密教のコンパクトな解説と、ムサカリ絵馬(『芸術新潮』空海特集)
久しぶりに『芸術新潮』を買いました。
上野の空海展にあわせた「大特集・空海 花ひらく密教宇宙」
( 2011年8月号、2011/07/25発売、特別定価1,500円)です。
密教芸術のことはそれほど書いてなかったのですが、
意外なことに密教の歴史がわかりやすくコンパクトにまとまっていました。
それまでの仏教と密教の違い、空海と最澄の関係、
なぜ本拠が山の中にあり東寺があそこにあるのか、
なぜチベットの密教はちょっとエロで日本の密教はそうでないのか、
典拠するお経が違う金剛界と胎蔵のマンダラが対になったのか・・・。
今号の『芸術新潮』は買いです。
インド仏教では長い長い輪廻を経て悟りに至るのが、
中国に伝わると真言密教の「即身成仏」(現世で今の身体のまま仏になれる)や、
頓悟禅(段階的な修行を経てではなくハッと瞬時に悟る)という話になり、
日本もその影響、特に前者の影響を強く受けているように思います。
なぜ「即身」や「頓悟」に変わったのかについての、
藤井淳・駒澤大学専任講師の説明に笑いました。
理由は、中国人は気が短かったから。
「中国人はインド伝来の仏教の気の長さに耐えられなかったのでしょうね(笑)。
本来、彼らは現世志向です。最初は無理をして何とか素朴な輪廻観を
受け入れようとするのですが、ものすごく長い時間をかけて、という説は
やはり馴染めない。中国スタイルの禅宗を作り出したのも、密教が流行したのも、
そのあたりに理由があるのでしょう」(藤井氏)
それから、空海特集とは違うのですが、
めっけもんだったのは「山形・青森・仙台 供養に見るあの世への思い」
という小特集です。
東北には「ムサカリ絵馬」という宗教的習俗があるそうです。
ムサカリ=結婚をする前に亡くなった若者のために、
遺族が架空の花嫁・花婿を添えた婚礼を描いた絵馬を寺院に奉納するそうです。
この風習は現在にも残っているそうで、花嫁・花婿を描いた
イラストや合成写真や人形がズラリとお堂に並んでいるのです。
もちろん、花婿か花嫁のどちらかは、もう亡くなった人です。
死と婚礼の絵馬は、悲しく、どこかユーモラスでもあり、禍々しくて、
夢でうなされそうな光景です。
それを山形出身の音楽評論家・鈴木淳史氏がリポートしています。
<空海特集 目次>
空海 花ひらく密教宇宙
グラフ 東寺講堂諸仏 立体曼荼羅に大接近!
序章 世界の奥の声を聞く ――空海と日本の密教 〈文〉末木文美士
第一章 密教はどこから来たのか〈解説〉頼富本宏
第二章 空海とは何者だったのか〈解説〉藤井淳
第三章 中世密教のスペクトラム〈文〉阿部泰郎
第四章 高野山紀行 空海は生きている
宇宙をイメージせよ 初心者のためのマンダラ教室
特別インタビュー+描きおろし
岡野玲子 晴明と空海、時空を超えて共鳴する魂
http://www.shinchosha.co.jp/geishin/newest/
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お釈迦さまは初心者に何から話すか(中部56経「優波離経」その2)
昨日の阿含経中部56経「優波離経」の続きです。
ジャイナ教徒のウパーリが、お釈迦さまに帰依したいと申し出て、
そのときお釈迦さまがどういう順序で説法をしたか。
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そこで世尊は家主のウパーリに順次に進展していく説法(次第説法)を行った。
すなわち布施の説、戒の説、天界の説、欲望の災禍と害悪と汚れ、
厭離の利点を明らかにした。
世尊が、家主のウパーリの心が従順で、柔軟で、こころの蓋いがなく、
こころが勇躍し、こころが明澄となっていることを知ったとき、
諸仏が賞賛している説法を、すなわち苦と原因と消滅と道とを明らかにした。
『原始仏典 中部経典Ⅱ』(春秋社、浪花宣明訳)
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この「次第説法」は、阿含経典の中に何度も登場しますが、
どれも順序は同じようです。
「殺生してはいけない」に始まる五戒や、「来世で天に生まれる方法」や、
「欲望は苦しみのもとだ」といった
わかりやすいことからまず話しているんですねえ。
それで、「こいつはわかる」と思ったら、
「苦と原因と消滅と道」つまり四諦の話をしている。
この順序は、理にかなっていますよね。
まだ文字の仏典がないわけですから、もしかすると、
在家信者で四諦を聞かずじまいだった人がいるのかも??
いま巷にある解説書などで、
いきなり「生きることは苦です」と来るものもあります。
いきなり「苦」と言われも「は?」と思う人も多いでしょう。
仏教の根本だからって、最初に言えばいいってもんでもないわけですよね。
面白いのは、お釈迦さまが最初に説くのが「布施の説」。
煎じ詰めれば「僧団にお布施をするのは功徳であって、
あなたにいいこと(善果)がありますよ」という話ですよね。
もし現代の日本で、開口一番この話をしたら?
「なんだよ、ガメツイ坊さんだな」「怪しい教団だな」と
思われるのが関の山でしょう。
今の日本、お布施=功徳という考え方がないですからね。
ウェブやイベントでがんばって布教している、あるお坊さんが言ってましたが、
結局収入源は檀家さんの法事や葬式や墓地経営で、
布教活動はカネにならないどころか持ち出しだそうです。
講演や書籍購入で小銭しか落とさない無党派層の仏教ファンに
「葬式仏教」だとか批判されても、
じゃあ坊主はどうやって食えというのか?って片腹痛いのではないでしょうか。
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改宗したいという異教徒にお釈迦さまは・・・(中部 第56経「優波離経」)
ストーリー性のあるお経が少ない阿含経中部ですが、
第56経「優波離経」―ニガンダ派の罰の教えと仏教の業の教えー
は起承転結があるお経です。
ニガンダ派(ジャイナ経)の裕福な在家信者・ウパーリが、
お釈迦さまを論破してやろうと出かけていって、
逆に帰依を決心するという内容。
(十大弟子の理髪師・ウパーリとは別人です)
論争のテーマは、「身体の罰が一番重い」とするニガンダ派と、
「こころの業が一番重い」とする仏教と、どちらか正しいか、というものです。
この論争もさることながら、
ウパーリに帰依したいと言われたときのお釈迦様の態度が、あっぱれなのです。
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家主=ウパーリ
「今日より後、世尊はわたしを終生帰依した在家の信者として
受け入れてください」
「家主よ、熟慮しなさい。
熟慮はあなたのような知名の人たちにこそふさわしいものです」
これを聞いて、ウパーリはますます感激します。
「尊師よ、異教の者たちがわたしを弟子として得たなら、
かれらはナーランダー全市に『家主のウパーリは私たちの
弟子になった』という旗を永遠に立てめぐらすに違いありません。
しかし世尊は私に『家主よ、熟慮しなさい』と言います」
そして再度、世尊に帰依すると述べます。すると世尊は
「家主よ、長い間、あなたの家はニガンダ派の人々にとって
<望みを果たす>泉でありました。
だから彼らがやってきたときには施食を与えねばならないと思いなさい」
これを聞いて、ウパーリはもっと感激し、帰依の決意を固めます。
『原始仏典 中部経典Ⅱ』(春秋社)
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お金持ちの異教徒が入信したいと言うのに、
「早まらずによく考えなさい」と制して、
異教徒へのお布施の心配までするとは、さすが我らがお釈迦さま。
先日読んだ南直哉さんの『語る禅僧』の一節を思い出しました。
南さんは悶々としていた10代の頃、
教会に通ってクリスチャンになりかけたそうです。
実はキリスト教の「神」はまるで信じられなかったけれども、
その教会の牧師一家がとても好きだったといいます。
ある雪の夜、牧師と2人きりでいた南青年は、
「なぜアンタは神なんか信じられるんだ?」ということを聞き出そうと
牧師に”対決”を挑み、牧師も穏やかな口調ながら一歩も譲らない。
その議論の挙句、南青年は意を決してこう言います。
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「ぼく、洗礼、受けようかと思うんです」
すると牧師は、初めて深いため息をついて、
赤ん坊をあやすような、慰めるような口調でこう言った。
「今はやめておきなさい。
信仰は人を信じるのではない。神を信じるものなのです」
私は今もなお、お坊さん、宗教家というと、まずこの牧師のことを思い出す。
『語る禅僧』「ある牧師一家の思い出」より(南直哉著、ちくま文庫)
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仏教で言うところの「依法不依人(えほうふえにん)」。
少なくとも、リーダーがあんまり得々としている新興宗教とかは
いかがなものかと思いますね。




