改宗したいという異教徒にお釈迦さまは・・・(中部 第56経「優波離経」)
ストーリー性のあるお経が少ない阿含経中部ですが、
第56経「優波離経」―ニガンダ派の罰の教えと仏教の業の教えー
は起承転結があるお経です。
ニガンダ派(ジャイナ経)の裕福な在家信者・ウパーリが、
お釈迦さまを論破してやろうと出かけていって、
逆に帰依を決心するという内容。
(十大弟子の理髪師・ウパーリとは別人です)
論争のテーマは、「身体の罰が一番重い」とするニガンダ派と、
「こころの業が一番重い」とする仏教と、どちらか正しいか、というものです。
この論争もさることながら、
ウパーリに帰依したいと言われたときのお釈迦様の態度が、あっぱれなのです。
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家主=ウパーリ
「今日より後、世尊はわたしを終生帰依した在家の信者として
受け入れてください」
「家主よ、熟慮しなさい。
熟慮はあなたのような知名の人たちにこそふさわしいものです」
これを聞いて、ウパーリはますます感激します。
「尊師よ、異教の者たちがわたしを弟子として得たなら、
かれらはナーランダー全市に『家主のウパーリは私たちの
弟子になった』という旗を永遠に立てめぐらすに違いありません。
しかし世尊は私に『家主よ、熟慮しなさい』と言います」
そして再度、世尊に帰依すると述べます。すると世尊は
「家主よ、長い間、あなたの家はニガンダ派の人々にとって
<望みを果たす>泉でありました。
だから彼らがやってきたときには施食を与えねばならないと思いなさい」
これを聞いて、ウパーリはもっと感激し、帰依の決意を固めます。
『原始仏典 中部経典Ⅱ』(春秋社)
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お金持ちの異教徒が入信したいと言うのに、
「早まらずによく考えなさい」と制して、
異教徒へのお布施の心配までするとは、さすが我らがお釈迦さま。
先日読んだ南直哉さんの『語る禅僧』の一節を思い出しました。
南さんは悶々としていた10代の頃、
教会に通ってクリスチャンになりかけたそうです。
実はキリスト教の「神」はまるで信じられなかったけれども、
その教会の牧師一家がとても好きだったといいます。
ある雪の夜、牧師と2人きりでいた南青年は、
「なぜアンタは神なんか信じられるんだ?」ということを聞き出そうと
牧師に”対決”を挑み、牧師も穏やかな口調ながら一歩も譲らない。
その議論の挙句、南青年は意を決してこう言います。
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「ぼく、洗礼、受けようかと思うんです」
すると牧師は、初めて深いため息をついて、
赤ん坊をあやすような、慰めるような口調でこう言った。
「今はやめておきなさい。
信仰は人を信じるのではない。神を信じるものなのです」
私は今もなお、お坊さん、宗教家というと、まずこの牧師のことを思い出す。
『語る禅僧』「ある牧師一家の思い出」より(南直哉著、ちくま文庫)
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仏教で言うところの「依法不依人(えほうふえにん)」。
少なくとも、リーダーがあんまり得々としている新興宗教とかは
いかがなものかと思いますね。