『鎌倉殿の13人』~後追いじゃない先取りコラム その84
第19回 果たせぬ凱旋
今回は、義経の庇護者奥州藤原秀郷(田中泯)の死について。
京から落ち延び、鎌倉方の追捕を逃れた義経(菅田将暉)は、1187(文治三)年2月10日、伊勢(三重県)・美濃国(岐阜県)などを経て。奥州藤原秀衡の下にたどり着く。3月には、鎌倉方も知るところとなる。妻子を伴い、山伏や稚児に変装していたと『鏡』は記す。妻とは、河越重頼の娘で郷御前(三浦透子)とも言われ、頼朝の乳母比企尼(草笛光子)の孫にあたる女性だった。ドラマの中では、比企能員(佐藤二朗)の娘ということになっている。
(奥州藤原氏の館跡とされる柳之御所遺跡:掘立柱跡、井戸、庭園跡などが残っている:岩手県西磐井郡平泉町)
同年9月4日、秀衡が義経を匿って、鎌倉に叛逆しようとしていると頼朝が朝廷に申し入れたので、院庁(いんのちょう:院政を行う役所)から秀衡に命令書が出された。命令書を渡すための使いとともに、鎌倉方の雑色(ぞうしき:下級の従者)も同行し、その者がこの日戻ってきた。その報告によると、秀衡は、鎌倉殿に背くつもりはないと言っていたが、すでに何らかの準備をしているようだったと。頼朝は、京にもそれを伝えるため、この雑色を京に行かせた。
10月29日、秀衡は陸奥国平泉の館で病のため逝った。日頃から重病で先行きが危ういということで、前もって泰衡(山本浩司)ら息子たちに「義経を大将軍として、陸奥国の政務を務めよ」という遺言を残していた。極官(最高の官職)は、鎮守府将軍(朝廷が陸奥国に置いた軍政府の長官)兼陸奥守従五位上であった。義経は、自らを子供の頃から育ててくれた大恩人であり、大庇護者であった秀衡を失った。死因は脊髄カリエスの悪化と言われる。正岡子規と同じ病。
(奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡)がミイラとして葬られている中尊寺金色堂)
(金色堂の内部)
(秀衡と言われるミイラ)
翌年2月29日、義経の引き渡しを泰衡に命じる使者が派遣されると鎌倉に伝わる。4月9日、朝廷の使者は、奥州に向かう途中、鎌倉に寄り、朝廷からの泰衡への命令書を頼朝は非公式に確認した。内容は、義経を差し出さないなら、泰衡らも同罪だという脅しめいたものだった。
8月9日、朝廷の対応が遅すぎるとイラついた頼朝は、朝廷に遅れている理由をきちんと説明するように申し入れた。10月25日、朝廷から義経を討伐せよとの宣旨の写しが鎌倉に届いた。その内容は、「朝廷に叛いた義経に加担することは、朝廷を軽視すること。すでに四代に渡って奥州を支配している泰衡に、従わない者はいるはずがない。朝廷の命に従って、義経の身柄を差し出すなら、褒美も与えるが、もしそうでないなら、官軍(朝廷の軍隊)を出動させて成敗するぞ。天皇の命令に逆らうな。」というものだった。頼朝が糸を引いていた朝廷の揺さぶりは、首を真綿で締めるかのようにジワジワと泰衡を追い込んでいった。
頼朝は、翌年2月22日、朝廷に対して再び義経に関する対応が生温いと文句をつけた。2月26日、前年に奥州に使わされた朝廷の役人が鎌倉に立ち寄り、泰衡が「義経の居場所を突き止めたので、早速捕まえて差し出します」と返事を書いてきたと報告した。頼朝は、これまで何度も朝廷からの命令がありながら、義経を差し出さなかったのに、今更ながらに差し出しますというのは、一時凌ぎの嘘に違いないので全く信用できない、と言い放った。いよいよ頼朝自らが奥州征伐に傾き始めるが、朝廷は何だかんだ理由をつけてのらりくらりとしていた。
閏4月30日、泰衡は、これまでの朝廷(頼朝)の揺さぶりに抗しきれず、衣川の義経の館を急襲した。泰衡は数百の騎馬武者で攻め、義経勢は衆寡敵せず敗れた。義経はいつも拝んでいる仏が安置してある持仏堂に入り、22歳の妻(郷御前)と4歳の娘を殺した後、自害した。極官は、伊予守、従五位下。享年31歳。大庇護者秀衡の死から一年半ほどが経過していた。
(義経終焉の地『高館義経堂(たかだてぎけいどう)』:岩手県西磐井郡平泉町)
義経を滅ぼした泰衡も、後に頼朝に率いられた鎌倉幕府軍に敗れ、滅亡するが、この話はまた別の機会で・・・もしかしたら、第20回で泰衡滅亡まで行っちゃうかな???