瞑想の手引きとなるお経(中部10経「念処経」) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

瞑想の手引きとなるお経(中部10経「念処経」)

阿含経「中部」、今週ようやく読んだのは第10経~18経
(『原始仏典 中部経典 Ⅰ』春秋社)。


第10経の「念処経」(サティパッターナ・スッタ)は、
現代に伝わるヴィパッサナー瞑想の基本をお釈迦さま自身が説いているので、
ここに抜粋してメモしておきます。

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<1 身体を観察する>


・入息・出息を通して身体を観察する

脚を組んで坐り、身体を真直にして面前に思念を生起させて坐る。
思念をそなえたまま入息し、思念をそなえて出息する。
あるいは長く入息しつつ「わたしは長く入息している」と知り、
あるいは長く出息しつつ「わたしは長く出息している」と知る。
あるいは短く入息しつつ~(以下同じ)
「身体全体で感受しつつわたしは入息(出息)するだろう」と学ぶ。
「身体の行(なにかを作りなそうとする意志)を鎮(しず)めつつ
わたしは入息(出息)するだろう」と学ぶ。


・行住坐臥を通して身体を観察する

行きつつ「わたしは行く」と知る。「わたしは立っている」
「わたしは坐っている」「わたしは寝ている」と知る。
身体がぞれぞれ置かれているその通りに、それぞれのそれを知る。


・身体を不浄物として観察する

この身体が、足の裏から上に、毛髪の先から下に、皮膚の境目まで、
種々の類の不浄物で満ちているのを観察する。
「この身体には頭髪、毛、爪、歯・・・・腎臓、心臓、肝臓・・・
唾液、鼻水、関節滑液、小便がある」と。


・身体を構成要素から観察する

この身体には地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある、と。


・死体の観察

遺体が墓地に捨てられて、死後一日、死後二日、あるいは死後三日たち、
脹れ、青脹れて、膿みただれたものになったのを見るとしよう。
かれは同じこの身体と比較してみる。
「なるほど、この身体もこのような性質のものであり、このような状態になり、
これは避けられない」と。
遺体がカラスどもに食べられ、ハゲタカやジャッカルともに食べられ・・・
骨が白く螺貝の色に似ているのを、骨が腐って粉々になっているのを見るとしよう。
「なるほど、この身体もこのような性質のものであり、このような状態になり、
これは避けられない」と。



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小野小町が死んで腐っていく姿を描いた小野小町九相図(京都市・浄土宗安楽寺)
鎌倉時代に九相図が流行ったらしい。


<2 感受を観察する>

楽の感受を感受しつつ「楽の感受をわたしは感受する」と知る。
苦の感受を感受しつつ~、
五官の快味をともなう楽(苦)を感受しつつ~
もろもろの感受について生起と衰滅の法を観察して住する。


<3 心を観察して住する>

瞋(いか)りをもった心を、「わたしは瞋りをもっている」と知り、
瞋りを離れた心を「心は瞋りを離れている」と知る。
癡(おろかさ)をもった(離れた)心を~
統一された心を~ 散乱した心を~


<4 法を観察する>


・五つの心の障害を観察する

内部に瞋りがないとき「わたしの内部に瞋りはない」と知る。
まだ生じていなかった瞋りが生じると、それをその通りに知る。
またすでに生じている瞋りが捨てられると、それをその通りに知る。
捨てられた瞋りが将来に生じないとき、それをその通りに知る。
(瞋り、欲望、うつ気と眠気、心の浮つきと後悔、疑い、
 の五つについて同様のフレーズ)


・五取蘊(取著の集まり)を観察する

・感知の場を観察する

・七つの覚りの要目(七覚支)を観察する

法を識別して知る択法(ちゃくほう)覚支、一心に努力する精進覚支、
法を実行することを喜ぶ喜覚支、身心を安らかにする軽安(きょうあん)覚支、
対象へのとらわれを捨てる捨覚支、心を集中して乱さない定(じょう)覚支、
思いを平らかにする念覚支 の七つ


・四つの真理(四諦)を観察する



以上をさして

「この一本道は有情達を浄化し、もろもろの憂い悲しみを乗り越え、
もろもろの苦しみ、悩みを終わらせ、真理を証得し、

涅槃を作証するためのものである」

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自分の身体とその動き、心とその動きを、徹底的に客観視せよ、
一瞬たりとも油断せずに観察せよ、ということですよね。


お釈迦さまはこれが悟りへの「一本道」だと言います。
習得すれば、「誰でも必ず」、現世にいるまま全知を得るか、
または不還者(ふげんしゃ)の境地に至るか、どちらかの果報があると。

となれば、この一本道を粛々と歩むしかない、歩めばいい。
もちろん、どの項目をとっても、なかなか達成できないのですが・・・。


なかでも「不浄観」と「死体の観察」は恐ろしいです。
自分は汚物に満ちた袋であって、死体になって腐って終わるシーンを
リアルに思い浮かべなさい、というのですから。
「人間はそのままで価値がある」みたいな甘ったるい話ではないんですね。


実際、お釈迦さまが半月間、禅定でいないあいだに、
この不浄観の修行をしていた比丘たちが自己嫌悪に陥って、
自殺したり「殺してくれ」と頼んだりして僧院は血の海と化し、
お釈迦さまが帰ってみたら多くの僧が死に絶えていた、
という話が律蔵に出てくるそうです。さすが劇薬です。


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一世を風靡した 藤原 新也 のインドの写真( 「東京漂流」 1983年より)

コピーは「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」


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