『鎌倉殿の十三人』~後追いコラム その83 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その83

第19回 果たせぬ凱旋

今回は源義朝の供養について、その2。

 

 義朝供養のために建立された勝長寿院の落成式は、1185(文治元)年10月24日に三井寺の本覚院僧正公顕を導師として行われた。これに至るまで、さまざまな準備がなされたが、ちょっとした問題も起きていた。

 

鎌倉勝長寿院跡』鎌倉(神奈川県)の旅行記・ブログ by ドクターキムルさん【フォートラベル】

(現地に残る勝長寿院跡の説明碑)

 

 同年10月11日、宅磨為久が堂内の壁画を完成させた。極楽浄土の楽園と二十五菩薩(臨終の際に来迎するとされる菩薩たち)が描かれていた。しかし、頼朝はそこに三日月が描かれていたことに注文をつけた。極楽浄土の月は丸く描くものではないかと。為久はピキッと切れて、その三日月を削り取ってしまった。頼朝は、『無双の画図の達者』と称されていた為久のプライドを傷つけてしまったのだ。

 

 同21日、仏師成朝が手がけた本仏が完成。丈六皆金色(じょうろくかいこんじき)の木造阿弥陀像だった。丈六とは一丈六尺つまり4.8m。これは仏像の身長なので、坐像つまり座った時には半分の高さ2.4mとなる。皆金色なので金箔を張り巡らせた金キラだった。同日、供養のための願文(がんもん:仏事の時、施主が仏への願いを記した文)も届いた。草案は京の式部大夫光範(藤原光範:文章博士で『新古今和歌集』に和歌が収録されている超博識公家)が作り、右小弁定長(うしょうべんさだなが:藤原定長)が清書した。

 

国宝 丈六阿弥陀如来坐像 平等院鳳凰堂 National treasure Seated Statue of Amitabha Tathagata  in Phoenix hall of Byodoin, Kyoto | Buddha temple, Buddha statue, Buddha

(国宝に指定されている平等院鳳凰堂の丈六阿弥陀像:勝長寿院とは関係ありません^^;)

 

 式典当日の10月24日、空は晴れ、風が穏やかに吹いていた。午前4時ごろ、御家人の中から特に屈強な者たちが選ばれ、要所を警護していた。会場の設営等は、宮内大輔重頼(くないだいじょうしげより:源氏一門)が担当した。

 

 本堂の左右には、仮屋(一時的な用向きのために建てられた家)が建てられ、左は頼朝の御座所、右に北条政子(小池栄子)と一条能保室(室=正室、夫人:頼朝の同母姉)の座所となっていた。本堂前には簀(すのこ)が敷かれ、お布施を差し出す役をする者たちの席となっていた。少し離れた山際の仮屋は、時政(坂東彌十郎)の後妻牧の方やその他の幕府の要人の夫人たちの聴聞所(ちょうもんじょ:お経や説教を聞く場所)となっていた。

 

 午前10時、頼朝は衣冠束帯(儀式などでの正装)姿で御所を出発。徒歩で勝長寿院に向かった。御所から勝長寿院まで500m弱。畠山重忠(中川大志)、三浦義澄(佐藤B作)、安達盛長(野添義弘)、北条義時(小栗旬)ら14人が先陣の随兵。頼朝のすぐ前を頼朝の剣を持った小山宗政、頼朝の鎧を身につけた佐々木高綱(頼朝から名馬『いけずき』を拝領した武士※その72参照)、頼朝の弓矢を持った愛甲季隆が歩き、頼朝の後ろには位を持った御家人32人が狩衣(かりぎぬ:狩猟用の衣)を身にまとい、足首で袴を紐で結んだ出で立ちで続いた。その後ろに隋兵16人。さらにその後ろに弓馬の優れた者たち60人が続き、彼らは門前に着くと30人ずつ二手に分かれて門外の東西の警備に当たった。

 

公卿夏束帯 | 日本服飾史

(衣冠束帯:『日本服飾史』より)

狩衣姿 | 日本服飾史

(狩衣:『日本服飾史』より)

 

 導師や供の僧20人に対する布施物(僧侶へのお礼の品)が、凄かった。布施物は、大きな箱に入れられていた。その中身は、導師の分として、錦の被り物5枚、綾織の被り物500枚、綾織の反物200反、長絹(ちょうけん:上質の絹)200反、染めた絹200反、藍摺(あいずり:藍で染めたり、模様をつけた物)の布200反、紺色に染めた布200反、砂金200両(約3kg:現在の価値だと2,500万円位(凄))、銀200両(30万円位)、僧侶の着物一式、上に重ねる袈裟10枚、馬30頭、内、10頭は鞍をつけた状態で御家人が左右について馬を引いた。ちなみに、馬の差配は、あの亀の前事件で髻(もとどり)切られた牧宗親(山崎一)(笑)。布施物は、さらに、金細工を施した刀一振、頼朝が着ていた松が重なった模様のついた着物(頼朝が直々に御簾の中から差し出した)、最後に米500石(一石は約150kgなので75t!!)。これはさすがに重くて持てないので、導師の宿所に送られた。

 

朱子織とは、平織りや綾織りと並ぶ織物の三原組織の1つです。のぼり旗ネット

(綾織:『京都のれん』HPより:縦糸横糸各3本以上で構成されており、糸が交差する所が斜めの線として見える織物)

 

 導師一人にこれだけのお礼とは。さらに詳細は書かないが、導師のお供の僧20人にも被り物や絹、馬などが与えられた。『鏡』は、「これだけ仏に善を尽くせば、仏の加護を受けるチャンスが到来しないわけない」と記している。また、この式典は、頼朝の鎌倉殿としての威厳を大いに示す盛典となった。参列した京下りの公卿たちがこの聖典を目の当たりにしたからだ。京に戻った彼らは、口々に鎌倉殿頼朝の凄さを言いふらしたはずだから・・・。

 

 この盛典の2日前、京から義経(菅田将暉)と行家(杉本哲太)が頼朝追討の院宣を下すよう後白河法皇に要請したという急報が入った。にも関わらず、頼朝は全く動揺せず、勝長寿院の供養の他はアウト・オブ・眼中だったという。これだけ盛大にそして莫大なお布施をすれば、全ては仏の加護の下にうまくいくとでも思っていたのだろうか?ドラマでやってほしいなぁ。でもやらないだろうなぁ。