『鎌倉殿の十三人』~後追いコラム その82 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その82

第19回 果たせぬ凱旋

今回は源義朝(頼朝父)の供養について その1

 

源義朝の墓(野間大坊大御堂寺) - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る

(源義朝の墓:大御堂寺野間大坊:愛知県知多郡美浜町野間)

 

 今話の中で、義時(小栗旬)、広元(栗原英夫)らは、何とか義経(菅田将暉)を鎌倉に呼び戻そうとするが、後白河法皇(西田敏行)の仮病と検非違使と伊予守兼任という前例のない任官によって失敗。その後、いつもは頼りにならない全成(新納慎也)が、亡き父義朝の供養が間もなく行われることを利用して、義経を供養に参列させる案を思いつく。実衣(宮澤エマ)が、「たまにはうちの人も役に立つ」という台詞に思わずクスッとした。結局、義経を鎌倉に呼び戻すことはできなかったが、亡き義朝の供養は、鎌倉で盛大に行われた。『鏡』で見てみよう。

 

 1184(元暦元)年11月26日、頼朝は鎌倉中の『勝地(父義朝を供養するに相応しい場所)』を探していたが、御所の東南に『霊窟(れいくつ:神仏を祀った神聖な岩屋)』があったので、そこに寺を立てることにした。勝長寿院(しょうちょうじゅいん)とか大御堂(おおみどう)と呼ばれる寺である。この地域はやがて、大御堂ヶ谷(おおみどうがやつ)と呼ばれるようになる。同日、大江広元、藤原俊兼が奉行となり『犯土(ぼんど:今で言う地鎮祭)』が行われ、頼朝も出席した。

 

個別「大御堂橋」の写真、画像 - 鎌倉08・9・9 - 花 ときどき風景

(大御堂橋:神奈川県鎌倉市雪の下4丁目)

 

 翌1185(文治元)年2月12日、頼朝自ら伊豆国に出向き、狩野(かのう)山中(静岡県伊東市)で建設のための用材を探し、19日から工事が始まった。同3月18日、工事中に番匠(ばんしょう:大工)が屋根から落ちる事故があったが、不思議なことに無傷だった。寺を立てるという信心が仏の意志に叶い、死ななかったのだと、頼朝は一層信心を深めたという。

 

鎌倉勝長寿院跡』鎌倉(神奈川県)の旅行記・ブログ by ドクターキムルさん【フォートラベル】

(勝長寿院跡:神奈川県鎌倉市雪の下4丁目)

 

 同年4月11日午後2時ごろ、『立柱式(今で言う棟上式)』が行われていた最中、西海の義経から、平家滅亡の急使がきた。頼朝はその巻物できた膨大な報告書を自ら巻き戻し、鶴岡八幡宮を拝礼したが、一言も発しなかった。工事は、同年10月まで続く。この間、本堂の仏像造立のために奈良仏師成朝(せいちょう)が、本堂の壁画を描くために当時「無双の画図の達者」と言われた京都の宅摩為久(たくまためひさ)が鎌倉に招かれた。

 

 義朝の首は、頼朝が亡き父の首を貰い受けたいと後白河法皇に願い出て、検非違使が中心となって探索。発見後、義朝第一の郎等と言われた鎌田正清の首と一緒に勅使大江公朝が鎌倉に運んだ。頼朝は、片瀬川辺りまで出迎えた。義朝の首は、文覚(市川猿之助)の弟子の僧が首にかけていたものを、頼朝が受け取り、御所に戻った。8月30日のことだった。

 

勝長寿院跡~源頼朝の建てた幻の寺:鎌倉~

(勝長寿院跡碑の左にある源義朝と鎌田正清の供養塔:なかなか良い形の五輪塔)

 

 9月3日午前0時ごろ、御所から腰に乗せられてきた義朝と正清の首は、勝長寿院に葬られた。頼朝は『御素服(ごそふく:染めていない白い衣。喪服。)』で参列、御家人も多数お供をしていたが、多くは敷地外に留め置かれ、大内(平賀)義信、毛利頼隆、大内惟義など源氏一門だけが頼朝と共に中に入った。

 

 そしていよいよ勝長寿院の落成式となるが、続く。