豊前国の宇佐めぐり⑦ ~八坂神社と神宮寺~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

宇佐(うさ)神宮
散策しています。



春宮(とうぐう)の裏手に、
八坂(やさか)神社がありました。



八坂神社といえば、
京都の
祇園(ぎおん)信仰であり、

素戔嗚尊(スサノヲ)を
牛頭天王(ごずてんのう)
として祀る
神仏習合(しんぶつしゅうごう)の

信仰です。

ここ宇佐神宮は、
そんな神仏習合の
はじまりの地だといいます。

八坂神社のある場所には、
神宮寺(じんぐうじ)が
あったようです。



神宮寺とは、
神社に附属して
建てられたお寺のことで、

奈良時代あたりから
およそ1000年続いたという
神仏習合の歴史のなかでは、

神は仏として祀られたり、
鎮護したりと
おおらかに手を取り合っていた
ようです。



ここには
弥勒(みろく)寺という
神宮寺があり、

その社地は、
参道の西側に
広がっていたようです。

この弥勒寺が
神宮寺の先駆けである
ともいいます。

また、
神仏分離によって
神宮寺が取り壊されたのちも、

その信仰は、
国東(くにさき)半島の
両子山(ふたごやま)に
流れると、

多くの寺社が築かれ、
六郷満山
(ろくごうまんざん)という
山岳宗教文化が
栄えたようです。



そもそも、
菱形池(ひしがたいけ)

あらわれたという
八幡大神そのものが、


護国霊験威力神通大自在王菩薩
(ごこくれいげんいりょくじんつうだいじざいおうぼさつ)


と仏の名を
名乗っているのでした。



この背景には、
律令国家を築こうとする
朝廷側と、

地方の反乱軍との
対立もあったといいます。

そしてそんな反乱軍には
海外勢力がついていることも
多かったようです。

ですから、
国史編纂によって、
各地の神話と国を
結びるける必要が
あったのでしょう。

さらには、
すでに伝来していた
仏教も取り込んで、
基盤を盤石にしたかった
のかもしれません。

南九州で
反乱を起こした
隼人(はやと)の軍勢を
鎮圧するためには、

宇佐の人々も
八幡神とともに
協力したといいます。

そうして
100人もの隼人の首を
持ち帰ったそうです。

いまでもそこは、
凶首塚として

残っていました。

 

前後しますが、

宇佐神宮参拝ののち

そちらも訪ねました。

 

 

田園地帯の、

岡の一角に、

小さいながらも堂々と

岩が建てられていました。

 

また

この御霊を鎮めるため、
百体(ひゃくたい)神社が

建てられていました。

 


むしろ
この事跡によって重宝され、
また厄を祓うため、

現在の地に
宇佐神宮が創建された
ともいうようです。



また、
奈良の東大寺の
大仏建立のさいには、

宇佐神宮は
八幡神社をあげて
協力したといいます。

それによって、
大和(朝廷)との繋がりも
深まったといいます。



もちろんそれらはすべて、
八幡神のお告げに

よるのだそうです。

となると、
八幡神はとても
戦略的展開に長けていた
のかもしれません。

ところで、
この八坂神社には、

養蚕(ようさん)神社も
合祀されていました。



養蚕神社は
30数年前まで
別の場所に
祀られていたといいます。

宇佐の地は
太古から養蚕も
盛んだったといいます。

山口の忌宮神社(豊浦宮)は、
養蚕伝来の地
されていましたが、

そこから広まったのでしょうか?



ただ、
神話を読めば養蚕は、
はるか太古の神代より
すでにあったようなのです。

とはいえ、
この八坂神社で

見ていただきたいのは、
神木です。

 

とても立派な樹です。

 

おそらく、

神宮寺のあるころから、

ここに立っていたのではないでしょうか?

玉垣のうちにはいると
まったく空気もかわり、

この巨木と感じ合うだけで、
ずいぶんと心も軽くなってゆきました。


豊前国の宇佐めぐり⑧ へ つづく

 

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