『鎌倉殿の十三人』〜後追いコラム その158 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その158

第47回 ある朝敵、ある演説

今回は、後鳥羽(尾上松也)が義時(小栗旬)追討の手始めとして血祭りにあげた伊賀光季(配役不明)について

 

 後鳥羽は、義時追討の挙兵前、当時陰陽頭(おんみょうのかみ)であった安倍泰忠に合戦の吉凶を占わせた。その結果は、「この度の合戦は、良い結末とはならない。挙兵を急がずに、まずは年号を変えて、十月上旬に行えば願いは成就するでしょう」と言うものだった。これに対して、卿二位藤原兼子(ふじわらけんし:シルビア・グラブ)は、「義時が上皇様に勝てるわけがなかろう。今回の企ては、程なくして露見する。一千騎もの軍勢を隠し切れるものではないから。義時がこのことを知ることになれば、面倒なことになる。一刻も早く、挙兵すべきだ」と強行に即時挙兵を主張した。これによって上皇は、まず手始めに義時の縁者(義時の妻は光季の姉妹のえ(伊賀局:菊地凛子))で京都守護となっていた伊賀光季を討てとの命令を下した。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第47話。後鳥羽上皇(尾上松也・奥)は「北条義時追討の狼煙とする」(C)NHK― スポニチ Sponichi Annex  芸能

(光季追討を命じる後鳥羽上皇)

 

 上皇の命を受けた藤原秀康(星智也)は、三浦胤義(岸田タツヤ)を呼び、相談した。光季とともに関東で育った胤義なら、光季が何を考えているかわかるだろうと言うのがその理由だった。胤義は、「五月十五日に討ちましょう。光季は、比類なき猛者。単に攻め寄せて討てる相手ではない。上皇のお召しと称して、高陽院殿(かやのいんでん)の庭に誘き寄せて討ち取りましょう。もし、誘いに乗らなかったら、運に任せて攻め込みましょう。」と提案した。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」最終回(第48話)。(手前左から)藤原秀康(星智也)三浦胤義(岸田タツヤ)(C)NHK― スポニチ Sponichi  Annex 芸能

(楽譜軍を迎え撃つ藤原秀康と三浦胤義:次回最終回の一場面)

 

 こうした動きを察知した佐々木広綱(光季とは相舅(あいやけ):婿の親と嫁の親という間柄)は、光季に知らせるため、自邸での酒宴に招いた。その席で光季は「最近、多くの武士が都に集まっている。どう言うわけなのか。」と広綱に問うた。広綱は、自分の知るところを伝えようと思ったが、光季が討ち取られてしまった時には「光季と繋がっていた」と上皇からお咎めを受けることを恐れ、「そうだな、何を考えているんだろう。京で何か騒ぎでも起こしたものがいたんだろう。そんな騒ぎに巻き込まれることも他人事ではない。そんな時は、頼りにしている。さぁ、飲もう」とはぐらかした。

 

 討伐予定日15日になったので、秀康は院宣で光季を3回呼び出した。しかし、光季は怪しんで動かなかった。光季は乳母子であった光高を偵察に行かせた。すると一千騎の軍勢に遭遇した。光高が街中をうろついていた若者に尋ねると、「伊賀光季を討ち取る者たちだ」という答えが。それを聞いた光高は、大きな動揺を隠せないまま、急いでとって返し、「討手一千騎がすぐそこまで来ています。あなたは勅勘(天皇からのお咎め)を受けたんです。宣旨だろうと院宣だろうと、応戦しましょう」と光季に言った。

 

 光季は、これを聞いても全く動揺もせず、「たとえ討手が来ようとも、この光季は簡単には討たれない。」と言って、酒宴の席を賑わしていた遊女たちに「自分が死んだ時の供養とせよ」と言って盃を交わし、遊女たちを逃した。光季は「ここで死んではなりません」と言う側近の言葉を聞かず、「ここで逃げては、武士の誉が傷つく。最後の一騎となっても、戦って死ぬつもりだ。自分に付いてくる者は付いてこい。そうでない者は、恨みには思わないから、合戦となる前にどこかへ落ち延びろ。」と言った。85騎いた武士達は、落ち延びる者が続出し、わずか29騎だけが残った。光季は、大鎧を差し出した家臣に「大鎧を身につけたら勝てるのか。攻め手は多勢、こちらは無勢。大鎧など身につけずに多勢に立ち向かって一矢報いることこそ後世に名を残すのだ」と言って、大鎧を切り刻んで泥の中に捨てた。大鎧を着て討死し、戦利品として大鎧が敵の手に渡るのが惜しいと言うのがその理由だった。

 

 「残った軍勢29騎、あなたと寿王(光季嫡男:当時14歳)を加えて31騎。敵陣に分け入って死力を尽くして戦って、負け戦となったら自邸に火を放ち、自害して果てましょう」と光高は言った。討手が攻めてくると光季は、門を開けた。討手が傾れ込んでくると光季は、攻め手三浦胤義の目の前まで来て、「天皇に何の罪禍もない者がなぜ勅勘を受けるのか。この謀略は以前から知っていた。そなたと秀康の二人で義時を討ち取り、天下を手中に治めんとするその手始めに、この無勢の光季を討ち取ろうとしたのであろう。しかし、必ずや義時は大軍を率いて京に攻め上り、謀反人の首を討ち取るだろう。何でこんなことを思い立ったのだ。」と詰め寄った。

 

 胤義は、一矢を放った。矢は光季の左袂(たもと:袖の垂れ下がった部分)を貫通して後ろの木に刺さった。光季は、「そなたの最初の矢で射殺されると思ったが、まだ神仏のご加護が自分にはあるようだ。そなたの命運が尽きたのだろう。この光季、齢四十八。わが手並をご覧あれ」と一矢を放った。矢は、胤義をかすめて、後ろに控えていた武士の首の骨を射抜いた。胤義は、大将軍が真っ先に討たれては不名誉だと思い、後ろに下がった。

 

 その後も激戦は続き、官軍(朝廷軍)は35騎討ち取られ、光季も負傷して、屋敷の中に入った。家臣に屋敷に火を放つよう命じた光季は、嫡男寿王とともに自害してはてようとしたが、寿王は「自害ではなく、父上の手にかかって死にたい」と懇願。光季は、刀を抜いて刺そうとしたが、涙で寿王が見えなかった。そして、三太刀ほど自らを刺して、燃え盛る屋敷に飛び込み、念仏を唱えるとともに、義時に自分の仇を取ってくれと言って、寿王に覆い被さるようにして炎の底に沈んでいった。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第47回感想 のえ、黒い着物姿で憤怒の表情! - MANTANWEB(まんたんウェブ)

(光季を見殺しにしたと義時に怒るのえ)

 

 戦いは未剋(午後1時から3時)に始まり、申剋(午後3時から5時)に終わった。一千騎対三十一騎。多勢に無勢であったが、2時間余りの間、光季たちは奮戦したことになる。今話では、あっという間に秀康に討ち取られてしまった光季だったが・・・。光季自害の報告を受けた後鳥羽上皇は、「味方に付けて、義時追討の大将軍としたかった」と残念がった。かくして承久の乱の火蓋が切られた。

 

 今回は、『慈光寺本承久記』をいつもの私のチョー適当な口語訳で光季の最期を紹介しました。異本の多い『承久記』の中でも、最も承久の乱に近い年代に書かれたものだが、合戦物語なので、多少の誇張がある事は否めない。しかし、そこが面白いかなぁと思って、今回紹介することにしました。

 いよいよ最終回。義時の最期はどう描かれるのか?病死、のえによる毒殺以外にも政子(小池栄子)がトウ(山本千尋)に命じて殺させるとか、いろんな憶測が飛び回っている。いずれにしても、義時の後をつぐ泰時(坂口健太郎)が、「後のことはこの私にお任せください。父上の遺志を継いで鎌倉を守っていきます。」とか言って、義時は安心して逝くんじゃないかなぁ・・・わかりません(笑)