『鎌倉殿の十三人』~後追いコラム その81 | nettyzeroのブログ

nettyzeroのブログ

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』に特化したブログ。
からの〜徒然なるままに・・・

『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その81

第19回 果たせぬ凱旋

今回は、源行家(杉本哲太)について。

 

تويتر \ 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 على تويتر: "\#鎌倉殿の13人 ギャラリー/ 【第3回】本日放送!  [総合]夜8時 [BSP・BS4K]午後6時 #三谷幸喜 が贈る予測不能エンターテインメント! #杉本哲太 #源行家  https://t.co/MciLhKa7Ht"

 

 ナレーションで長澤まさみに『死神』と言われた源行家。彼は頼朝の父義朝の兄弟で頼朝(大泉洋)の叔父。十郎行家と名乗っていたので、十男坊。また、熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の新宮別当家に行家の姉が嫁いでいたので新宮十郎とも名乗っていた。。

 

熊野速玉大社|熊野三山協議会

(熊野速玉大社)

 

 行家は1185(元暦二)年8月4日、頼朝から追討命令が出された。何度も平家追討のチャンスがありながら尽く負け、自分から進んで頼朝に仕えようともせず、そのくせ、鎌倉殿の御威光を傘に着て、あちこちで年貢(税金)を奪っている。そればかりか、鎌倉殿に謀反を起こそうとしていたことが露見したというのが、『鏡』が伝える行家追討の理由だ。 

 

 義経(菅田将暉)と行家が、後白河法皇に強要して頼朝追討の宣旨を出させたのが、10月18日。前日の17日、義経は、頼朝の命を受けた土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん:村上和成)の襲撃を受けたが、義経四天王の一人佐藤忠信の活躍、さらには行家の加勢によって辛くも撃退していた。ドラマの中では、比企能員(佐藤二朗)の娘里(三浦透子)が義経の愛妾静(石橋静河)を亡き者にし、夫義経にお灸をすえ目的で襲撃させたとしているが、『鏡』では頼朝の命だったと記している。ちなみに、義経追討は、日頃から議論があり、10月9日の段階で、土佐坊を義経の刺客として遣わされることが決定していた。

 

土佐坊昌俊邸跡 - 鎌倉タイム

(土佐坊昌俊邸跡:鎌倉市雪ノ下1丁目)

 

 その後、京で挙兵をした義経・行家だったが、全く兵が集まらず、頼朝が大軍を率いて鎌倉を出立し(10月29日)、京に進軍との報を聞いた二人は、11月3日、九州で再起を図ろうとした。従った軍勢は約200騎。11月6日、義経・行家一行は、大物浦(だいもつのうら:大阪府大阪市西淀川区、兵庫県尼崎市大物町の2説あり)から船で九州に渡ろうとしたが、急な突風で船が転覆、手勢はバラバラになってしまい、義経の供は、伊豆右衛門尉(有綱)、堀弥太郎(景光)、弁慶、静のたった4人だった。行家はどこかに逐電していた。。

 

クリックで拡大画像が開きます。

(大物主神社:おおものぬしじんじゃ:尼崎市大物町)

 

 その後の二人については、1186(文治二)年3月14日、熊野か金峯山のあたりにいそうだという情報、また、4月20日には比叡山が二人を匿っているという情報が流れ、5月13日には京内に潜伏しているという情報まであった。(『鏡』同日条)。しかし、実際には、4月12日、行家は和泉国(大阪府南部)の役人日向権守清実の近木郷(こぎごう:大阪府貝塚市)の家にいるという密告があり、一条能保(いちじょうよしやす:北条時政の後の京都守護)と北条時定(時政の甥?:詳細不明)に急襲され、裏山の民家の二階に逃げた行家は捕まり、首を討ち取られた。生年が不明のため正確には分からないが、享年は40代前半だったと思われる。同時に行家の子息光家も首を討ち取られた。享年不明。

 

 義経は、その後も鎌倉方の探索網をかい潜り、奥州藤原秀衡の下に逃げ込む。これは来週描かれるはず。