根本中の根本「四諦」をあらためて(中部経典 第九経「正見経」1)
週末にようやく『原始仏典 中部経典』を少し読み進めることができました。
(第五経~第九経)
なかでも第九経「正見経」は、「四(聖)諦」「十二縁起」など、
仏教の根本中の根本を、お釈迦さまの前で舎利弗がみんなに説く、
という体裁になっていました。
こういう根本中の根本を、自分でいまいち理解できてないフシがあるのですが、
へたな解説書を読むより仏典そのものを読むほうがわかやすかったりします。
なので、忘れないうちに「四(聖)諦」の部分を”ひらがな写経”しておきます。
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第九経「正見経」
いったい何が苦(dukkha)であり、なにが苦の生起であり、なにが苦の消滅であり、
なにが苦の消滅におもむく実践修行なのか。
(すなわち)生まれも苦、老いも苦、病気も苦、死も苦である。
愁い・悲しみ・苦痛・憂い・悩みも苦である。
およそ求めているのに得ないと、それも苦である。
簡単にいえば五取蘊(取著=執着=する色・受・想・行・識)は苦である。
これが、苦といわれる。 (→苦諦)
ではなにが苦の生起か。
およそこの渇愛があり、(それは)再生するものであり、
喜びと欲情をともない、それぞれに大きな喜びをもつものである。
つまりそれは欲望の渇愛、生存の渇愛、虚無の渇愛であり、
これが苦の生起といわれる。 (→集諦)
また、なにが苦の消滅か。
(すなわち)それはその渇愛そのものの余すことなき離別・消滅であり、
捨であり、放棄、解脱、無執着である。
これが苦の消滅といわれる。 (→滅諦)
では、苦の消滅におもむく実践修行はなにか。
この聖なる八支の道こそが、苦の消滅におもむく実践修行である。
すなわちそれは、正しい見解、(正しい思惟、正しいことば、正しい生活、
正しい精進、正しい思念)、正しい精神統一である。 (→道諦)
聖弟子がこのように苦を知り、このように苦の生起を知り、
このように苦の消滅におもむく実践修行を知るならば、
かれはあらゆる潜在する欲情を捨て、潜在する瞋り(いかり)を除去して
(『わたしはある』という見方に潜在する自負心を根絶し、無明を捨てて明智を起こし)、もう現在のままで苦の終わりを作る者となる。
(訳:及川真介氏)
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ちなみに、「苦」(パーリ語でdukkha ドゥッカ)は、
日本語の「苦しい」とは少し違って、
「空しい、不満、不安定、苦しい」というような意味だそうです。
「生きることは苦である」と日本語で言われると、「そうか?」と感じてしまいますが、
「生きることは、常に不完全で満たされず安らかでない」といった意味に捉えると、
まったくその通りですよね。
それから、上記の「四諦」であらためて唸ったのが、
「渇愛=tanhâ(タンハー)」は「大きな喜びをもつものである」とのくだりです。
やっぱり楽しい、嬉しいんですよねえ。
美味しいものを食べる、好きな人と結ばれる、子供と幸せに暮らす……。
お釈迦さまだって出家する前は贅沢三昧、妻子もいるうえハーレムで遊び放題の環境にいて、それなりの喜びについても重々承知なんですよね。
「あれは喜びだよね、うん、痛いほどわかる。でもね、それはやがて<もっと欲しい><もっと生きたい>という苦しみになるんですよ。
だって現実はその通りにならないから」
と断腸の思いで言われているような気がして、
やっぱり仏教は酸いも甘いもわかった大人の教えであるよなぁ、と思う次第です。
王子時代のお釈迦様の結婚式
また、「生存への渇愛=もっと生きたい」という生物の本能まで断ち切れ、
というのですから、凄まじい教えでもありますよね・・・。
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