『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その160
最終回 第48回 報いの時
義時(小栗旬)「これはただの酒だ。毒は入っておらぬ。」
呂律がまわらず苦しんでいた義村(山本耕史)「ほんとだ。しゃべれる。俺の負けだ。」
義時「平六。この先の太郎(坂口健太郎)を助けてやってくれ。」
義村「まだ俺を信じるのか。」
義時「お前は今、一度死んだ。」
意をただして、義村「(一瞬笑みを浮かべ)これから先も北条は三浦が支える。」
何度か頷いて、義時「頼んだ。」
義村「いい機会だから、もう一つだけ教えてやるよ。大昔、俺は、教えてやった。『おなごは皆、キノコが好きだと』
義時「しっかりと覚えている。」
義村「あれはウソだ。でまかせよ。」
驚いた顔をして、義時「早く言って欲しかったぁ。」
笑顔で杯を交わす義時と義村。これまでの二人の間に微妙に漂っていた『わだかまり』が氷解した瞬間だった。今話の中でも一番の名場面と言えるが、まさか『キノコの件』が最終回に回収されるとは・・・(笑)改めて三谷幸喜の脚本の凄さを垣間見た気がした場面だった。
(義村は北条を支えていくことを約束するが、三浦一族は子供の代に北条によって滅ぼされる)
話変わって、アバンタイトルで徳川家康(松本潤)がゲスト出演とは、驚いた。それもお茶をこぼして慌てて、「どうしよう」と困り果てる。来年の大河は『どうする家康』だ。大河ドラマの中で、翌年の大河の番宣があるのは史上初ではないだろうか?最近のNHKを象徴しているような一場面でもあった。ただ、史実として家康は『吾妻鏡』を愛読していて、自らもさまざまな流布本を収集して伏見版『東鑑(あずまかがみ)』を刊行するほどだった。
(徳川家康は『吾妻鏡』マニア)
再度話変わって、今話の中のいくつかの場面を史実とすり合わせてみよう。
まずは、承久の乱の宇治川の戦い。上皇軍の手によって橋が落とされ、無理に渡河を試みて溺れる武士が出ていたため、急増の装甲筏に乗って渡河戦を決行する場面。『鏡』によると、幕府軍は基本的に馬に乗って渡河戦を決行。多くのものが、雨で増水した川に流されたり、無防備な渡河中を朝廷軍に射られた。
泰時は、嫡男時氏に「お前が先頭に立って川を渡り、命を捨ててこい」と命じた。時氏は見事渡河に成功し、上陸してすぐさま、上皇軍に矢を放つ。泰時自身も馬に乗って渡河しようとしたが、鎧兜のままで川に入るのは危険だという家臣のアドバイスを受け、近くの畦道で鎧を外しているうちに、馬を隠されてしまい、その場にとどまることになった。
幕府軍は次々と渡河に成功し、上皇軍と戦った。この渡河戦で幕府軍は98人の負傷者を出した。泰時は、足利義氏とともに『筏』に乗って渡河した。この『筏』は家臣たちが民家を壊して作ったものだった。おそらく、三谷幸喜は、『鏡』のこの記事と和田合戦時の急増装甲部隊をオーバーラップさせたのだろう。あと、映像では宇治川にかかる橋が一部壊されていたが、当時、橋を架けるというのは大変なことで、合戦の防衛手段としては、橋の骨組みは残して、人が渡る部分の板を外して渡りにくくする事が多かった。ちなみに、2020年、80年ぶりに承久の乱を描いた現存唯一の絵巻『承久記絵巻』が京都で見つかった。個人宅で保管されていたというその絵巻にも、宇治川の橋の一部を取り払って防衛する上皇軍の姿が描かれている。
(2年前に見つかった『承久記絵巻』の一場面)
次に、承久の乱後、廃位された天皇を復権させようという動きを察知した広元(栗原英夫)が、「災いの芽は摘むのみ!」と70を越えた老人とは思えぬ語気で、その処分を迫った。泰時はその意見に反対し、「京のことは私が決めます。父上は口出し無用!」と言って席を立つ。義時の静止を振り切ろうとした時、「新しい世を作るのは私です。」と言ってその場を去る。これも今話の名場面の一つかもしれないが、その直後、義時は広元に「(先帝は)死んでもらうしかなかろう」という。
(自らの首を扇子で叩き、先帝の処分を主張する広元)
この先帝とは、仲恭天皇のこと。広元も言っていたが、後鳥羽上皇の孫にあたり、承久の乱の直前に天皇となったが、正式な即位式をする前に承久の乱で廃位となった。わずか4歳で天皇になり、その在位はわずか二ヶ月半ほど。歴代天皇で最も在位期間の短い天皇となった。在位期間は短かったが、承久の乱の13年後まで生きた。つまり、この時の義時の命は実際のものとはならなかった。泰時が立ちはだかったのかどうかは不明だが、1234年、17歳で夭折した。
次に、逆輿(さかごし※1)で隠岐へ流される失意の後鳥羽の前に、賀輿丁(かよちょう※2)の一人に紛れて登場した文覚(市川猿之助)について。
後鳥羽「ん?文覚??とっくに死んだのではなかったか?」
文覚「隠岐は、いいところだぞぉ。」
後鳥羽「お前も隠岐に流されたぁ?」
文覚「隠岐はいいところだぁ、あっはっはっぁ。何もないぞぉ。一緒に暮らそう。」と言って、笑いながら上皇の頭を噛む。
後鳥羽「あーーーっ、嫌じゃぁ。」と泣きじゃくる。
(後鳥羽の賀輿丁に文覚が・・・)
文覚は、1203(もしくは1205)年、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国に流される途中で死んでいる。なので、この時に登場した文覚は、後鳥羽への怨念を振り切れない怨霊と言える。まぁ、文覚が頼朝(大泉洋)に義朝(頼朝の父)のドクロだと言って、その挙兵を促したことで、今年の大河ドラマが始まったとも言えるので、最終回にも文覚が登場したことでドラマが完結するという事なんだろうか?
締めくくりは、義時の最期について。
のえ(菊地凛子)に毒を盛られた義時。詰問されたのえは、「バレちゃったぁ」とチョー軽いノリでそれを認める。さらに、その毒は、三浦義村に頼んでもらったものだと余計なことまで。それを聞いた義時が、このコラムの冒頭に書いた場面で義村の真意を確かめるとともに、自分亡き後の北条を義村に託す。
(毒は義村からもらったと告げるの絵)
体調を崩し伏せっている義時を診た医者(康すおん)は、『麻の毒』と告げ、毒消しを持ってくることを約束する。その後も体調が戻らぬまま、これまで自分がしてきたことを詳らかに政子(小池栄子)に話す。死の直前、薬を欲した義時は、息子泰時のために全てを背負って地獄に堕ちようと決意した。
(脈をとるだけで何の毒かがわかってしまう鎌倉時代のドクターX笑:役名は『医者』なので誰だかわからない。きっと架空の人物。)
政子「そんなことしなくても、太郎はきちんと新しい鎌倉を作ってくれるわ。」薬を渡さない。
「私たちも長く生きすぎたのかもしれない。」薬を全て床にこぼす。「寂しい思いはさせま
せん。私もそう遠くないうちにそちらへ行きます。」
義時「まだ死ねない」と床にこぼれた薬を飲もうとする。烏帽子も取れ、もがき苦しむ義時。な
んとかこぼれた薬のところまで来たかと思った瞬間、政子は自分の袖でそれを拭き取ってし
まう。
(「まだ死ねない」と政子がこぼした薬まで這う義時)
政子「太郎は賢い子。頼朝様やあなたが出来なかったことを、あの子が成し遂げてくれる。北条
泰時を信じましょう。賢い八重さんの息子。」
義時、息も絶え絶えに「確かに、あれを見ていると八重を思い出す。」
政子「でもね、もっと似てる人がいます。あなたよ。」
義時「姉上。あれを太郎に。」と頼朝から引き継いだ小さな観音像を指差す。
政子「必ず渡します。」
義時「姉上」
政子「ご苦労様でした。小四郎。」義時絶命。(完)
(姉政子は弟義時の最期を見守った)
※1 罪人が運ばれる時のしきたり。進行方向と逆を向いて輿に乗ること。
※2 高貴な人物が乗る賀輿(がよ)を担ぐ人