お釈迦さまが考えた、仏法の滅び(中部65経「バッダーリ経」)
細々と『原始仏典 中部経典』を読みつつ、備忘録を書く暇もなかったのですが、
第65経に飛びます。
阿含経・中部 第65経「跋陀和利(バッダーリ)経」。
これは、なかなか切ないお経でした。なので本日のメモは長いです。
「末法思想」ってありますよね?
日本だと平安時代に大ブームになったのですが、
お釈迦さまが入滅=亡くなったあと1500年だか2000年だかで
仏法の効力がなくなって世が退廃すると、大騒ぎしたやつです。
私はこれを、後代につくられたオカルト的な終末予言なのかなと思ってました。
「大集経」というお経の「我が入滅後500年は~、次の500年は~」云々
に典拠するそうですが、「大集経」は後に書かれた大乗仏典だし、
500年という区切りに根拠はないし、お釈迦さまの言葉ではないだろうと。
だいたい、マヤ文明からノストラダムスまで、
人間はハルマゲドンを予言するのが大好きですからね。
末法ブームの頃につくられた宇治の平等院
ところが、初期仏典である中部65経「跋陀和利(バッダーリ)経」では、
お釈迦さまが仏法の消滅(隠没)に言及してるんですよねえ。
しかも大乗仏典の隠没や末法思想と違って、
恐ろしく的を得た、身につまされる形で。
(阿含経とて仏弟子の証言なわけですが、
仏法の隠没なんてことを弟子が創作しても何の得にもならないわけで、
お釈迦さま自身が言った可能性が高いと思います。どうなんでしょう)
この跋陀和利経は、「1日1食」という僧団の律に対して、
「耐えられません」と訴えた(正直な)弟子・バッダーリと、
お釈迦さまの会話で構成されています。
==================================
(バッダーリいわく)
尊師よ、どのような原因があり、どのような縁があって、
昔は〈 修学すべき基礎(戒律などのこと)〉が少なく、
しかも悟りにいたる比丘が多かったのですか?
また尊師よ、どのような原因があり、どのような縁があって、
いまは〈 修学すべき基礎 〉が多く、しかも悟りにいたる比丘が少ないのですか?
(『原始仏典 中部経典Ⅱ』春秋社、浪花宣明訳、以下すべて同じ)
==================================
バッダーリは、昔より規則でがんじがらめになったわりに、
目的に達する人が少なくなったのはなぜか?と聞いているわけです。
==================================
バッダーリよ、それは次のようである。
生ける者が退廃し、正しい教え(正法)が隠没(おんもつ)するとき、
〈修学すべき基礎 〉は多く、しかも悟りにいたる比丘は少ない。
バッダーリよ、煩悩の漏出に起因するもろもろの[悪い]ことがらが
僧団の中に現われないかぎり、師は修学すべき基礎を設定しない。
バッダーリよ、煩悩の漏出に起因するもろもろの[悪い]ことがらが
僧団の中に現われるとき、煩悩の漏出に起因するもろもろの
[悪い]ことがらを防ぐために、師は弟子たちに修学すべき基礎を設定する。
(繰り返し部分を省いて並べます)
バッダーリよ、僧団が大きくなり、
僧団の中に煩悩の漏出に起因するもろもろの[悪い]ことがらが現われるとき・・・・
バッダーリよ、僧団が最高の利得を得て、……もろもろの[悪い]ことがらが現われるとき……
バッダーリよ、僧団が最高の名声を得て、……もろもろの[悪い]ことがらが現われるとき……
バッダーリよ、僧団が博識になり、……もろもろの[悪い]ことがらが現われるとき……
バッダーリよ、僧団が長い経験を経て、……もろもろの[悪い]ことがらが現われるとき……
==================================
つまり、僧団が大きくなって、たくさんお布施が集まり、名声を得て、
博識(多聞)の比丘が自説を唱えて争ったり邪説を主張しはじめ、
比丘として経験が長いことを誇って専横や邪法を行う。
こうやって僧団が堕落して、戒・律が増え、悟る人は減り、
正しい教えは消滅していくのである。
――と、お釈迦さまが言ってるんですよ。この冷徹さって恐ろしくないですか?
ベンチャー企業の創業社長が、「我が社は発展して、大企業病にかかり、
社員が慢心してダメになっていくだろう」と公言したら、どうでしょう?
名声と利得をほしいままにしたお坊さんといえば、日本だと道鏡?
衣笠貞之助監督で、道鏡が市川雷蔵で、音楽が伊福部昭だって(1963年)。
昔の大映仏教映画ってムダに豪華だな~。
さらに、以下、同書の註から抜書きしておきます。
「正しい教え(正法)が隠没するとき」に対する註===============
(一部省略)
仏教徒は仏教の教えが永遠に続くものではなく、
徐々に消滅(隠没)するものであると考えていた。
聖典、修行を実践する人、悟りに至る人など、仏教を形成している諸要素が
どのような順番で隠没するか、後世さまざまな説が出るようになる。
パーリ註釈文献のなかには、3種の隠没と5種の隠没を説くものとがある。
・3種の隠没(2説ある)
説1 証得隠没、正行隠没、相隠没
説2 証得隠没、正行隠没、聖典隠没
・5種の隠没(3説ある)
説1 聖典隠没、通達隠没、正行隠没、(相隠没、遺骨音没)
説2 証得隠没、正行隠没、聖典隠没、相隠没、遺骨音没
説3 聖典隠没、正行隠没、通達隠没、相隠没、遺骨音没
証得隠没、通達隠没=悟りを開く人がいなくなること
正行隠没=悟りを目指して正しく実践する人がいなくなること
相隠没=定められた衣を用いるなどという比丘のあるべき姿をとらなくなること
遺骨隠没=ブッダの遺骨が消滅すること
聖典隠没=教えを記した聖典が消滅すること
さまざまな議論を経て、パーリ上座部では、
聖典が消滅するとき仏教が消滅すると考えるに至っている。
==================================
しかも、一般大衆(在家)が堕落して布施をしてくれなくなるとか、
弾圧されるとかいうのでなく、自らの組織が肥大化して自己崩壊していく、
と言っているわけですよね?
これは、肥大化→硬直化→瓦解という、組織の理を言い当てた、
ほぼ普遍的に正しい認識だと思います。
卑近な例でいえば、西武だってソニーだって、そうやって瓦解していった。
諸行は無常で、形あるものはすべて滅びる、という教えのなかで、
じゃあ<法>も無常で移り変わっていくものなの?
それとも<法>だけは例外で、普遍的なものなの?
という素人くさい疑問を持っていました。
ですが、このお経と解説を素直に読めば、
<法>が常に正しいかどうかは別として、
<法の効力>は無常でやがて滅びるものだということになりますよね。
普通、人は「我が巨人軍は永遠に不滅です」みたいに言いたがります。
お釈迦さまは自分が生涯をかけた「正しい法」と僧団は
永遠でも不滅でもなく「隠没する」と言った。
その心中を想像すると、私は泣けてくるのであります。
(なんだか熱くなってしまったが、書いたこと合ってるのかなあ?)
にほんブログ村
今度は「法然と親鸞 ゆかりの名宝」@上野
「空海と密教美術」展、行ってきました。
平日なのに混んでましたねえ。土日だと、入場するのにも並ばないといけないかも。
お経・仏像・曼荼羅・法具と、真言宗には物がたくさんあって
それが美術を発達させもしたのでしょうが、
中国においては荷物の多さがデメリットにもなりました。
9世紀の皇帝・武宗時代に大規模な仏教弾圧があって、
寺や仏像が破壊されたり仏具を没収されたりで、真言宗は大打撃を受けました。
一方で、当時できたばかりの禅宗は、仏像もないし
「不立文字」で仏典も必要ないしで、破壊するものが少なく、
「弾圧されればされるほど、禅宗が勢力を増していった」と、
以前、臨済宗の講演で聞きました。
気がつけば、田舎の新興宗派だった禅宗が天下を取り、
中国の密教は衰退してしまったそうです。
さて、同じ東京博物館・平成館@上野で、
今度は「法然と親鸞 ゆかりの名宝」展が開催されます(10月25~12月4日)。
法然800回忌、親鸞750回忌である今年の仏教界は大忙しだ。
以下は会場にあったパンフレットです。
http://www.honen-shinran.com/index.html
密教の主役が大日如来なのに対し、
法然・親鸞の浄土教の主役はもちろん阿弥陀如来。
教えの中身は置いといて浄土思想系の美術は華やかで大好きです。
華やかなのは、功徳を積めば往生できるということで、
貴族が寺や仏像にたくさんお金を突っ込んだからなんですね。
浄土系のお経は「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」ですが、
その現代語訳を読んで、日本の浄土信仰とずいぶん違うところがあって
驚いたことがあります。
たとえば、こんな部分。
==================================
『浄土三部経』(岩波文庫)の「無量寿経」より引用。
【浄土経・現代語訳】
「かの仏国土にすでに生まれ、現在生まれ、未来に生まれるであろう
生ける者どもは、すべて永遠の平安(ニルヴァーナ)に至るまで、
<正しい状態>でいる者であると決定しているのだ」
【この部分の註】
「極楽に生まれることは、ニルヴァーナに達する以前の前段階なのである。
往生即涅槃と解する浄土真宗の教義は、日本で成立した独自のものなのである。」
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-10497619320.html
==================================
本来は、「極楽往生」はゴールじゃなかったんですねー。
会社を辞める前に有給休暇でリゾート地に旅行するようなものが極楽往生で、
ゴールはあくまで涅槃つまり存在の完全消滅。
それ以外にも諸々の驚きを以前ブログに書いたものでした。
いきなり登場する阿弥陀如来
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-10499389169.html
阿弥陀は誰でも救うわけではない
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-10500282697.html
「他力本願」は漢訳仏典の強引な訓読から生まれた説
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-10490636329.html
にほんブログ村
かっこよすぎる金と銀の曼荼羅(紺紙金銀泥曼荼羅)
真言宗や空海に格別の興味があるわけではないのに、
上野でやってる空海展のおかげで関連する雑誌やテレビ番組があると、
やっぱり見ずにはおれません(たぶん明日、空海展に行ってきます)。
今日、NHK-BSでやった「空海・至宝と人生」第3回「曼荼羅の宇宙」。
内容には、えーそうかなあ?と疑問に思うところもあったけれど、
さすがに力の入った番組でした。
一番よかったのは、最後に登場した紺紙金銀泥曼荼羅
(平安時代、奈良・子嶋寺、奈良国立博物館に保管、国宝)。
空海の指導で作られた日本最古の高雄曼荼羅(神護寺)は
ほとんど何も見えない状態なのだけれど、
解析によって金銀で描かれていたとわかっているため、
同じ金銀泥曼荼羅であるそれが登場したのでした。
テレビではクリアに映っていた。
ああ、奈良国立博物館の近所に住みたい。
曼荼羅というと一般に色とりどりですが、
紺地に金と銀だけで描かれた曼荼羅の毅然としたかっこよさはどうよ。
電気のない時代に、ろうそくの炎やなんかに照らし出された
ギラリと輝く仏たちを見たら、もう陶酔するほかないでしょう。
復元した高雄曼荼羅の本『復原高雄曼荼羅』
(宮原柳僊著、佼成出版社、昭和50年、限定1500部)
にほんブログ村







