最古の仏伝?『ブッダ・チャリタ(仏陀の生涯)]
持ち歩き用の本として先日読み始めたのが、
『ブッダ・チャリタ(仏陀の生涯)』
(大乗仏典13 中公文庫 原実訳)です。
「ブッダ・チャリタ(仏所行讚)」は
詩人アシュヴァゴーシャ=馬鳴(めみょう)によって
紀元2世紀ごろに書かれました。
お釈迦さまの生涯を書いたものとしては
たぶん最古のものだと言われているそうです。
それこそお釈迦さまの座る椅子ひとつまで、これでもかという美文で描写され、
古代インドの絢爛豪華が目に浮かんで楽しめます。
詩ですし、お釈迦様像はそれなりに美化されてますが。
お釈迦さまの追っかけにとって嬉しいのは、
ものすごいイケメンとして描かれていることです。
お釈迦さまが城を出て街をゆくと、
あらゆる女が窓に鈴なりになってワーワーキャーキャー
乳房もあらわに身もだえするあたりの描写は、
もうこっちまで身もだえしそうですよ。
本日は引用している時間の余裕がないので、これまでに致します。
文庫だし読みやすいですよ。
大乗仏典〈13〉ブッダ・チャリタ(仏陀の生涯) (中公文庫)
創価学会と伝統仏教の葬式に出た
最近、親戚のお葬式に相次いで出席しました。
ひとつは従来の仏教式。もうひとつは創価学会の友人葬。
周りの親族の評判も含め、なかなか面白い経験でした。
まず従来の仏教式。
地方の禅宗系名門寺院が菩提寺で、斎場に住職さんが来てくださいました。
私などは「やっぱり仏教式の形式美はいいなあ」と思ったのですが、
一緒に出席した両親に聞くと、すこぶる評判が悪いのです。
まず、住職さんが、お寺の息子でなく、出家して修行した若い人でした。
その分、意欲的で勉強もしているのでしょう、
現代の映画などを引き合いに出して「今風」の法話をなさいました。
これが、年寄りの親族には「ありがたみがない」と映ったようなのです。
そして不評だったのが、やっぱり「戒名」でした。
住職「<誠>の字を入れさせて頂きました。
聞くところによると、Aさんは非常に誠実に仕事にも取り組まれ・・・」
遺族「(内心の声)はあ? A爺は同族企業でロクに仕事もせずに、
会社のカネを使い込んで女を作って、<誠>とは真逆だったんですけど」
住職「キリスト教に洗礼があるように、仏教には受戒があります。
戒名によってAさんは、正式に仏教徒として仏門に入られて・・・」
遺族「(内心の声)えっ、そうなの? A爺はおよそ宗教に興味がなかったし、
本人の許可もなく仏教徒にしちゃっていいのかなあ?」
住職「戒というのは、殺生をしない、嘘をつかない、浮気をしない、といった
正しい人生を歩むという誓いでして・・」
遺族「(内心の声)遅いよ! 嘘も浮気もやり放題だったよ。
生きてるうちに言ってやってほしかったね」
個人的には、お寺の当面のビジネスモデルとして戒名料は存続してほしいと
思っていますが、その私から見ても、やっぱ戒名は茶番だわ。
他の親族は、ストレートに「あんなんでカネ取るのか」と言ってました。
ああ、せっかく一般家庭から出家したご住職がお気の毒だ。
正直なところ、お坊さんのほうも「茶番だなぁ」と思いつつ、
仕方なく戒名を付けることもあるのでしょうか?
平安時代頃に、浄土思想が広まって、死ぬときに受戒されることで
浄土に行ける、ということで戒名が流行ったと言われてますよね?
ですが、いかなる背景を説明されても、
一般の参列者は素朴に戒名の茶番性を感じてしまうと思いました。
そして、一方の創価学会の友人葬。
一緒に出た両親は、創価学会が大っ嫌いだったのですが、
葬式については、意外にも評判がよかったのです。
学会は、祭壇に花でなく 樒(しきみ)という常緑樹を供える。
この木は食べると死ぬ程度の有毒物質を含むらしいです。
親族しかいない寂しい葬式に、4人ぐらいの学会員が来てくれて
にぎやかしになったこと(お坊さんは来ません)。
その人たちが、ひたすら繰り返す「なんみょーほーれんげーきょー」が、
それなりに儀式らしいハーモニーであること。
地区の儀典長が読み上げる「故人の生涯」が、
故人をよく知らない出席者にも追悼気分を盛り上げてくれること。
戒名がないこと。
このあたりが、好評の理由でした。
「なんみょーほーれんげーきょー」の6拍リズムの良さが
法華経勝利の一因かなあ、などとも思いました。
例えば「なむあみだぶつ」じゃリズムの収まりが悪いですからね。
儀典長さんが読んだのは、法華経のお馴染み「方便品」と「如来寿量品」。
学会員の方は「なんみょーほーれんげーきょー」だけを500回ぐらい繰り返していました。
そんなわけで、学会よりは禅宗にシンパシーがある私としては
残念な結果に終わってしまいました。
インドで仏教が滅びてヒンズー教が生き残った一因として、
仏教は各家庭の冠婚葬祭などの儀式に食い込めなかった、
ということがよく挙げられます。
「葬式仏教」批判に応えて、なにか若者向けイベントなどをやる
お寺の努力も尊いとは思いますが、
同時に、「さすが仏教の葬式は素晴らしい」と言われるような
「葬式の洗練」も大事なんじゃないかなあ、と思いました。
にほんブログ村
幸せがあると思うのが不幸の始まり(by みうらじゅん)
『よりみちパン!セ』という単行本のシリーズをご存知でしょうか。
元気のいい書き手が、中学生から大人まで読めるように
あるテーマを書き下ろす、志の高いシリーズです。
ところが版元の理論社が去年倒産しまして、宙に浮いた版権を、
このほどイースト・プレスという出版社が引き継ぐことになりました。
本日8月4日に、その復刊スタート記念対談があり、聞いてきました。
対談したのは反貧困活動家・湯浅誠さんと、慶応大教授の小熊英二さん。
ひいき目かもしれないが、湯浅さんは本当にクレバーだ。
そして小熊さんの本がなんであんなに厚くなるのかがわかった。
そのときに、『よりみちパン!セ』の目録+特別書き下ろしエッセイの
ちっちゃな無料冊子が配られました。
シリーズ筆者の数人がコラムを書いているのですが、
一番の名文はみうらじゅんさんだと思いました。
長さは他の人の3分の1ぐらいなのですが。
転載したら著作権侵害になるかなあと思いつつ、
無料冊子ですし、本の宣伝もすれば許してもらえるかな。下記が全文です。
みうらさんは京都生まれの仏像マニアで仏教ファン。
エロスクラップ芸術家でボブ・ディラン応援団日本支部です。
先ごろ出た『マイ仏教』は未読ですが、読んでみようかな。
=================================
退屈はいけません
みうらじゅん
人生には若い頃と、そう若くない頃と、もう若くない頃の三段階があります。
それを誰しもが経験し、最終的には死んでいくわけです。
人生とはハッキリ言って、アッサリしています。
でも、ただ生きているだけではつまらないので人間は”幸せ”というものを
考え出しました。こうすれば幸せになれるとか、ああすればさらに幸せになれるとかそーゆー人生における目的です。いつの間にか人間は自らが考えた言葉なのに、幸せというものが本当にあると錯覚してしまいました。それが不幸の始まりです。
とにかく、退屈はいけません。退屈にならないように日々、心掛けること。
これが生きるということです。
生きると死にますがあまり気にすることはありません。
そもそも無だったのが無に返っていくことだけですから。
==================================
「人生とはハッキリ言って、アッサリしています」。名言だな。
パンセシリーズの2大名著は、みうらさんの『正しい保健体育』と
西原理恵子さんの『この世でいちばん大事なカネの話』。
というか、この2冊+αしか読んでない。
マイ仏教 (新潮新書)
先ごろ新潮新書から出た『マイ仏教』。
街にある漢字の写真で、脅迫状のように切り貼りした般若心経
にほんブログ村





