捨てられた木片のように沈黙を(入菩提行論 その2)
先日に続き、『菩提行経』(入菩提行論)について。
8世紀にシャーンティディーヴァが書いたもので、
ダライ・ラマ法王はよく法話で取り上げるようです。
今日から使える実践的なアドバイスが多くて、私はたくさん線を引きました。
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第5章 よく気をつける心を護ること(護戒品)
(もしも敵を殺すというのなら)私はどれだけの敵を
殺したらよいのだろう。敵は虚空に等しいほど無数に
あるのだから。しかし怒りの心を殺したならば、
一切の敵を殺したことになる。
(5章ー12)
それと同様に、私は外界の諸事物を制することはできない。
私は自分の心を制することにしよう。
私はどうして他のものを制する要があろうか。
(5章ー14)
(ブッダを憶念することに)次いで私は、感官のない者のように
とどまらねばならない。―ーあたかも木片のごとくに。
いつでも無益にまなざしをうろつかせてはならない。
視線はつねに、瞑想しているがごとくに、下に向けていなければならない。
(5章ー34,35)
もしも自分の心が愛著になずみ、あるいは憎悪しているのを見るならば、
(何事をも)してはならぬ。言ってはならぬ。
(捨てられた)木片のごとくであれ。(5章-48)
(わが心は)忍耐心なく、怠慢で、畏れおののき、向こうみずで、
罵詈を好み、また自分の徒党を偏愛する。
それゆえに私は木片のようでありたい。(5章-53)
眉をしかめることを止めよ。世の人々を親友として、
まず自分のほうから話しかけるものであれ。(5章-71)
私は身体で読もう。ことばを読むことに何の意義があろうか。
治療法を読むだけならば、病める人にとって何の役に立とうか。
(5章ー109)
第6章 耐え忍びの完成(菩提心忍辱波羅蜜多品)
敵あるいは友が道理にかなわぬ行いをしていても、
「この人には、このようにさせる諸の原因があるのだ」と
このように考えて、安楽にしておれ。
(6章ー33)
もしも他人に悩害を加えることが凡夫の本性であるならば、
私が凡夫に向かって怒りを起こすことは正当ではない。
それは譬えば焼くという本性のある火にたいして
(怒りを起こすことが正当でないのと)同様である。
(6章ー39)
第8章 禅定の完成(菩提心静慮般若波羅蜜多品)
私は唯だひとり楽しく暮らして行こう、心を汚されることなく。
愚迷なる者からは遠く離れて逃れよ。
もしも出会ったならば、かれらを喜ばしめよ。
しかし親しい交わりを結ぶな。行者のように無関心、平静であれ。
(8章ー15)
「私には所得がある。私は尊敬されている。多くの人は私を熱望
している」と思っている人に、死が到来すると、怖れが生じる。
(8章ー17)
『論書・他』(東京書籍、中村元著)
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あんまり書くと何ですから、興味があれば上記の本を買ってください。
200ページ以上が、『菩提行経』についてで、漢文書き下しと
サンスクリット和訳が相当長く載っています。
後期大乗時代に書かれたものでありながら、
このあたりは初期仏教好きの人にも違和感がないと思いませんか。
「犀の角のように」(スッタニパータ)と同時に、
「捨てられた木片のように」も心に留め置きたいフレーズだと思いました。
ただ、読んでいるうちに、「そこまでいくと私には無理!」という
方向に進んでいくのも事実です。
たとえば、
「私に害を加える人々は、私の業に駆り立てられたにすぎず、
それによって地獄行きになるのだから、私こそが彼らに害を加えたのだ」
という倒錯スレスレの境地は、これいかに。
また、この『菩提行経』は「奉仕の精神」がメインテーマです。
「我」という概念が迷妄なのだから、私の苦しみと他人の苦しみの間には
何の差もない。苦しみはすべて無差別に主体のないものであって、
他人(=自分)を救うためには地獄の釜にも飛び込むのが悟りの道である。
自分ひとり解脱するなどという味気ないことには何の意味もない。
生けるものどもは、犬畜生であっても、仏と区別はなく同等である――。
このへんまでいくと、ザッツ・大乗という感じでしょうか。
ですが、人類38億人の苦しみや、無量大数=10の68乗を超えるであろう
生きとし生けるもの全ての苦しみまでしょい込むのは現実問題として不可能だし、
すいませんが私だけでも解脱させてください、というのが正直なところです。
ぬかるみにいる者が、ぬかるみにいる者を引き上げることはできませんから。
菩薩道って、自分を救われる立場に置けば優しいようでいて、
自分を救う立場に置くととんでもなく厳しい教えですよね。
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