大和国の春日めぐり④ ~天児屋根命~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

山上八幡神社では
天児屋命(アマノコヤネ)が
まつられていました。



アマノコヤネは、
春日(かすが)明神
ともいわれ、

春日大社で
祀られています。

 

春日大社にも近い

この地では、

アマノコヤネがおおく

祀られているようです。

 



古事記・日本書紀
によると、

天照大神(あまてらす)が
天岩戸(あまのいわと)に隠れたとき


祝詞(のりと)を
奏上したのが

アメノコヤネだといいます。

天岩戸といえば、
ウズメさまの舞い
有名ですが、

一書には、
アマノコヤネの祝詞が
あまりに見事だったため
岩戸をあけたとも
あるようです。



またその後、
天照大神の孫の
瓊瓊杵尊(ニニキネ)の

天孫降臨(てんそんこうりん)に、
つき従った神の
1柱だといいます。

神事・祭祀を司る
中臣(なかとみ)氏の
祖神であり、

ひいては
藤原(ふじわら)氏の
祖神にあたるそうです。

ですから、
藤原氏は春日大社にて
アマノコヤネを
厚く祀ったといいます。



記紀につたわる

登場シーンは、
天岩戸と天孫降臨の
2か所のみです。

ところが
ホツマツタヱには、
一大叙事詩のように
アマノコヤネに
あふれていました。

なにしろ、

天照大神
オシホミミ(子)
ニニキネ(孫)
ヒコホオデミ(曾孫)
ウガヤフキアワセズ(玄孫)

の5世代に仕えた
重臣だといいます。

さらには
天照大神と背格好も
似ていたそうで、

守(かみ)からも
臣(とみ)からも
民(たみ)からも
愛されていたようです。



神事・祭祀のみならず
政治や歴史など
あらゆることに
通暁しており

その知識や経験をもとめて
おおくの神々が
教えを乞いに来たといいます。

たとえば
ホツマにはよく登場する
「妹背(いもせ)の道」とは
なにかということも、

事績や和歌を交えて、
解説するのです。

その言葉の豊かさが、
ホツマツタヱの醍醐味でも
あります。



そんな方ですから、
とくに天照大神からの
信頼が厚く、

アマノコヤネという名も
春日神という名も
天照大神から
賜ったといいます。

さらには、
天照大神の臨終を
看取ったともいいます。

また、
アマノコヤネを語るには
系譜も重要です。

反乱軍(ハタレ)の討伐で
功のあった軍神の

兵主(ツハモノヌシ)
経津主神(フツヌシ)
武甕槌命(タケミカヅチ)

と縁が深いようです。



ツハモノヌシは
父方の家系で

春日(大和)の地をはじめ、
京都や滋賀を
治めていたといいます。

フツヌシは
母方の伯父にあたり、

関東を治めたという
香取(かとり)明神です。

タケミカヅチは
妻の父にあたります。

フツヌシとともに
古事記でいう「国譲り」の
「カシマ断ち」を行ったことから
鹿島(かしま)明神といわれ

フツヌシとともに
関東を治めたといいます。



アマノコヤネは、
これらすべての地を継いで
一大領主になったといいます。

さらに、
この3人の武神が編み出した、
迷える魂魄を天に返す
『魂返(たまかえし)』という秘術も
受け継いだそうです。



その歴史を
順にたどっていくと

はじめは
天照大神につかえて
伊勢のイサワ宮
いたようです。

御子オシホミミへの
譲位の際は、
詔を伝える大役を授かり、
日高見(ひたかみ・宮城)まで

赴いたといいます。

この日高見で、

アマノコヤネはオシホミミに

妹背の道について

語ったようです。



あるとき、
タケミカヅチの娘の
ヒトリ姫との縁談が
持ち上がりました。

ふたりがめでたく結ばれると
フツヌシとタケミカヅチは
隠居して

関東一帯を
アマノコヤネとヒトリ姫夫婦に
譲ったといいます。

このとき住まわれたのが、
鹿島のイキス宮(息栖神社)

だといいます。



またしばらくすると、
こんどは父が

退役することとなり、

父が治めていた

春日の地に

派遣されることになりました。

 

御子オシホミミは、

長男のホノアカリに

大和の地を治めさせるため

 

アマノコヤネも

同行させたのでした。


しかしホノアカリは、

大和に着任して

1年も経たぬうちに

ちかくに遷都をしようと言いだします。

 

その愚策を、

アマノコヤネは必死に

止めようとするのですが、

 

聞く耳を持たれず、

大和の地を去ったようです。

 

おそらく、

伊勢か鹿島に

戻っていたのでしょう。

 



その後、

ホノアカリの弟の
ニニキネが巡幸する際に、

 

アマノコヤネは

ニニキネの鏡臣(かがみとみ・左大臣)に
就任します。

 

藤原氏の祖先だけあって、

すでにこのときから

左大臣をたまわり、

 

政(まつりごと)を

補佐していたようです。

着任式のときには、
瀬織津姫(せおりつひめ)から
三種の神器のひとつである

八咫鏡(やたのかがみ)を

手ずから受け取ったようです。

 



日本各地をめぐって

農地開拓や灌漑事業を

おこなったニニキネは、

 

ようよう落ち着いてくると、

3人の息子にそれぞれ

宮をあたえて治めさせます。

 

長男ムメヒトには

富士山のふもとの
酒折宮(さかおりみや)を

 

次男サクラギには、

琵琶湖の西の

ウカワ宮を

 

三男ウツキネには

琵琶湖の南の

シノ宮を任せます。

 

そうして

ニニキネ自身は

ミズホ宮にて国政を

執りました。

 

このとき、

アマノコヤネは、

長男ムメヒトについて

酒折宮にいたといいます。



さらに、

ニニキネが筑紫に赴くことになると、
アマノコヤネは

ミヅホ宮に遷ったようです。

このとき、

サクラギこと海幸彦と

ウツキネこと山幸彦は

敦賀の氣比(けひ)神宮に

派遣されて

兄弟喧嘩(いささわけ)

してしまいます。



この喧嘩によって、

ウツキネは

鹿児島へゆくこととなり

 

そこで

豊玉姫(とよたまひめ)と

巡り合って

子供をつくられました


アマノコヤネは
その御子
ウガヤフキアワセズに、
「カモヒト」という斎名を
与えたといいます。

そうして政権が
ニニキネから
ウツキネにうつると、


そのまま

左大臣を引き継いだようです。

 



さらに

ウガヤに譲位しても
左大臣のままだったといいます。

ここからの足取りは
すこしあやふやです。

 

ウガヤについて、
糺の森(ただすのもり)

下鴨(しもがも)神社
行っていたのかもしれませんが、

どうやら
伊勢にもいたようで、
天照大神の

最後を看取ったともいいます。
 

葬儀を終えると、

アマノコヤネにも

ようやく老いがきたのか、

 

退役して春日の地に

帰ったといいます。

 

 

しかし、

隠棲していたわけではなく、

 

三笠社にこもって、

「魂返(たまかえし)」の秘術を

書にまとめていたようです。

 

さらには、

伊勢に舞い戻って、

人々にひろく

妹背の道を教え広めたともいい、

 

また、

暦としていた

マサカキがすべて枯れたため、

 

あらたしい暦を

創出したともいいます。

 

 

いよいよ
死期をさとると
春日にふたたびもどり、

子どもや孫に
諫言して

亡くなったといいます。

 

まめなせば

ついにかがみの

とみとなる

忠勤に励むことによって、

鏡臣になることができた

 

こからさつけぬ

ときにまた

かがみのとみお

うやまうが

のこるのりぞと


たとえわが子といえども、

鏡臣には敬意を払わなければならない。

これがわたしの最後の教えだ

 

この

一本筋の通った言葉が、

深く心に刺さります。


遺骸は、
京都の大原野神社へ
葬られたといいます。

そこは、
妻のヒトリ姫が亡くなった
イキス宮と向かい合うように
造られているといいます。



また、
アマノコヤネが亡くなると、
その死を察知した

猿田彦(さるたひこ)が
駆けつけたといいます。

棺をあけて、

故人を偲んで嘆きます。


わたしはあなたから

魂返の法を授かりたかった

 

すると、

アマノコヤネの目がひらき、

 

よく忘れずにきた。

さあこれだ

 

といって、

書を授けると、

また骸に戻ったといいます。

最後の一滴まで

しぼりつくしたような
たゆまぬ人生を

送られた方のようですね。
 

 

大和国の春日めぐり⑤ へ つづく

 

 

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