あなたは質問の限界を越えました(中部44経「小有明経」)
『中部経典Ⅱ』(春秋社)。
第44経は珍しく、女性=比丘尼が教えを説いています。
経典や律は女性差別的なところも多いですが
時代が時代だから仕方ないとして、
それでも比丘尼が教えを説くお経があるのは、
古代なのに頑張ったと思います。
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第44経 ダンマディンナー比丘尼の教理問答(小有明経)
在家信者ヴィッサーカは比丘尼に次々と質問をし、
「一対になるもの」について最後はこんな問いを立てます。
「では貴き婦人よ、解脱と一対になるものはなにですか」
「友ヴィッサーカよ、涅槃が解脱と一対になるものです」
「では貴き婦人よ、涅槃と一対になるものはなにですか」
「友ヴィッサーカよ、あなたは質問の限界を越えました。
質問の究極を捉えることはできません。
清らかな行い(梵行)は涅槃を立脚点とし、涅槃を目標とし、涅槃を終局とします」
ヴィッサーカはお釈迦さまのところにいって対話の一部始終を話すと、
お釈迦さまは「ダンマディンナー比丘尼の言う通り」と答えました。
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「あなたは質問の限界を越えました」という言葉が深いですよね。
どうしたって答えようがない行き止まりというか始点というか、がありますもの。
なぜ生きなければならないの?という問いとかね。
理由はないけど生きてみようよ、と言って、
それを立脚点にするしかないように思います。
ところで、竹林精舎の中にある「りすに餌を給す園」というのが
たびたびお経に出てきます。
前から不思議だったのですが、なんのためにリスを餌付けしたのでしょう?
当時のインドには象の軍隊がいましたが、
リスのちびっこ軍隊でもいたのでしょうか?
この第44経の註を読んで、はじめて疑問が解けました。
「ある王が竹林で眠っているとき、黒蛇が王を噛もうとしたが、
りすが王の耳もとで音をたて、危難を救った。
王は感謝して、その場をりすに餌を給す場所にした、という故事にもとづく」
また、44経には出てこないのですが、阿含経に頻出する比喩として
「力士が曲げた腕を伸ばし、伸ばした腕を曲げるのと同様な速さで」
というのがあります。
(訳によっては「力士」でなく「力の強い男」)
なんで「速さ」の比喩が、これなんでしょうか?
このフレーズを見る度に、頭の中で「どすこい~どすこい」という相撲甚句が流れ、
お相撲さんが目にも止まらぬ速さでダンベル体操をしている絵が浮かんでいました。
ですが、『中部経典Ⅰ』のどこかに出ていた解説で理由がわかりました。
力の強い男が腕を曲げ伸ばしすると、力こぶの位置が瞬時に移動する。
瞬間移動のような神通力を喧伝してはいけないという教えにもとづいて、
このような婉曲な表現にした、と書かれていました。
なるほど!高速ダンベル体操じゃないんですね。
こんなマメ知識を聞いて「そうだったのか!」と膝を打つ人が
何人いるのか知りませんが。
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つまらぬ冗舌、際限のない話(中部41経 サーレッヤカ経)
初期仏典読みの続きを再開しました。
『原始仏典 中部経典Ⅱ』(春秋社、中村元監修、第41~76経)。
経典には何度も同じ表現が出てくるので、
そのうち頭の中でリフレインするようになってきます。
たとえば次のようなフレーズ。
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第41経 サーレッヤカ経
(ことばによる不正な行いについて)
この世界には偽りを語る者がいる(中略)。
このように自分のために、または他人のために、
またはなにがしかの利益のために、故意に偽りを語る。
また中傷する言葉を語る者がいる。
こちらの人々を離反させるために、こちらで聞いてはあちらで(中傷して)語り、
あちらの人々を離反させるために、あちらで聞いてはこちらで(中傷して)語る。
このように離反を起こさせ、離反を惹起させ、不和を愛し、不和を好み、
不和を喜び、不和を促すことばを語る。
荒々しいののしりのことばを話す者がいる。
荒々しく乱暴なことばであり、他の人を苦しめ、他の人を不機嫌にさせ、
怒っているかのようであり、定に導かない。
またつまらぬ冗舌を語る者がいる。時期にかなって話さず、
事実を話さず、利益のないことを話し、法を話さず、律を話さず、
心に残る話を話さず、時期を考慮せずに、話すべき理由なしに話し、
際限なく話し、利益のない話を話す。
*同様の内容はほかのお経にも繰り返し出てきます。
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テレビをつける、雑誌を読む、知人とダベる、といった場面で、
このフレーズが脳内リフレインを始めると困った事態になります。
中傷、荒々しいののしりの言葉、つまらぬ冗舌、
話すべき理由もなしに、利益なきことを、際限なく話す。
よく考えると、世に溢れる言葉の8割方が
これに当てはまってしまうのですもの。自分の発語も含めてね。
結果、ああつまらない、と内心で呟いて、
にこやかにその場を去りたくなってしまいます。
そもそも「話すべき理由」のある話など、ほとんどないですし、
だんだん無口になってきた。
この偏屈化は、いいことなのかしら、悪いことなのかしら。
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お釈迦さまオリジナルはどこからか(『仏陀』その3)
息も絶え絶え、H.オルデンブルグ著『仏陀』を読み終わりました。
最初の章である仏教前史(バラモン教時代)についてのメモです。
お釈迦さまが、いかな天才といえども、
すべてをゼロから創出したわけではありませんよね。
仏教のうち何割かは、それ以前からあった思想を引き継いでいるわけです。
実在の人間なんだから当然です。
では何が引き継ぎで、何がお釈迦さまオリジナルなのか?ということについて。
『仏陀』からの抜書き備忘録ですので、読んでも面白くないです。
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※紫は『仏陀』地の文、そのうちヴェーダなどからの引用は青
インド最古の宗教文献、リグ・ヴェーダ(BC13世紀頃)の頃、
自然と結びついたいろいろな神様が信仰されていた。
やがて、抽象化が進んで、「混雑した無数の概念の中から」、
万物の根本原理としての「アートマン」と「梵」という概念が出てくる。
(その過程は 『百道梵書』 Zatapathaa-braahmana でよくわかる。
「アートマンは全宇宙なり」)
アートマンを賛美しているうちに、
少しずつ少しずつ、現世が苦しくつまらないものに見えてきた。
「アートマンという観念に絶対一如とか無限充足とかいうあらゆる属性を
惜しげもなく与えたからして、かような久遠の唯一で測れば、
多相の世界は滅裂、有限、苦痛などの所と見えざるを得ない」
たとえばヤージュニャヴァルキヤ(BC6~7世紀、ウパニシャッド哲学の偉人)
いわく「(アートマン)のほかのものはことごとく窮迫の囲繞するところなり」。
リグヴェーダの次の時代(BC10世紀~)になると、世界はますます陰惨に映り、
「死の権力もこの時代の神秘説に味方して増長し、人間を支配する死の力は
人間が一撃を加えたくらいではなkならない。そこで正しい言葉や正しい供物で
自らを救うを知らぬ人間は、あの世へまでも死の力に追っかけてきて、
死はそこで繰り返し人間の生命を滅ぼす」という考え方が生まれてきた。
「死より離脱することなくして彼土(死後)の世界に入るものは、
あたかもこの土において何等の規定なき死によりてその欲するがままに殺さるる如く、彼の世に在りてもまた常に再び死の獲物となるべし」
(引用元は、どのヴェーダか不明)
この時点で、まだ「輪廻」思想ははっきり形になってはいないけれど、
「何度でも死を繰り返す」裏返せば「何度も生を繰り返す」ことが
いかに悲惨か、という端緒は見られる。
と同時に、生死を繰り返す悲惨から逃れる道=解脱への道があるという
思想も必然的に頭をもたげてきた。
「かくして『解脱』という思想や言葉が宗教生活の表面へ乗り出すに至ったのである」。
この段階での解脱への道は、朝と夕方に太陽に捧げる祭祀を毎日すること。
「いかにも空想的で不思議な形を取ってはいるが、
これが輪廻と死よりの解脱とに関した信仰の始まりである」
また、この段階でいう解脱とは、
「霊魂(アートマン)がその真の本性である梵との合体に成功すること。」
「己が心の欲望よりことごとく離脱せば
この土にありて梵に入り、
死すべきものも不死とならん」
(引用元不明、アタルヴァ・ヴェーダか?)
輪廻ー解脱の新しい考え方は、当時のバラモンにもよく理解できなかった
ようで、「百道梵書」にも盛んな討論が残っている。
解脱の方法も祭祀だけではなくて、欲望を捨てる、浄業(よい行い)
といった、仏教にかなり近い思想も出てくる。
さらに、瞑想の端緒も。
「深い深い眠りの状態で、醒めている間精神を取り巻いている世界も
このときにはことごとく消滅して、夢さえも現われず
『小児の憩えるが如く、歓喜の頂点に達せる偉大なるバラモンの憩える如し』。
『眠りに入りて欲望を感ぜず、夢幻を見ざるは、これすなわちアートマンのみ
を欲し望める状態なり。無欲の状態なり』」
「人もしアートマンを識り、そは我なりと観ぜば、何を願い、何を望みて
形あるものに執着すべき」
=この真理に目覚めた識者・覚者を「pratibuddha」という単語で表現していて、
「仏陀」はここから出た単語である。
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まとめますと・・・・
仏教登場より前からあった思想
(諸説あるでしょうが、あくまで同書の解釈によれば)
・現世は楽しいものではない
・何度も生死を繰り返す悲惨な運命にある
・そこから解脱して、素晴らしい境地に至る道がある
・真理に目覚め、欲望を捨て、善い行いをすることは、解脱への道である
・出家して森やなんかに住んで乞食生活をする手法
etc.
ということになりますかしら。
こういった潮流の上に、お釈迦さまオリジナルの上書きを行ったのが
仏教ということですね。
全部がお釈迦さまのアイデアではなくて、がっかりしました?
でも思想的にも方法論的にも、違うところは多々ありますよね。
なかでも根本的に違うのは、
従来のバラモンが「永遠で唯一であるアートマンと梵との結合」
を理想の境地だとしたのに対して、
お釈迦さまは「アートマンなんか存在しない(アンアートマン=無我)」
「永遠で唯一の神=梵なんか存在しない」と言い切ってしまったことでしょう。
神を否定するだけでなく、我まで否定してしまったわけだから、
これだけでも革命的としか言いようがないですよね。
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