んでいた本
(『論書・他』中村元著)で唯識をかすっただけでわかるはずがない。


ところで、『ジョニーは戦場へ行った』(71年)という映画は
背筋が寒くなるので、一度見てみてください。
爆撃で目・鼻・口・耳・両手足を失った戦士の脳内世界の映画です。
唯識とは別に関係ありません。


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仏教学術論文も読めるアーカイブサイトに驚く

仏教の学術雑誌ってどういうのがあるのだろう?と思って
ネットをいじくっていたら、こんなアーカイブを見つけました。


プロなら知っているのでしょうが、私は知りませんでした。
いろいろな分野の学術雑誌約700種類の論文を一発検索、
pdfファイルで全文を無料閲覧できるのですよ。

http://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/top_ja.php


この中に、仏教誌もいくつか入っているんですね。
たとえば日本のダークヒーロー「阿修羅」で検索すると、212論文がヒット。

「アスラからビルシャナ仏へ」(『密教文化』1960年)、
「曇鸞の信仰論理-大集経の浄土教理-」(『印度學佛教學研究』、1983年)、
「仏像彫刻の寿命を決めるもの」(マテリアルライフ学会誌、2002年)
といったマニアックでおいしそうなタイトルがズラズラと並びます。


なかには
「アメリカズ・カップ挑戦艇〈阿修羅>〈韋駄天〉の構造設計および建造」
(日本複合材料学会誌)やら、
「臓器移植の立場から」(日本蘇生学会雑誌)などが混じっているのもご愛嬌、
どこかしらに阿修羅という単語が出てくるのでしょう。


これが全部、pdfファイルで読めてしまうんですからねえ。
あー恐ろしい時代になったものだ。


論文といえども玉石混交でしょうし、古すぎる論文もあるのでしょうが、
仏教学術誌のハードボイルドな世界を覗きみることができました。


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恐怖にとらわれたとき(中部経典1~4経)

『原始仏典 中部経典』を読み始めたので、その備忘録です。
(しかし原始という言葉はイメージ的にどうなんだろうという気もしますが)
釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

本日は

第一経 根本法門経・・・根本にあるもの
第二経 一切漏経・・・・漏煩悩を捨てる
第三経 法嗣経・・・・・法を相続する者
第四経 怖駭経・・・・・森に独り住む


いずれも、ストーリー性はないものの、お釈迦さまの教えのメインストリームが
直球で説かれていました。


<印象に残ったところ>

◆第一経 根本法門経

たとえば火を知覚した場合、凡夫・有学の比丘、阿羅漢、如来でどう違うか。
私の勝手な解釈では、


凡夫の会話
「あ、火だ」「やった!暖まっていこうぜ」「枝につけて家に持ち帰ろう」
「あれ、うまくつかないぞ」「くそっ、風で消えちゃったよ!!」


阿羅漢の会話
「火だね」「そうだね。それがなにか?」「いや別に・・・」


阿羅漢、如来は何かを知覚しても、喜ばないし、「わたしのものだ」と考えない。
このお経は、同じフレーズが地・水・火・風・有情・神々などについて繰り返されます。
そして最後の1行は、
比丘たちは世尊が述べたことに大歓喜した」。

この最後の「大歓喜した」「おおいに喜んだ」というのは、
お経の最後にくる定型フレーズです。


ところが、註を読んで驚きました。
シャム版やビルマ版の最後の1行は「比丘たちは大歓喜しなかった」。

なんか飲みながら読んでいたら、ブーッと噴き出しそうです。
500人の比丘たちは、お釈迦さまの言葉を理解できなかったというのです。


定型フレーズわざわざ変えてそんなオチにするとは、
正直というかなんというか。


実際ね、お釈迦さまの話が深遠すぎて、周りがみんなポカーンとしていた、
ということは多々あったのではないかと思うのですよ。



◆第四経 怖駭経


これは身につまされました。人はなぜ恐怖を感じるのか。

街から遠く離れた森の中で、獣や悪魔が跋扈するなか
たった独りで住んで瞑想するのは、恐ろしくて耐え難い。
お釈迦さまでさえ、修行時代は耐えがたかった。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  魔に襲われるお釈迦さま(アジャンタ)



では、どういった「心の欠陥」が恐怖を招くのか?


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1. 身の行いがよく浄められていない
2. ことばの行いがよく浄められていない
3. こころの行いがよく浄められていない
4. 生活がよく浄められていない
5. 貪欲があり、もろもろの欲望にはげしく染まっている
6. 心が害されていて、意の思惟が汚されている
7. 沈欝と気怠さ(けだるさ)にまといつかれている
8. 浮ついて心が定まらない
9. 疑いをもち惑いをもっている
10. 自分をもちあげ、他人をさげすんでいる
11. 恐れおののき、恐怖を生じる
12. 所得・尊敬・名声を求めている
13. 怠けて精進を怠っている
14. 失念し、正知を欠いている
15. 精神統一せず心が混乱している
16. 智慧が劣っている
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私たちは恐ろしい森に独りで坐りはしないけれども、
漠然とした恐怖にいつもさらされているような気がします。

職を失って路頭に迷うんじゃないかとか、
実はすべてが自己満足で自分は「痛い人」なんじゃないかとか、
こちらが思慕していてもあちらでは迷惑なんじゃないか、とかね。
ものすごく鈍感な私でさえ、そこはかとなく何かが怖い。


その恐怖を何が招いているかといったら、
お釈迦さまがあげた上の16個は、現代でも同じような気がします。
とくに7,8,9,10あたりは身につまされました・・・。


それでは恐怖がやってきたとき、お釈迦さまはどうしたのでしょうか?

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「わたしはこう思う。
さあ、これはあの恐怖がやってくるのだ』と。(中略)
経行しているわたしのところに、その恐怖がやってくる。
そのわたしは、ひたすら経行し続けたままでその恐怖を追い払うまでは
決して立ち止まらず、坐らず、横たわらない」
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坐ってるときに恐怖がくれば、立ち去るまで坐っている、
横たわっているときにくれば、立ち去るまで横たわっている、と書いてあります。

少なくとも、これから何かの恐怖に囚われたとき、
森にたった独りで坐っているお釈迦さまを思い浮かべて
さあ、あの恐怖がやってくるのだ」と言ってみようと思います。


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