その男⑬
「その男」のホテル生活も一週間ほどが経過し、生活にもリズムが出てきた。
できることが限られているので、シンプルな生活をすることができているためのようだ。
スーパーに買い物、料理、筋トレ、そしてブログの更新。
「なんだかんだでその生活楽しんでるんでしょ?」
「その男」の嫁から言われた。
どうやらそのようだ。
自分でもそう思うし、他人から見てもそう感じるようだ。
限られた環境の中で全力を尽くし、その結果この生活を楽しむことができているようだ、「その男」は。
スキーだって同じだと思っているようだ。
嘆いて環境が変わるなら全力で嘆く、愚痴る。
それで変わらないのなら、今ある環境で全力を尽くしかない。
ホテル生活はやっと折り返し。
数日後も
「なんだかんだ楽しんでる」
と言える保証はどこにもない。
トリノオリンピックオリンピック出場を逃した「その男」は、大学二年生になった。
このシーズンは「その男」にとって世界ジュニアに出場できるラストチャンス。
世界ジュニアには大学一年生の歳まで出場できる。
しかし、生まれた年で年齢を見るため、早生まれの「その男」は、大学二年生になっても出場できたのだ。
大学一年生の世界ジュニアの最高順位は五位。
高校三年生の時のようにメダルを獲得することはできなかった。
「その男」の大学一年生の時の世界ジュニアでも、圧倒的な力を見せたのがペッテルだった。
個人、リレー種目完全制覇の四冠。
どの種目もぶっちぎりで優勝していた。
「その男」よりも年齢が一歳上の彼は、世界ジュニア通算金メダル6個、銀メダル2個という輝かしい成績を残し、シニアに上がった直後からすでに活躍をしていた。
「その男」のその年の目標は、世界ジュニア優勝。
ジュニア世代での世界一を目指していた。
世界ジュニア直前に行われたインカレで、「その男」は初優勝をしていた。
リレーでも優勝をしており、勢いのままに世界ジュニアに乗り込んだ。
いつになく絶好調だった。
絶好調だった「その男」だが、数週間後に絶望の淵に立たされるとは、誰が予想しただろう?
それも、思いがけない理由で。
現地入りした「その男」は絶好調を維持していた。
練習をしていても体が軽い。
スキーが勝手に出てくる感覚がたまらなかった。
とある夜。
山口さんと、フィンランド人コーチのペッカが部屋に入ってきた。
なんとなくおかしい。
普段なら二人そろって部屋に来るなんてことはない。
椅子に座るよう指示された。
何だ、何か変だぞ、変な空気だぞ。
次に山口さんに告げられた言葉は、あまりにも残酷なものだった。
「レースに出場できない」
意味がわからない。
どういうこと?
大きな大会になると、大会直前に体の検査がある。
ドーピング検査のようなものだ。
血液検査が行われた。
そこで重要な数値がある。
それが
「ヘモグロビン」
だ。
酸素運搬能力に直結するヘモグロビン。
高ければ体に酸素を送る能力も高いということだ。
「その男」が時折測定していたVo2マックス(最大酸素摂取量)に影響する。
クロスカントリーを見ればわかると思うが、その過酷さゆえに酸素運搬能力は非常に重要だ。
(最近質問箱を始めた某教授、すごく簡潔に書きましたがこの説明で大丈夫ですよね?)
このヘモグロビンは、ドーピングなどによって高めることができるようだ。
そのため、FISは国際大会出場にあたり、ヘモグロビン数値の上限を定めている。
たしか17.5が上限だったように思える。
「その男」は、その数値を超えていたようだ。
それにより、三日ほどの出場停止を受けてしまったのだ。
先に記しておきたい。
ヘモグロビンは遺伝的に高いという人もいるようだ。
断言できるようだ。
「その男」はドーピングなどしていないと。
ドーピングによってヘモグロビンが高いわけではないと。
遺伝的に高いということを証明してFISに申請すれば、参加出場のためのヘモグロビンの上限が引き上がる。
日本に帰国してから、「その男」は東京の大きな病院へ行き、もう一度ヘモグロビンの検査をした。
遺伝的ということを証明するために、「その男」の両親にも血液検査をしてもらい、ヘモグロビンの数値を確認した。
それらの書類をまとめ、FISへ送り、「その男」は遺伝的にヘモグロビンが高いと認められ、ヘモグロビンの上限が引き上げられた。
話は戻り・・・
現実を受け入れるのには時間がかかった。
目標を達成する場を失った男は冷静ではいられなかった。
ひたすら泣いた。
苦し紛れに発した言葉は
「優勝した後にそれが発覚して、優勝がはく奪にならなくてよかった。レース前でよかった」
まだ大会は始まってすらいないのに。
それくらい自信をもって現地入りしていたようだ。
しかし、一筋の光もあった。
「出場停止三日」
逆算すると、次の検査にパスをすればスキーアスロン、リレーには出場ができる。
では、次をパスするためにはどうすればいいか。
血を濃くしてはいけない。
水分だ。
水を取りまくった。
スーパーに行って大量に水を買い込み、朝から飲み続けた。
何回もトイレに行かなければならないという副作用付き。
もう一つの副作用は、その時に飲んでいた銘柄の水は、その後嫌いになったということだ。
必ずレースに出場できる。
そう思い、準備は怠らなかった。
レース初日、スプリントレースが行われた日の午後。
ついさっきまで盛り上がっていた会場が嘘のように静かだった。
その中、一人でタイムレースをした。
幸い体の軽さは継続している。
それがをちょっと虚しく感じながら、追い込んだ。
運命の再検査。
ペッカと二人で検査場所へ。
採血中
「なんとなく血が黒くて、濃い気がする・・・・」
そう思った。
先入観だろうか。
良いイメージができなかったか。
結果がでた。
「Too high」
また残酷な言葉を突き付けられた。
結果は18.2と18.3。
その男がたたき出したヘモグロビン数値だ。
出場チャンスが断たれた。
個人だけじゃない。
男子は四人しか選手がいなかったため、リレーの出場も断たれた。
検査場で泣き、宿に戻って泣き、会場でレースを見ながら泣き。
狂ったように泣いた記憶がある。
「あの時もし世界ジュニアで走れたらどうなってたのかなぁ」
たまに今でも思うことがあるようだ。
帰国直後に全日本選手権が「その男」の地元で行われた。
「その男」は出場を見送った。
自分の体がクリーンなことが証明されてからレースに出場したいという理由だったようだ。
気持ちの整理ができていないところもあったのだと思う。
また目標を達成できずにこのシーズンも終わった。
当時は悔しくて、悲しくてしかたなかった。
しかし、今の「その男」は違う考えでいるようだ。
「世界が定めた基準を超えるほど、強い体に産んでくれてありがとう、お父、お母」
その男⑫
正直焦っている。
その男は二週間あれば余裕で振り返ることができると思っていた、その男の過去を。
しかし、見積もりが余った。
このペースでその男が大切にするブログにアップを続けていては、何もしなくて良いホテル生活での二週間では完結しないように思える。
それだけはまずい。
日によっては、一日三回アップをする必要がありそうだ。
まだ中盤戦にすら差し掛かっていない、その男の回顧録。
それにもかかわらず、内容がどんどん薄っぺらくなっていっているように思える。
それが、この先更新頻度を増やさなければならないとなると・・・
自己防衛のために、あらかじめ宣言しておくその男。
相変わらず卑怯者だな、その男よ。
「中央大学」
その男が選択した大学だ。
卒業後は北海道へ戻ることになるその男だが、北海道支部OB会に参加した際、その男が大学に入るきっかけにもなった大先輩OBが言っていた
「中央大学は質実剛健だからな」
その男は、その言葉をえらく気に入っているようだ。
飾り気なく真面目に、強くたくましく。
そんな選手になりたかったんだろう、その男は。
中央大学のような選手に。
戸惑った。
18年間、その男の生まれた村で育ったその男。
もちろん実家暮らしで、一人暮らしすらしたことがなかった。
それがいきなり東京の大学へ行くこととなった。
北海道一人口が少ない村から、日本の首都東京へ。
「八王子は田舎だから、大丈夫だろ」
在学中何度も言われたが、その男にとっては八王子でさえ大都会。
特急列車?急行列車に乗り換え?
えっ、特急列車って特急料金払わないの?
電車にすらまともに乗れないその男。
京王八王子・・・JR八王子・・何が違うんだ・・・
路線の違いすら分からない。
生粋の田舎者なのだ、その男は。
練習だってそうだ。
当たり前に毎日乗っていたローラースキー。
しかし、東京では早朝に河川敷でしか乗れない。
苦情が来るため、人が少ない時間帯にやらなければいけなかったようだ。
ランニングをするにも、山の中を毎日走っていたのが、アスファルトの上をひたすら走るのみ。
近くに不整地を走れる場所はあったものの、山というよりは丘。
満足いくものではなかった。
それに加えて暑さもあった。
レベルが違う。
同じ30度でも湿度が全く別物なので、気温以上に暑く感じる。
涼しい北海道でしか過ごしたことのないその男にとって、真夏の東京は地獄だったようだ。
もちろん、人の多さも。
千人にも満たない、その男が住んでいた村。
大学の生徒数だけで村の人口を上回っている。
一学年だけでも上回っていたのでは?
どこに行っても人、人、人。
何をするにしても今までその男が過ごしてきたことと違い、とにかく戸惑った。
だが
やるしかない。
その男が大学生になったその年。
トリノオリンピックが開催される年だ。
その男のカテゴリーはまだジュニアだった。
しかし、前年度の世界ジュニアでの実績が認められてか、シニアの選手と一緒に海外で開催されるレースに派遣された。
まずはフィンランド、スウェーデンで開催されるFISレースに参加をする。
四レースに参戦し、その成績によりワールドカップへ格上げ。
ワールドカップで良い成績を残すことができれば、オリンピックへの道が開かれる。
海外のFISレースではあるが、オリンピック出場に向けては、敵は日本人となる。
その男は昨年、世界ジュニアへ行く前に日本で行われたFISレースで、シニア選手を抑えて優勝しており、引けを取っていなかった。
ある程度いけると思っていたようだ。
しかし
散々だった。
いざレースが始まると、まったく走れない。
日本人選手の中でも後ろから三~四番目のレースが続いた。
そんな成績では、もちろんワールドカップ組に格上げされるわけがない。
その時、FISレース組からワールドカップ組に格上げされた選手が
「成瀬さん」
だ。
その男が高校一年生の時の最強高校生。
その後、力をつけたその男は、大学生になった成瀬さんに負けず劣らずの成績を残していた。
その男が高校三年生になったときには、むしろその男のほうが成瀬さんよりも良い成績を残すことが多かったようにも思える。
しかし、このシーズンは全く別だった。
まったく走れないその男。
ワールドカップ組に格上げされ、後にトリノオリンピックに日本代表として出場することとなる成瀬さん。
FISレース終了後、その男はワールドカップ組へ合流できていなかったので、そのままフィンランド国内のヴォカティに残り数日練習していた。
その間、成瀬さんはワールドカップ参戦のため、同じくフィンランド国内のクーサモへ。
当日はその男も応援へ駆けつけた。
かっこよかったなぁ。
ヴォカティで練習しているその男は、珍しく落ち込んでいたようだ。
目標としていたオリンピックに出場できないと、その段階で決まってしまっていたからだ。
自分の走りをすることができないからだ。
数日後、ワールドカップを終え、ヴォカティに戻ってきた成瀬さん。
その時に落ち込んでいたその男は、成瀬さんからかけてもらった言葉が忘れられない。
「これからもいいライバルでいような」
片やFISレースでまったく走ることができず、居残り練習を命ぜられたその男。
片やワールドカップ組に格上げとなり、後にオリンピックに出場する成瀬さん。
雲泥の差だ。
それでもその男の事を、
「ライバル」
と言ってくれることが本当にうれしかったようだ。
その日からその男にとって、成瀬さんはソチオリンピックで引退するまでライバルだった。
あの時のその言葉に救われたその男。
今でも心から成瀬さんに感謝しているようだ。
その男⑪
「ちくしょう、なんでこんなに追い込まなきゃいけねぇんだよ、馬鹿野郎」
とあるホテルの一室。
汗をかきながら筋トレをしているその男は一人でつぶやいたようだ。
相変わらず筋肉痛を継続しているようだが、今日もまた筋トレをしたらしい。
ハァハァ声を出しながら、追い込んでいるようだ。
そんなに追い込む必要あるのか?
残念なことに、体は追い込むことを欲しているようだ。
自然と体重を図ってしまうように。
強さに憧れて、どうやったらあのようになれるかと自然に考えてしまうように。
いざ動き出したら、出し切りたくなるのも、自然と体がそうしてしまうようだ。
初めての世界ジュニア。
例年は二月上旬に開催されていた世界ジュニア。
しかし、この年は三月下旬に開催されたため、インターハイ、世界ジュニアの両方に出場することができた。
場所はフィンランドのロバニエミ。
その男が初めて海外遠征に行ったのは高校二年生になった四月上旬だったが、その時にきたのもここだったようだ。
初めての海外遠征、そしてこの世界ジュニアに行った時のコーチ。
「山口さん」
その男は、山口さんに頭が上がらない。
その男にスキーの厳しさを教えてくれたのは山口さんだ。
私生活を正してくれたのも、山口さんだ。
なかなかその男の事を褒めてくれない。
いつだってサバサバとしか答えてくれない。
それが良かったのだと思う。
心から尊敬している。
さて、話題は世界ジュニアに戻ろう。
この大会で、その男にとってのヒーローが現れる。
スキーをやっている人なら、彼の存在はだれでも知っているだろう。
とんでもないカリスマ性。
どこにいても、どんな成績をとっても話題になる男。
「ペッテル」
だ。
スキー王国ノルウェー出身のペッテル。
ジュニア時代から別格だった。
その後、彼の代名詞となるであろうラストスパートのスプリント。
それはジュニアの頃から片鱗を見せていた。
その男の世界ジュニアデビュー戦となるスキーアスロンでは、ラストスパートでほかの選手をちぎっていた。
その男は六位入賞を果たしていた。
このレースで印象深いシーンがある。
マススタートだったこのレース。
レース終盤はその男を含む六人の集団となっていた。
トップ集団で走っていたはずなのに、いきなり目の前にもう一つ数人の集団が現れた。
いや、正確には「数匹」だ。
三~四匹のトナカイが集団で大会コースを走り、気が付けばそれを追いかけるような形でトップ集団も走っていたのだ。
途中、消えたと思ったらまた現れるトナカイ。
ジグザグにのぼるコースだったが、トナカイは直線的にそこを上っては、コースをまた走るというのを繰り返していたようだ。
これがフィンランドか・・・
その男は走りながら衝撃を受けた、まったく必要のないところで。
と話はそれたが・・・
翌日のスプリント。
上位30人が予選通過となるが、その男は31位。
わずかの差で予選通過を逃す。
このレース、ペッテルは二位となり、すでに二個のメダルを獲得していた。
三日目。
10㎞スケーティング。
その男は、正直なところ特別な思い出がないようだ。
改めて振り返っても、さほど印象深いシーンや思考などが思い当たらない。
ずっとトップ通過をしていたようで
「マジで?トップ通過?」
と思いながら走っていたことは覚えているようだ。
ゴールした時点でもトップ。
なかなかその男の前に選手が入ってこない。
が
そこにぶっちぎって入ってきたのが、ペッテルだ。
30秒以上負けた。
レベルが違った。
その後はだれも入ってくることがなく、その男は銀メダルを獲得したのだ。
世界ジュニアで日本人の高校生がメダルを取るのは史上初だったらしい。
そして、それは今なおその男のみらしい。
想像できますよね?
たった今、ドヤ顔をしながら、タイピングをしているその男を。
そのレースは、一、三、四位の選手がノルウェーで、そこに割って入ったジャパニーズ。
いろんな国のコーチからグッドだと言われたようだ。
ずいぶんとうれしかったようだ。
その勢いのままに、翌日のリレーでも、四位に入った。
一時はメダル争いに絡む戦いをチームでも見せた。
「この歳になっても世界のトップで戦い続ける同世代の彼らは、いつだって僕のヒーローのような存在だ」
その男は十数年後にインタビューに対してそう答えたようだ。
同世代の彼らとは
「マニフィカ」
そして
「コローニャ」
の事を指す。
彼らもこの大会に参加していた。
この大会では入賞すらしていない彼ら。
しかし、そのわずか数年後には世界のトップレベルまで上り詰めている。
初めての世界ジュニア。
メダルを獲得することができたが、何がうまくいったのだろうか?
改めて考えて出た、その男の答えは
「いつも通り走ることができた」
のようだ。
おそらく何も特別なことはしていないと思う。
もちろん初めての世界の舞台に緊張などはいつも以上にあっただろう。
しかし、いざ走り始めるといつも通りだったように思う。
簡単に聞こえて、最も難しいかもしれないが。
場所が違う、雪質が違う、レベルが違う。
環境が変われば、変化はたくさんある。
それでもどこに行っても自分が自分であることに、一切変わりはない。