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一期一会

本も人の出会いも一期一会。時々読者、時々物書き。好きな本やコミック感想を中心に、日常のつれづれと共につぶやいていきます。



 無言のまま尾行を続け、高橋の姿を見逃すまいと必死だった。時折、人陰や電柱に身を隠す。真野は瑠実の様子から、前方の高橋を追っていると悟ったらしい。

「もしかして、高橋さんを追ってるの?」と真野も、身を隠す瑠実の真似をしながら呟いた。真野は尾行の相手を確認しただけで、瑠実がなぜ高橋を尾行しているのか? というのは聞かなかった。だとすると、真野も高橋が怪しいと睨んでいた証拠だ。

「真野さん、気付いてたんですか?」

 ふと、足を止めて瑠実が問い質すと、真野は前方に高橋の後ろ姿を捉えたまま、何食わぬ顔だ。

「……まあ、なんとなく」

 一応、瑠実の問いに答えながらも、真野の視線は宙を泳いでいた。

「知っちょったのなら、なんで何もせんとですか?」

 瑠実が憤慨して真野にツッコミを入れると、全く気にしていない様子だ。

「まあ、まあ。それより、いいと? 高橋さんは喫茶店に入って行ったよ。尾行中なんやろ?」

 ちゃかすように言われたのが少し気に入らなかったが、今はそれどころではない。高橋を尾行するのが、最大のミッションだ。真野が指さす方向を見ると、高橋は二人に気付かぬまま、路面に面したビルの一階にある喫茶店に入っていった。店は硝子張りの上、夜なので、店内には灯りが点いている。外からもでも店内の様子はよく見えた。高橋は店内を回遊するように歩くと、誰かを捜す素振りを見せ、やがてボックス席に、ゆっくりと座った。やはり誰かと待ち合わせをしていたようだ。

(どうしよう……このまま高橋が外に出てくるまで待つのか?)

 だが、高橋が誰と会い、偽造見積書をどうしたかが気になって、どうにもいたたまれない。背伸びをすると、ボックス席の壁側に座った高橋の頭は見えたが、そこまでだった。

 瑠実と真野は背伸びしてみたが、店外から見るには限度がある。見られそうで、見られないのが歯痒くて堪らない。少し悔しい。いや、かなり悔しい。ここまで尾行したのに、相手が誰だか、わからないなんて。せっかくなら、最後まで見届けてやろうじゃないか。

 思い立った瑠実は「行きましょう」と真野の手を引いた。

「え? 入ると?」

 真野は一瞬、驚いた顔をしたが、瑠実の肝の据わった顔には逆らえない。渋々と手を引かれたまま、二人で店内に入った。もし、高橋に見つかったら、「残業に備えて、夜食を食べに来た」とでも言えばいいだろう。瑠実の頭の中では、見つかった場合の言い訳まで考えて店内に入った。

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

 感じのよい女性店員に言われ、さっと店内を見渡した。店内は半分くらいの混みようで、高橋の座ったテーブルの横は空いていた。

「どうする?」

 真野が瑠実に小さい声で尋ねたが、流石に高橋の隣のテーブルに座るつもりはない。

 一つ離した後ろのテーブルが空いていたので、真野に相談するわけでもなく、勝手に席を陣取った。高橋は奥のボックス席に座り、正面を向いていたが、待ち合わせの相手は向かい側に座っており、背中合わせでよく見えなかった。ボックス席に背を向ける席を瑠実は選んだ。座る直前、ちらりと視線だけ後方に向けると、高橋の目の前には、紅茶の入ったティーセットと、見積書がテーブルに並べてあった。

(あ! あの見積書だ)

 やはり高橋は、誰かに見積書を渡すために来たのだ。瑠実は着席したが、ちっとも落ち着かなかった。見つかったらどうしよう。という気分が、隠れん坊をしている気分にさせる。急に子供に戻ったようで、懐かしいやら、恥ずかしいような気分になった。席に着いて、一つ深呼吸をする。いつの間にか真野も目の前にちゃっかり座っていたのに、瑠実は今頃になって気がついた。真野は勝手にテーブルの端にあったメニューを広げ、何にしようか吟味している。

(ちょっと、やる気があるの?)

 なんのやる気だ? と問われれば、それまでだ。元々勝手に瑠実が始めた尾行だ。真野には関係のない話なので、やる気もなにもない。だが、なんとなく瑠実ばかりが一生懸命な気がしてならない。瑠実は妙に腹立たしかった。とはいえ、ここで真野に文句を言っても、始まらないだろう。真野を無視して、瑠実は後方の席に全神経を集中させた。けれど会話までは聞こえなかった。
「少し落ち着いたら? はい、メニュー」

 瑠実の苛立ちをよそに、真野から涼しい顔でメニューを渡された。受け取りながらも、後方の席が気になって、メニューを広げても、気は漫ろだった。そうだ。真野の席からなら、高橋の相手が誰だか、わかるかもしれない。瑠実はそわそわと視線を泳がせながら、真野に尋ねた。

「み・え・ま・す?」

 真野に口パクで尋ねたが、真野は黙って首を横に振るだけだった。しかたがない。ここは、相手が先に席を立つまで待つしかないか。そう思うと、ようやく瑠実は落ち着いてきた。落ち着くと、少しだけ視野が広がった気がした。

 店内は壁と天井を白のスタッコ調に塗装し、床は天然石の乱貼りだった。低音のコントラバスと、ピアノの奏でるジャズ音楽が、落ち着いた雰囲気に拍車をかける。だが、真野と瑠実の耳は、後方の席の会話を聞くのに、ダンボ状態だった。コントラバスの低音は、男の会話に混ざり、聞き取りの邪魔をした。辛うじて高橋の声は聞こえたが、受け答えが大部分で、内容までは把握できない。店員がオーダーを取りに来たが、真野と瑠実は店員の顔もろくに見ずに「コーヒー」と声を合わせて合唱するものだから、店員もたまったものではない。早くどこかへ行ってくれ! と二人してオーラを発するのが判ったのか、店員も不審な顔をしながらも、すごすごとその場を後にした。

「どう? 何か聞こえますか?」

 瑠実は壁際に掛かった絵に視線を送る振りをして、小声で真野に尋ねた。ところが、相変わらず顔を横に振るだけだ。まあ、ここは静かに待つしかないか。しばらくすると、店員がオーダーしたコーヒーを持ってきたが、二人とも手をつけなかった。なんとなく後方の様子が気になり、コーヒーを飲むどころではない。しびれを切らした真野が、「飲まんと?」と、瑠実に声をかけたが、ゆっくりお茶を飲む気分にはなれない。

 真野は、しばらく瑠実に付き合って慎重に後方座席を気にしていたが、腕時計を見やると、側にいた店員を呼びつけた。

「すいません、パフェ一つ」

 メニューも見ずに注文するとは。いつの間にチェックしたのだろう。後方に気もそぞろでろくにテーブルの上も見なかった瑠実は、ようやく端にあったデザートの広告スタンドを見つけた。

「あ、ずるい。私も一つ」

 瑠実もすかさずパフェを追加した。

「なんだ、捜査はもういいと?」

 真野は呆れたように言ったが、瑠実は懲りなかった。

「だって、真野さんだけずるい。私も食べたいですよ。捜査は続けます」

 瑠実も負けじと言い訳したが、真野は知らん顔だった。知らん顔というより、面倒だがつきあってやるか、という態度だ。今現在、見積書の受け渡しの現場に潜入しているのに、真野の落ち着きようはどうだろう。瑠実は誰かを尾行するのも初めてだし、受け渡しの現場に潜入など、経験がないので心臓が高鳴って、どうにも落ち着けない。


to be  continued……
  2

 瑠実がぼんやりと考えながら複合機の前から立ち去ろうとすると、高橋がやって来た。

 高橋は、制服ではなく、私服姿だ。先に会社を出たので、忘れ物でもしたのかもしれない。だが、高橋の足取りは、迷うことなく真っ直ぐに複合機へと向かっていた。

(まさか、高橋が見積の作成者?)

 瑠実は、一瞬はっと驚いたが、平然を装った。

「あれ? 高橋さん、何か忘れ物ですか?」

 瑠実は、わざと自分から挨拶した。高橋は誰もいないと思っていたのだろう。高橋がいる場所からは、視界に瑠実が入っていなかったのかもしれない。遠目にわかるほど、びくりと肩を震わせ、驚いていた。

「ああ。びっくりした。香月さんこそ、まだ、扱き使われちょったとやね」

 高橋の口調は柔らかいが、目は泳いで落ち着きがなかった。何かを探しているようだ。定まらない高橋の視線を探りながら、瑠実は言葉を繋げた。

「ええ。真野さんは容赦ないから……」

 瑠実がおどけ、肩を少し上げながら言うと、高橋は「そうやね」と、上の空で返事をした。なんとなく、瑠実が邪魔な様子だ。

(……もしかして、高橋さんが、見積書をプリントアウトした当人?)

 予感が段々と確信に変わっていく。瑠実は「じゃあ、もう少し頑張ってきます」と高橋に挨拶すると、デスクに戻る振りをして、さっとパーテーションの陰に隠れた。ここからなら、複合機のある場所から死角だ。瑠実が隠れて見ていると、高橋は急に複合機に近づき、辺りを見回した。さっとトレイに手を伸ばし、手持ちのバッグにプリントアウトされた見積書を入れる。後は何食わぬ顔をして、立ち去って行った。

 瑠実は陰で一部始終を見ていた。まさか高橋が見積を取りに来るとは思わなかった。どういうことだろう。そもそも、会社を退社し、私服で高橋がいたのも変だし、見積書を隠れるようにして持ち帰ったところも気に掛かる。仕事や用があって戻ってきたのなら、堂々とすればいいものを、高橋の様子は明らかに周りを気にしていた。

(……うむ。一応、真野に報告したほうがいいのだろうか)

 迷いながらデスクに戻ると、真野の姿がなかった。夜食でも買いに行ったのだろうか。

 真野の姿はない代わりに、デスクの上には客用の見積書があった。見ると先程、瑠実がコピーした物件と同じ見積書だ。だとすると、作成者は真野だったのだろうか。気になってパラパラと捲ると、見積総額が違っていた。あれ? もしかして、変更になった?

 よく見ると、見積作成日時は同じ日になっている。ただの間違いか? とも思い、明細のページを捲ると、見積の項目と、ページ数が少ない気がした。明らかに、意図して項目を減らして作成したものだと解る。先程コピーした見積書をまだ手に持っているのに気がついて、ざっと照らし合わせてみた。気にした設計料の項目に目を運ぶと、コピーした見積書には、設計、建築確認申請料、設計監理料は別途請求となっていたが、真野の机の上にある見積書には、項目も上がっており、金額が載っていた。

 あ、マズイ。

 瑠実は、直感的に感じた。高橋はあの見積書をどうするつもりだろう。瑠実は気になって、コピーした見積書をバッグに入れ、代わりに財布だけ取り出した。一瞬、真野に書き置きを残そうか悩んだが、すぐに戻れば問題ないだろう。瑠実は大急ぎで高橋の後を追った。

                       

 瑠実が会社の外に出ると、すでに真っ暗だった。出るのが遅れたので、高橋は辺りにいないかもしれない。それでも、確かめずにはいられなかった。瑠実の勘が当たっているとすると、客用の見積書は二通が存在するはずだ。一通は正規の見積書。もう一通は、適正でない金額の見積書だ。

 おそらく、適正でない金額の見積書をお客に提出し、会社側には、正規の見積書を提出しておく。誰かが差額をピンハネしている可能性がある。会社の目の前ある大通りの信号に捕まり、瑠実が信号待ちをしながらきょろきょろしていると、道路の向かい側の歩道を、駅に向かって歩く高橋の後ろ姿を見付けた。よかった。間に合いそうだ。

 瑠実は、気持ちだけが先行しそうになる。その場で駆け足しそうになるのを、ようやく堪えて待っていたが、信号はなかなか変わらない。イライラしながら信号を待ったが、しばらく時間が掛かりそうだ。こうして信号待ちをしている間にも、高橋の背中はどんどん小さくなっていく。ダメだ。このままでは間に合わない。大通りの車が途切れるのを見計らい、瑠実は思い切って信号無視をしようと、飛び出そうとした時だった。

「おい、何処に行くんだ?」

 咄嗟に腕を掴まれ、飛び出そうとした瑠実の体は、大きく弧を描いて男の胸に飛び込んだ。同時にブォーと低いエンジン音が、瑠実の背中の辺りをざっと通り過ぎる。

 きゃっ!

 まさに、間一髪だった。ほっとして瑠実が顔を上げると、背の高い真野と目が合った。

 気がつくと、真野の大きな腕の中にすっぽりと収まっている。

(な、なんで? 真野さんが、ここに……?)

 慌てて瑠実が腕を振り解こうとすると、檄が飛んだ。

「馬鹿やろう! 死ぬ気か?」

 車ばかりに気を取られていたが、後方からバイクが前進してくるのに、全く気がつかなかった。危ない所を助けられ、おまけに真野の腕の中に収まっていた状態が恥ずかしくて、瑠実は一瞬、高橋の尾行をしていた状況を忘れそうになった。急がないと見失ってしまう。

「助けてくださって、ありがとうございます。すみませんが、私用で一時外出します。なるべく早く会社に戻りますから」

 ぺこりとお辞儀をし、足早にその場を立ち去ろうとすると、再び真野に腕を掴まれた。

「何処へ行くんだ?」

「今は、説明しちょる暇はないとです。早くしないと、見失っちゃう……」

 振り向かず瑠実が返事をすると、真野も後ろから追いかけて来た。手にはコンビニの袋を下げ、歩く度にカサカサと鳴る音が耳障りだった。そうか。真野さんは夜食を買い出しに行ったのか。ようやく真野が通りにいた理由が飲み込めたが、従いてくるとは。

 従いてくるな! というオーラを背中に発しながら急ぎ足で歩いても、真野には通用しないらしい。後方からカササカと袋の音を立てながら追いかけてくる。瑠実は無視して、そのまま先を急いだ。


to be  continued……

  第五章  偽造見積書

                           

 瑠実が、発注表と計画図面を照らし合わせてみると、鉄筋の径が違っているのに気がついた。数量も違っている。最初は、データ入力間違いか?――と思ったが、そうでもないらしい。
 気づきにくい場所を選び、数量についても、通常よく図面で見かける配筋パターンになっているので、一見、目を通しただけではわからなかった。

(配筋数量を変更した犯人は、センスあるかも……)

 瑠実が感心するのも無理はない。微妙な数値加減のコントロールは、間違いだと知っていても、つい信じてしまいたくなる。見た目もすぐに嘘だとわかる場所は、絶対に変えていなかった。
 特に、梁の鉄筋が変更されると気付きやすいからだろう。柱や、非耐力壁の鉄筋の径やピッチが微妙に変更され、注意していないと、見落とされる場所を選んで、誰かが意図的に数量変更しているようにしか思えない。

(いったい……、誰が、何のために?)

 正式発注する一歩手前で真野が気付いたからよかったものの、このまま気付かず、施工すれば、明らかに違反建物になる。第二の香月建設による偽造計算事件……いいや、この場合、計算書自体はまともなので、違反建築物になるはずだった。偽造計算書疑惑が明らかになってからというもの、香月建設の信用はガタ落ちなのに、違反建築物施工が重なれば、間違いなく香月建設は倒産だ。
 発注書チェックを全て終える頃には、瑠実の中で、真野が発注書偽造の犯人かもしれないという疑問は、すっかり消えていた。むしろ、今の段階で、鉄筋の数量違いに気がついてくれた真野に感謝だ。真野が瑠実を信用しているとすれば、捜査には都合がよい。だが、同時に、戸惑いも感じていた。真野が瑠実を信じているとわかると、とたんに心が揺らぎそうになる。いやいや。今は仕事だ。証拠探しだ。情に流されている場合ではない。瑠実は再びデスクに向かい、データをプリントアウトした。

 最近のオフィスでは、コピーやファックス、プリンター、スキャナーといった個々の機器を使用する場合もあるが、全部が一つの機能を兼ね備える複合機が使用される場合も多い。

 瑠実がバイトしている部署も、デスクから少し離れた位置に、ネットワークで繋がれた複合機があった。瑠実がプリントアウトした発注書を取りに行くと、誰かが先にプリントアウトしたらしい。複合機のトレイに、多量の書類が溜まっており、見ると、どうやら瑠実のプリントアウトした発注書に混じっていた。

 瑠実は重なった書類から、必要な発注書を取ろうとして、書類の内容に気がついた。

 先にプリントアウトされた書類は、見積書だった。
 物件名を確認すると、瑠実が真野のパソコンから持ち帰った見積書と同じ名前だ。最初は真野がプリントアウトしたのかと思った。もし、真野がプリントしたのなら席が後ろなのだ。書類を一緒にもっていってあげよう。なんとなく気になり、書類の表紙と明細を見る。どうやら実行用の見積ではなく、客先に提出用の見積だった。ざっと鉄筋量を見ると、単価は高騰時のままで、数量には見覚えのある一千八十トンの明記があった。

 間違いない。これは、客先に提出用の見積書。つまり……内容からして偽造見積書だ。

  瑠実は周りに誰かいないか確認すると、複合機のトレイに重なった見積を取り上げ、詳細を盗み見た。今まで、建物の見積なんて、ろくに見たことはなかった。鉄筋量だけは、怪しい数量だと先日計算したのでわかっているが、他はどうだかわからない。
 だが、一つでも怪しいと思う数値があると、全部が怪しく見えてくるから不思議だ。パラパラと捲ると、工事項目が目に入った。杭工事、基礎工事、金属建具工事、内装工事、設備工事……。項目ごとの総額が記され、その後に、工事ごとの明細ページが続く。一見、普通の見積書と代わらない気がした。そこで、瑠実の目に、設計料の項目が入った。設計料の項目を見ると、建築確認申請、設計料は別途請求。とある。

 別途請求?

(ふーん。別途で請求する場合もあるのか)

 別途という言葉が、瑠実の中で少し引っかかった。建物を建築しようとする場合、大きく分けて設計、監督、施工込みで同じ会社に依頼する場合と、設計と監理は設計事務所に依頼し、施工は別途とする場合とある。
 香月建設は、社内に設計部署が存在するので、お客から要望のある設計事務所が他にある場合以外は、設計、監理、施工込みで工事を請け負うのが一般的だと瑠実は勝手に思っていた。設計料は、施工金額の歩合で請求する。設計者が有名な建築家だった場合、歩合の数値が一気に跳ね上がったはず……。学生である瑠実には、具体的な歩合の数値まではわからないが。まあ、ケーズ・バイ・ケースってことか……? 
 歩合の件は、後で真野に聞いてみよう。瑠実は、さっと周辺を見渡し、見積書を複合機の自動コピーに掛けた。ここで盗み見ただけでは、よくわからなかった。見積書をコピーして家に持ち帰り、ゆっくり後で分析すれば理解できるかもしれない。よし。ならば自分用にコピーしてしまえ!  瑠実は周りに人がいないのを確認すると、自分用にコピーした。複合機は低い機械音を立てながら、瞬時に用紙を飲み込んでいく。
 あっという間に控えの見積コピーが一部、完成した。これで、よし。瑠実は何食わぬ顔をして、見積を元の通りトレイに戻した。

 書類の束を、複合機のテーブルの上でトントンと揃えながら、瑠実は考えを巡らせた。いったい、誰が見積を作成したのだろう。
 もしかして、発注書の犯人と同じだったりして。まさか、真野じゃないよね? 発注書の犯人は、真野ではなさそうだが、見積の件はわからない。そもそも、発注書の偽造に気付いたのだから、客用の見積に偽造があったら、真野なら気付くだろう。
 誰が見積書を取りに来るのか、見届けてみようか。見積書を取りに来た者が、作成者の可能性はある。


to be  continued……





「もしかして、犯人は俺かと思った?」

 ぴしゃりと言われると、ぐうの音も出なかった。瑠実は弾かれたように真野を見たが、口角を微かに上げただけだった。口元は笑っているが、目は笑っていない。

(もしかして、私は試されている?)

 一瞬、瑠実は証拠探しをしているのがバレたのかと思った。でも、まだ何もしていないし、何も言っていない。もしかしたら、真野は瑠実を介して誰かを探っているようにも見える。例えば、瑠実が急にバイトに来るようになった理由を知りたがっている、とか。ひやりと肝が冷えたが、瑠実は得意の演技でにっこりと笑った。

「何をゆうかと思ったら。真野さんは犯人じゃないとでしょ?」

「なんでそう思う?」

 瑠実は視線を真野に差し向け、自分から逸らそうとはしなかった。真野の瞳は、瑠実を確実に捕え、絡みつく。人間は大概、嘘をつくとき視線が定まらない。以前、嘘をつく時は、自然と左側を見ると本で読んだことがある。真野はどうだろう。ここで視線を逸らすようなら本当に犯人かもしれない。息を詰めがなら真野を観察したが、一度も目を逸らさなかった。動揺してはダメだ。相手の思うツボ。瑠実は笑みを称えたが、顔が引き攣っていたかもしれない。

「だって、本当に犯人なら、嘘でも不利になる発言はせんと思うし……」

 その場凌ぎで返答したが、半分は本意だった。これは賭けと言ってもいい。古賀は真野が真犯人だと言っていた。確かに真野は、大いに怪しい。けれど、真野の行動を見ていると、犯行とは逆の態度だ。これは演技なのか、真意なのか。一瞬のうちに瑠実の頭の中では、真野の受け答えに対する一人ディスカッションが続いていた。

「実は、事件の建物の分は、俺が発注表の最終チェックした後に、数量を変えている者がいたんだ」

「え?」

 瑠実は、驚いた。

(では、やはり犯人は、真野ではないのか? いいや、もしかしたら真野は、何も知らない私に、嘘を吹き込もうとしているのかもしれない)

 半信半疑なまま、真野の話に聞き入った。

「鉄筋量が減らされちょったんだ。ちょうど鉄の値段が高騰しちょる時だったから、金額にすると、かなり差が出ちょった。犯人は発注表を偽造したんだ。予算上では数量を水増しし、実際、現場で納品させる鉄筋量を減らした。……鉄筋代金を浮かせるためやろうね」

 瑠実にも心当たりがあった。黙って持ち帰ったデータと照らし合わせると、事件のあった建物の計画があった時とピタリと時期が当て嵌った。それに、誰かが鉄筋量の発注量を改竄している形跡も見付けていた。

 真野がまんざら嘘を言っているようにも思えなくなった。それに、岩切鉄工所の吉田から頼まれた伝言と照らし合わせると、余計にだ。だとすると、発注書偽造の犯人は、真野ではない。他に真犯人がいることになる。

「じゃあ、いったい誰が発注表を偽造して、変更を掛けたんですか?」

 瑠実は食って懸かる勢いで質問したが、真野はいたってクールだった。

「おそらく、変更を掛けたのは、計算を偽造した犯人と同じやろうね」

 真野は小声だったけれど、はっきりした口調で述べた。小声で低音な分、怒りが籠もっている気がする。

(では、本当に真犯人は、真野ではないのか?)

 真野の答は、瑠実の予想したものではなかった。呆気に取られていると、真野は瑠実の思考を先読みしたように「本当は俺が発注書を偽造しちょると思っちょったっちゃろ?」と余裕の顔だ。先程は背伸びして「真野さんは犯人ではない」と、言ったものの、本意ではなかった。バレてしまっては仕方がない。だが、真野が偽造発注書の犯人でなくても、偽造計算書の犯人でない証拠は、まだ明らかになっていない。ここは真野と手を組んで、偽造発注書の犯人を見つけるべきか。瞬時に瑠実は、この先どう捜査を進めてよいのか考えた。

「なら、犯人は、この会社の中にいる、ということですか?」

 真野は真面目な顔をして頷いた。瑠実の中で、真野が真犯人でないかもしれないという考えが、一気に高まる。だが、まだダメだ。簡単に信用はできない。もっと証拠を集めなければ。真犯人が別にいるのならば、なおさらだ。瑠実は落ち着きたくて、深呼吸をした。新鮮な空気を頭の天辺まで送り込むと、真野に言われた残業の理由を思い出した。

「そう言えば、発注表のチェックを私に頼んだのは、もしかして……」

「ああ。判ってきた? だから、このチェックは社員には断固やらせたくない。俺が調べているのがバレるからね」

 ようやく瑠実は、仕事を頼まれたのに、まだ一つも終えていないのに気がついた。

「……とにかく、数量をチェックしてみます」

 真野に了解の旨を伝えると、真野もようやく自分のデスクに戻った。

 
to be  continued……



 7

 なぜ真野は嬉しそうにするのだろう。計算書が正しいと言われたからだろうか。だが、吉田はその前に、鉄筋量についても言っていた気がする。確か、真野の予想したとおりだと。瑠実は先日から手伝わされている見積の修正と、再び家に持ち帰ったデータを思い出していた。

(真野の予想どおり……か。)

 確かに、数量は大幅に違っていた。計算書と見比べたわけではないけれど、どうやら誰かが数値をいじった形跡があるのは明らかだった。もしかして、偽造発注書は真野じゃないのかもしれない――。ふと、疑問がよぎった。

 もしも、偽造計算書の犯人と、偽造発注書の犯人は別だったとしたら――。真野が両方の犯行に関わっていたとすると、数量の修正を瑠実に指図するだろうか。業者に確認を頼むだろうか。真野のやっている行動は、まるで犯人とは逆の行動に見えた。言うなれば、犯人が偽造発注書のとおり発注するのを、確認し、阻止しているような……。

「どうかしたと?」

 真野に言われて、瑠実は我に返った。

「いいえ……。なんでもないです」

「なら、悪いっちゃけど、これもお願いできる?」

 真野は用意していたA2サイズの分厚い図面の製本を瑠実に手渡した。図面を開くと、白焼きコピーだった。

(なんだ。コピーなのか)

 瑠実は少しがっかりした。今はコピー技術が発達して、多量に部数が必要な時は、安価でコピーできる。昔は青焼き図面だったんだけどな――と考えて、ふと隆司を思い出していた。隆司もよく、家に製本したばかりの図面を持ち帰っていた。昔は図面のコピーは、青焼き図面がほとんどだった。隆司が図面を広げて見ているところに、幼い瑠実も割って入り、膝に抱かれて眺めていたものだった。製本されたばかりの青焼き図面は、独特の薬品の匂いがした。鼻にツンと来る酸っぱいような香り。決してよい匂いだと思わないけれど、今となっては、青焼きの匂いが隆司の思い出だ。目の前の図面が、青焼きの製本でないことが、少し残念に思えた。まさか製本一つで、隆司を思い出すなんて……。

 瑠実は一刻も早く隆司のためにも、犯人を突き止めなければと思う。忘れていたわけではないけれど、残業続きで疲労した瑠実の思考を奮い立たせるには、有り余るほどだった。

「瑠実さん?」

 愛おしそうに製本図面を眺めていた瑠実に、真野が声を掛けた。はっと我に返り、瑠実は慌てて返事をした。

「はい、なんでも言いつけて下さい。……ところで、この図面は?」

「着工する物件の構造図。現在、偽造事件の件で工事はストップしちょるんじゃけど、いつでも工事に入れるよう、準備だけはしとかんとね。構造図の読み方はわかるよね?」

「ええ、たぶん」

 真野は製本を、瑠実のデスクに広げると「一応、説明しておく」と、ページを捲った。

「ここの後ろのほうに、部材表と配筋図があるから。Gは大梁、Bは小梁。Cは柱を示す。一覧表になっちょるの配筋断面図を見て、鉄骨の太さと数が発注表と整合っているか最終確認して。もし、違ごうちょれば、附箋とマーカーで印をつける。できるよね?」

 真野は自分の抽斗から一冊のファイルを出し、発注表のページを開いた。見ると発注表の宛先には、先程の岩切鉄工所の名前があった。真野は最終確認と言っていた。要するに設計した図面と、発注する数量が合っているかの最終確認だろう。通常は当たり前の作業だろうが、瑠実が持ち帰った資料の数量とは、違う記憶がある。ふと、瑠実の中で違和感が募った。

「あの……この作業は、毎回、真野さんがやっちょるとですか?」

 恐る恐る、瑠実は尋ねてみた。

「担当者が違うから、いつでも俺ってわけじゃないけど。俺が担当の物件は、もちろんやるよ。あとは……黒木と加藤あたりが多いかな。黒木と加藤は覚えちょる?」

 瑠実は以前、呑みに誘われたのを思い出し、「はい」と答えた。

「黒木も……アイツも俺と同じで、副社長にお世話になっているかなぁ」

 真野は瞳を軽く天を仰ぐように泳がせ、名前を挙げた人物を思い出しているようだ。瑠実の頭の中には、二人の会社員の姿が頭に浮かんだ。もしかして、偽造発注書を作成する機会があるのは、真野以外にいるのかもしれない。例えば、黒木か加藤とか。

 発注書を改竄するには、理由があると思う。例えばお金だ。そう言えば黒木と加藤も、お金に困っている話を藤原たちから聞いたばかりだった。黒木は女性が大好きで、身を滅ぼすくらい貢ぐ癖がある。加藤はギャンブル好きで、競馬にハマっていると。黒木、加藤に、真野。発注書を確認できる人物として、瑠実の脳裏に三人がインプットされた。

 作業していくうちに、やはり発注書の最終確認ができる人間が、偽造発注書を作った可能性が高いとわかる。瑠実は真野が自分のデスクに座り、次の作業に取り掛かったのを見計らって、思い切って質問した。

「たとえば、事件の発注表の最終確認は、誰がやっとですか?」

 瑠実の言葉に、真野は急に椅子をくるりと向き直ると「しっ!」と口元に人差し指を当てた。双眸を忙しなく左右に動かし、周囲を確認する。 

(なに? なに? なんで、そんなに周りを気にするの?)

 真野の様子に、一瞬、呆気に取られた。瑠実が質問した内容は、何か確信に触れるものだったと予感した。やはり、偽造発注書の最終確認は真野がやっていたからだろう。間違いない。真野が数量をごまかしていたから、こんなに慌てるのだ。瑠実はアルバイトとはいえ、真野の下で仕事をするのが、急に億劫になった。わざわざ悪行に手を貸す真似は、したくない。ようやく周りが誰も注意していないと判断した真野は、独り言のように呟いた。「……発注表をチェックしたのは、俺なんだ」

 やっぱり!

 予想通りの返答だった。だが、なにか少しおかしい。真野が本当に犯人なら、こんなにあっさりと自分にとって不利な発言を認めるだろうか。普通なら、他の言い訳をして、不利になる発言を避けるところだろう。瑠実の思考を読んだように、真野は小声で話を続けた。

to be  continued……






 いつの間にか女子社員とうち解けた瑠実だったが、残業を手伝うほど、お人好しの人たちではないようだ。定時のチャイムが鳴ると、そそくさと帰宅していた。瑠実は今夜も残業かと思うと、少しだけ憂鬱になる。就業時間も過ぎ、人手が疎らになった頃、電話が鳴った。辺りを見回すが、真野はいなかった。他の社員も何人かいるが、就業時間も過ぎているので、そのうち留守電話に切り替わるだろうと思っているのか、誰も電話を取らない。

 瑠実も周りを見習い、そのまま放置しようとしていた。ところが、電話は一向に留守電に切り替わらない。あまりに鳴り続くので、瑠実は気が引けて、おそるおそる受話器を取っていた。

「お待たせして申し訳ありません。香月建設でございます」

 電話に出たのは初めてだったが、三日も同じ職場にバイトに来ていれば、社交辞令の挨拶程度の受け答えはどうにかできる。電話を取るまで時間が経ったことに一度、詫びを入れ、できるだけ丁寧に応対すると、電話の相手は、気にしていないようだった。心の中でほっとしながら、受け答えする。

「どうも。お世話になっちょる、岩切鉄工所の吉田です。真野さんは、おられますか?」

 嗄れた年配の男の声だった。電話を受けたのが、年配の男性というだけで、緊張する。動揺しながら瑠実は「少々お待ち下さい」と周囲を見回す。真野はまだ席を外しているらしく、見当たらなかった。周りに残っている社員も、早く帰宅したいのか、瑠実が困っている様子がわかっていても、誰も声を掛けてはくれなかった。どうしよう。電話を取ったのはよいが、詳しいことはわからない。とりあえず、真野は不在だと伝え、後日、改めて真野から電話するよう伝えればいいか。と、頭の中で整理していると、瑠実の動揺が電話越しに伝わったのか、吉田と名乗った男は、ガハハと電話口で高らかに笑っていた。

「あんた、新人さんね?」

「は、はい。そうです。あ、いえ、新人ではなく、バイトの者です」

「そんげ緊張せんでいいが。誰も取って食おうなんてしちょらんから」

 方言でいわれると、少しだけ安堵する。一度ふーっと深呼吸をし、瑠実は粗相のないように――と、気を配りながら、口を開いた。

「すいません。あの……真野は不在ですので、後ほど真野からお電話するように……」

 瑠実がしどろもどろになりながら説明を始めると、吉田は最後まで瑠実の言葉を聞いていないのか、瑠実の言葉に被せながら、自分の用件を一方的に伝えた。

「ああ、電話はいいが。その代わり、真野さんに伝えちょってくれる?」

 最初は形式張った口調だった吉田も、瑠実がバイトの者だとわかると、急に砕けた口調になった。

「例の鉄筋量やっちゃけど……やっぱり真野さんが予測したとおりやったわ。ばってん、不足しちょる鉄筋は、計算書通りに見積するからと、ゆうちょって」

「はぁ……」

 ニュアンスはわかった。だが、あまりに方言まじりの言葉に、どう真野に伝えてよいものか、メモをしながら瑠実は悩んでいた。瑠実の悩みを見越したのか、吉田は「説明が面倒やったら、真野さんの計算書が正しいと伝えたらいいわ」と、助け船を出してくれた。

「わかりました」

「あ、それから、これは、ちゃんと伝えてな」

 なんだろう。急に前置きをすると、一拍を置いて、受話器の向こうで息を呑むのがわかる。吉田は改まった口調で言葉を続けた。

「香月建設も今は大変やろうけど、俺は副社長を信じちょるから。それから、真野にありがとうと、言うちょって」

 吉田は隆司への激励の言葉を述べると、一方的に電話を切った。
 電話は切れたというのに、瑠実は受話器をしばらく持ったままだった。

(お父さんを信じてくれている人がいた――)

 ふと、涙が出そうなくらい、嬉しかった。ちゃんと見ている人はいるのだ。我慢している分、たまに優しくされると崩れそうになる。瑠実は涙がこぼれる寸前、感激して弛みそうになる気持ちに慌てて蓋をした。今は、泣いている場合じゃない。信じてくれている人がいるからには、絶対、真犯人を見つけなくては。心を強く持ち、自分に言い聞かせる。瑠実は、電話を取った内容を、正しく真野に伝えるべく、頭の中で反芻した。

 少し時間が経って、電話の内容を考えると、おかしい気もした。吉田という男は、真野に対して、感謝しているようだった。

(なんで感謝されるんだ? 真野が真犯人ではないのか?)

 これは、いったいどういうことだろう。どうも腑に落ちない。古賀には、真野が怪しいと言われ、勘ぐりを入れていた。なのに、瑠実が実際に会社で見ている真野は、仕事人間で、信頼を得ている。端から見ると、真面目そのもので、どう考えても、偽造計算書を作成するような輩には見えない。証拠の計算書を探す際、真野の机の中も見た。きっちり整理されている上、使い込まれた建築基準法や解説書を見ると、それだけでも真面目な仕事ぶりがわかる。しかし、一方で、真野のパソコンから持ち帰ったデータから、偽造した発注書と思わせる書類も発見されている。表面上は真面目に仕事していても、それはカモフラージュかもしれない。感謝される真野と、計算書偽造をしているかもしれない真野。どちらが本当の真野だろう。

「何かあったと?」

 声のする方向を見ると、席を外していた真野が戻っていた。瑠実はまだ受話器を持ったままだ。弾かれるように驚いて、電話があったことを伝えた。

「いえ……何もありません。それより、今、岩切鉄工所の吉田様から、お電話がありました」

「吉田のおっさんから? もしかして、電話を取ったと?」

 電話を取らないほうがよかったのだろうか。親切で出たつもりだったが、瑠実は急に余計なことを仕出かしたかと、不安になった。だが、いずれにせよ、真野は不在だったので、電話の取り継ぎはできなかったのだから仕方がないだろう。

「勝手に電話に出て……すいません」

 瑠実は受話器を元に置き、謝ると、真野は驚いた顔をしていた。

「違う違う。別に責めちょるわけじゃないと。電話は、出てくれたほうが助かるっちゃから」

 大袈裟に目の前で手を左右に振った。別に瑠実を説教するわけではないようだ。しかし、電話を取って助かるとはどういう意味だろう。もし、真野が偽造計算書の真犯人だとしたら、瑠実が電話を取ると、都合が悪くなると考えるのが普通だろう。余計な情報を瑠実が知ってしまうのを恐れるはずだ。だが、真野は反対のことを言う。瑠実には真野の真意が掴めない。顔色を窺っていると、真野は急に辺りを見回した。特に誰も真野と瑠実を気にしていないようだ。

 よかった――とばかり、納得すると、小声で話し始めた。

「吉田のおっさん、何かゆうちょらんかった? 見積の数量の件とか」

 真野に言われて、瑠実は言付けを頼まれていたのを思い出した。

「ええ。言付けを頼まれました。鉄筋量は、真野さんの計算書が正しいと。それから、ありがとう――と、礼を言うように言われました」

「やっぱりな。礼を言うなら、吉田のおっさんも、直に俺にいえばいいのに。だいたい、礼だけじゃ済まんやろ」

 真野は瑠実の言付けを聞き終わると、文句を言いながらも、嬉しそうにしていた。



to be  continued……





「香月さんは、モテるやろ?」

 急に梯に質問されて、瑠実は焦った。確かに、容姿のせいか、瑠実の周囲には男子が常に集まっていた。モテる・モテない――の二者択一でいうと、間違いなくモテる部類に入るだろう。自覚はなんとなくあった。だから、否定するのも嫌みかとも思う。 瑠実が悩んでいると、女子社員はぐるりと瑠実の周りを取り囲んだ。

「な、なんですか?」

 しばしの間、沈黙の時間が過ぎる。女子社員は取り囲んだ瑠実に対して、威圧的な態度だ。藤原が先頭に口を開いた。

「実はね、最初、私たちは、香月さんが真野さん狙いじゃと思っちょったとよ」

「私が、ですか?」

 瑠実は驚いた。古賀が真野を指導係としたからだろうか。それとも、瑠実が真野を観察しているからだろうか。いずれにせよ、二人一緒の時間が多いのは否めない。まさか、真野を狙っているように見えたとは。気をつけなくてはいけない。本当は、違う理由があると説明したいが、今は無理だ。三人にどう説明しようかと考えていると、口々に不満を同調する囁きが聞こえた。

「そうそう」「だってねぇ」「しょうがないやろ」

 言葉を濁しながら、三人の女子社員は、それぞれにアイ・コンタクトを送る。

(もしかして、これからイジメられるのか?)

 瑠実はごくりと息をのみ覚悟をしたが、そうではないようだ。高橋がにやりと笑いながら瑠実に近づき、肩に手を掛けた。

「ごめん。ごめん。別に、虐めるつもりはなかとよ。香月さんは、真面目にいいつけられた仕事をしちょるだけじゃもんね。……ただ、香月さんは副社長の娘さんやろ? 私らに比べて、ぜんぜん若いし、美人じゃわ。普通、バイトでも、香月さんみたいな人がおったら、仕事というても、色目を使ってもおかしくないやろう?」

 口にする言葉は、瑠実に対する労いだったが、聞こえてくる内容は、真野への賛辞だった。言われてみれば、そうだ。要するに、周りにいる女子社員から見れば、瑠実が間近にいても靡かなかった真野に、自分たちはまだチャンスがあると思っているらしい。

 見方を変えれば、真野はやはり変人ということにならないか?――と瑠実は思ったが、ここで反論したら、アウェイな立場が尚更目立つだけだ。高橋は、瑠実の肩に乗せた手を、ぽんぽんと叩きながら話を続けた。

「香月さんにその気はなくても、普通の男なら、靡いても、おかしくはないとよ。そこを真野さんは、仕事一筋じゃからねぇ。……まあ、真面目な真野さんらしいという話よ」

 両手を胸の前で組み、満足げな顔だ。

(結局は、みんな真野のファンということか……?)

「……はぁ」

 一応は相槌を打ったものの、意味のわからないまま、曖昧に話を完結されてしまった。意外にも、真野が人気があるのはわかった。とはいえ、興味もない瑠実にとっては、うんざりな内容だ。瑠実はどう反応してよいものか、迷っていたが、特に返事をする必要もなかったらしい。次々に他の女子社員たちが、「なら、まだ私にも望みがあるやろうか?」だとか「やっぱり真野さんは変人じゃないと?」「もしかして、女には興味がないとか……」と、勝手に口走り、きゃあきゃあと楽しそうだ。

(馬鹿らしい……なんて思ったら、ダメなんだろうなぁ)

 おそらく、社会に出たら女子社員だけの時の話題といえば、こんな感じなのかな――と思う。正直、下らないと思う。ああ、そうか。これがいつも母に指摘される性格の部分だと思うが、そうかんじてしまうのだから仕方ない。少し早いけれど、これも社会勉強の一つだと思えば、なんてことはない。もし、これが真野が少しでも瑠実に優しく接するところがあったのなら、きっと女子社員たちの瑠実に対する態度も、違っていたのだろうが。

 結局、瑠実は間接的に真野に助けられたことになるのかもしれない。悔しいけれど、心の中で真野に感謝した瑠実だった。


to be  continued……





「他の方はどうなんですか?」

 聞きたいのは真野の評判だが、そればかりというのもあんまりだろう。瑠実はここぞとばかり、真野以外の社員の評判も聞いてみた。

「そうじゃねぇ……」

 それからしばらくは、他の社員の話も交えて、賑やかになった。さすがに隆司についてあれこれ言うのは、瑠実の前なので躊躇われたのだろう。隆司以外の社員の話題を持ちあげ、感想を述べ合った。女子社員たちは、おのおの社員の特徴と性格をよくは把握しているようで、時には笑いを必死に我慢する場面もあった。○○部長はよくデスクに手鏡を置いて見ているが、実はカツラ着用だという話に始まり、誰がイケメン社員ナンバーワンなのかとか。女子社員の話を総合すると、真野は真面目で厳しい半面、垣間見せる優しい仕草がギャップとなり、イケメン社員ナンバーワンではないけれど、なんと女子社員の人気第一位なのだそうだ。

「そんなに人気なんですか?」

 瑠実が尋ねると、藤原が口を開いた。

「人気だけはね。顔も悪くないでしょ。あとは、加藤と黒木あたりも人気があるとよ。確か、初日に誘われたっちゃろ? 香月さん、断ったらしいけど」

 なんで知っているの? と瑠実は思ったが、よくよく聞いてみると、どうやら本人たちが真野に邪魔された腹いせに言いふらしていたらしい。よほど一緒に飲みたかったようだ。

「加藤は、あの通り爽やかスポーツマン・タイプ。学生の時は、ラクビーをやっちょったらしいし、現場あがりじゃから肉体派やわ。ばってん、加藤は大の競馬好きでね。給料の大半は競馬に賭けちょるって。確か今月も、給料の前借りしたいっていうちょるくらいやから」

「競馬がお好きなんですね……」

 そう言えば、初日に挨拶した時、黒木にチャチャを入れられていた。なるほど……と思い出していると、高橋は更に話を続けた。

「もう一人、香月さんを誘って来たヤツがおったやろ?」

 瑠実はすぐに黒木の顔を思い出した。お洒落に気を使うタイプのようで、女性の扱いに慣れていた記憶がある。

「ええと……黒木さんですよね」

「そうそう。彼も人気の一人ではあるっちゃけど……」

 高橋はちらりと横目で、瑠実を下から上まで見やった。まるで品定めされるようで、落ち着かない。高橋の両脇にいた、梯と藤原も、一緒になって見るものだから、瑠実は三人に対して、何か落ち度や失言があったか? と心配になった。

「な、なにか?」

「ごめん、ごめん。気を悪くしたら、悪かったわ」

 高橋が言うと、藤原が助言した。

「いいや。副社長の娘さんやし、アイツもあからさまには手を出さんと思うけど……。実は見ての通り、黒木は女に手が早いから、気をつけちょってね」

(……ああ。それは、なんとなくわかる気がする)

 瑠実は心の中だけで、肯定した。

 先日、誘ってくれた時も、黒木の態度はよく言えば紳士的だった。悪く言えばキザな態度だともいえるが。瑠実の周囲でも女性に慣れた学生はいたが、所詮、同じ年くらいの男子だ。瑠実に言わせれば頭の中は女の体にしか興味がない者が多くて、相手をする気にもなれない。

 同年代の女の体にしか興味のない輩は、瑠実のほうが一枚上手で、のらりくらりと躱せる。ところが、黒木の場合は、年上の分だけ場数を踏んでいるからだろうか。断る隙を与えなかった。スマートな身のこなしとトークは、会社員よりホストのほうが向いているのでは?――と思ったほどだ。瑠実が曖昧な微笑みを浮かべながら、黙って聞いていると、高橋が先を続けた。

                    

「よく言えば、黒木は女性には優しいちゃけど……」

 なんだか詳しく知っていそうな口ぶりだ。高橋と黒木の間に何かあったのか?

 瑠実は一瞬、勘ぐりそうになったが、黙っておいた。

「一言でいうと、情熱家やっちゃろうね。誰が気になる人がおれば、一直線にすぐに人を好きになる。それがお店で男の人を相手にする相手でもね。ほら、あっちは仕事やろ? それなりに相手すればいいものを、本気で相手して、気がついたら女の子に身ぐるみを剥がれるほど、貢ぐタイプ。いい加減、気付けばいいとにね……。本当は、すぐに誰かを好きになるのは、本当は誰も好きじゃないってことやとに」

 高橋は慣れた手つきで、流し台に並べたマグカップを並べながら、独り言のようにさらりと言ってのけた。瑠実に聞かせようとして言った言葉ではなく、まるでいつも黒木に言いたくて言えない言葉を、頭の中で反芻していて、思わず零れ出た言葉のようだ。

(もしかしたら、高橋さんは……)

 じっと瑠実が高橋を見つめていると、はっと気がついたように我に返った。高橋は瑠実に視線を送ると、少しバツが悪そうに、慌てて元の話題に戻した。

「ええと……黒木の話じゃなくて、真野の話だったよね。とりあえず、女子社員の間では、今のところ、真野さんが一番人気ということやね」

「そうなんですよ。ただ……真野さんもねぇ」

 藤原が横から、ぼそりと呟いた。確かに、真野は決して派手な顔の作りではないが、整っている。背も低くはないし、年齢的にも若い。女子社員も注目を浴びるのも、わからないではない。しかし、一方で「でも、あの通り仕事の鬼やから」だとか「もしかして、仕事にしか興味のない変人なのかも」という意見もあった。 確かに、ここ二、三日の真野の働きぶりは、普通でない気がする。変人だと思われてもしようがないように思えた。

「でも、やっぱり真野さんは、真野さんじゃわ」

 藤原の納得した言い方に、どこか真野に対する信頼が感じられた。

「どういう意味ですか?」

 瑠実が尋ねると、藤原は嬉しそうだ。

「だって、香月さん相手でも、あの調子やろ? 別に虐めちょるわけじゃないっちゃろうけど、あれはどう見ても、香月さんを仕事の相手としか見ちょらんやろ?」

「……はぁ」

 瑠実は意味がわからなかった。バイトとはいえ、仕事をしに会社に来ているのだから、仕事相手にしか見ないのは当たり前だ。ところが、ここにいる女子社員たちは、少なからず、それだけだとは思っていないようなのだ。もっというなら、何かを期待している。

「仕事をしに来ちょるっちゃから……そうじゃなかとですか?」

 おそるおそる、瑠実が意見をすると、三人とも一瞬、目を見開いて瑠実を見た。じっと下から上まで瑠実を見る。少し居心地が悪くなって、瑠実は身構えた。

to be  continued……




 仕事前、昼休み、午後と、お茶の準備を手伝う瑠実を気の毒に思ったのか、三時のお茶を準備していると、一人の女子社員に呼び止められた。

「香月さん、大丈夫ね? 真野さん、仕事の鬼やから。バイトでも手加減せんやろ?」

 心配顔で話し掛けてくれた女子社員は、確か一番年上の事務職だ。名前を高橋と言っていた。事務職分野のリーダー的存在――つまりはお局様らしく、仕事もデキるが、仕事以上に社員の人事に詳しそうだった。同じフロアでも何度か名前を呼ばれ、仕事をいいつけられるのを耳にした。白いブラウスに、ピンク色のベストとスカート。サイズ的に制服が少し窮屈そうだが、本人は気にしていないらしい。体型だけでなく、年齢的にもそろそろピンクの制服は厳しいように見えたが、制服なので本人に似合わなくても身につけなければならないのが気の毒だ。瑠実は高橋に声をかけられたのを、緊張した面持ちで聞いていたが、言われた内容からすると、瑠実に同情している意見に聞こえた。これはチャンスかもしれない。味方につけておけば、証拠も見つけやすくなる。瑠実はわざと困ったような顔をし、質問に肯定しつつも、「でも、仕事ですから」と健気なところを演じて見せた。

「エラいっちゃね。さすが、副社長の娘さんやわ」

 高橋は人情深い笑みを見せ、瑠実に「がんばりないよ」と応援をしてくれた。少し豊麗線の浮き出た口元は、お世辞を言っているようには見えない。経験の有り無しにかかわらず、真面目に仕事に取り組む姿は、好意的に映るはずだ。計算しつつ、瑠実は笑顔で答えた。

「はい、頑張ります」

 瑠実は高橋の顔色を窺うと、思った通り、大きく頷いていた。おそらく高橋は瑠実を健気な頑張る子に見えただろう。

「そういえば副社長は、どんげなっちょると?」

 来た来た。女子社員は特に噂話が大好きだ。隆司の話は、会社にいればいつか誰かに聞かれるだろうと、瑠実はあらかじめ返事を用意していた。頭の中でさっと考えを巡らす。

 この場合は、こっちだな。と、とっさに整理し、瑠実は得意の演技を発揮した。急に黙りこり、じっと一点を見つめ、思い詰めた顔をした。しばらくじっとしていると、頬に一筋涙がこぼれる。何も言わない瑠実の様子に慌てた高橋は、少なからず自分が泣かせたかもしれないと動揺したようだ。オロオロする様子が、俯いた瑠実にもよくわかる。少しやりすぎたかな? と思ったが、今更もう遅い。

             

 ちょうど、その時だった。給湯室に別の女子社員が二人、顔を出した。瑠実の様子を察したようで、「どうしたの?」と心配顔だ。

「いえ……何も」

 いたいけな表情を作って瑠実が返事をすると、二人の女子社員は、さっと高橋を見た。端から見れば、瑠実が意地悪されたように見えただろう。

「すいません。違うんです。私が勝手に……。父の件でご迷惑お掛けします」

 瑠実が高橋を庇うと、二人の女子社員は顔を見合わせた。なんとなく隆司の話題は禁句だと察したのだろう。それきり、瑠実に隆司の話を瑠実に尋ねることはしなかった。

(やった。涙で乗り切った!)

 女同士の修羅場の場合、自分がいかに可哀想に見せるかで、周りの者を味方につけることをができるか本能的に知っている。これでおそらく後で来た二人の女子社員は少なくとも瑠実の味方に付いてくれるだろう。ずるいと思われるかもしれないが、情に訴えても使わない手はない。瑠実の心の中では、ガッツポーズをとりたいほどの気分だったが、ここは我慢して控えておく。

 しばらく沈黙が続きそうだったが、いつまでも湿った空気のままでは、気まずい。瑠実は気を遣ったフリをし、隆司の逮捕で悲しみを振り払うかのように「真野さんなんですけど……」とまだ少し涙声の残るか細い声で話を振った。

「ああ、だいぶ扱き使われちょるね」

 二人組の女子社員は、ようやく今の状況を突破する切っ掛けを掴んだと思ったようだ。勝手に話し始め、にわかに真野の話題で賑わいはじめた。

 後で加わった女子社員のうち、一人は瑠実より少し年上ぐらい。中肉中背で、色は白いが、雀斑がチャーミングな女子社員だ。首から下げた社員票には梯と名前があった。珍しい名前だ。ネームプレートにカナが振ってあったので、ようやく読めた。もう一人の女子社員は、藤原と言った。梯よりも少し年上なのだろう。会話のやりとりで梯が藤原に対して敬語を使っているので、判断がついた。藤原は瑠実と身長が同じくらいあるのに、幅は二倍ほどの大きさだ。狭い給湯室にいると、余計に狭く感じたが、気にしない振りをした。

 梯と藤原も話に加わり、更に盛り上がった。こうなったら、あとは時間の問題だ。瑠実は、さりげなく真野について尋ねてみた。

「真野さんって、厳しい方なんですね」

 疲れた顔をし、少し傷ついたように言い放つと、瑠実の言葉に拍車が掛かったのか、食いついて来た。女子社員たちは、待ってました! とばかり、口々に真野の噂を始める。流石、女子社員。よく見ている。あくまで職場での付き合いしかないけど……と前置きをするものの、おおむね、真面目、仕事のデキる男の意見が大半だ。なんだ。見たままじゃないか――と瑠実は思った。だが、そこは嫁入り前の女子社員である。

「でも、たまに見せる笑顔がいいよねぇ」

「なんでもお茶に詳しいみたいよ」

「仕事には厳しいけど、優しいところもあるし」

 やっぱり。真野は仕事に関しては真面目なようだ。それに加えて追記することも多い意見があるが、なんだかんだと、みんな真野のことは褒めている。他の人から見た真野の印象は、瑠実と大して違わなかった。


to be  continued……

 3

 翌朝、瑠実は、いつもより早く自宅を出た。職場のフロアに出向くと、すでに真野が出社してきていた。時計を見ると、まだ始業時間の一時間も前である。なんで、こんなに朝早いの? 見方によれば、仕事人間ともとれる。だが、逆読みすると、証拠の見張りとも考えられる。瑠実は真野に出し抜かれた気がして悔しかったが、笑顔を作り、挨拶をした。

「おはようございます」

「おはよう。今朝は早いっちゃね」

 真野は夕べも瑠実より遅く残業をし、今日も早朝から仕事をしている。こんなに長く会社にいられると、真野の隙をつき、証拠を集めるのは、至難の業に思えた。それでも、ここで諦めるわけにはいかない。瑠実には、隆司を助けるため、証拠を探す必要があるのだから。

 それに、永遠にバイトできるわけではない。瑠実が真野に連れられ、北九州に戻ってきたのは、ちょうど学年末休暇。いわゆる春休みに入ったばかりだった。実家で虎之助の遺産引き継ぎの件も、今は全て芳美に任せている。できることなら、薫がショートステイしている間に証拠を見つけ出すのが理想なのだ。少しでも早く、証拠を見つけたい。

 それにしても真野は、いつ寝ているのだろう。連日遅くまで残業をし、早朝から仕事なんて、よほど仕事が好きなのだろうか。それとも、朝、早いのは今日だけだろうか?

 真野が毎日、何時から出社しているのか気になり、掃除をする振りをして、瑠実は真野のタイムカードを盗み見た。

 予測通り、真野のタイムカードは毎日、今朝と同じ時間帯にコードが押されてあった。特別、今朝だけが出社するのが早いわけではないようだ。

(もしかして、真野は仕事大好き人間? 同僚と呑みに行ったり、彼女とデートはしないのだろうか)

 真野のプライベートには興味はないが、生活感を感じさせないところは、瑠実から見れば少し人間離れして見えた。真野は、ただの人付き合いの嫌いな人なのかもしれない。

 瑠実はその後も、真野に関する観察を怠らなかった。電話がかかってくる客先や、真野が電話を掛ける相手も、わかる限りメモをした。幸い、真野は瑠実の後ろの席である。瑠実も耳はよいほうだ。仕事をしつつも、真野が電話をしている時は、耳は後ろの席に集中させ、内容も、できる限り聞いていた。真野に任される仕事がある時は、理解できる内容でも、さりげなく真野の席に寄り、質問をする。説明されている時は、真野の広げている資料や、パソコンの液晶画面の端にあるファイル名をチェックするなど、注意して覚えた。

 だが、残念なことに、証拠のヒントになるものは、何も見つからなかった。段々自分でも焦るのがわかる。だが、注意深く真野を観察していても、叩いて出るような埃は残念ながら何も出なかった。瑠実の努力も、周りの女子社員には、端から見れば、真野に扱き使われていると思ったのかもしれない。真野が瑠実に仕事の指示をしている時には、わかっていても遠巻きに見ている空気を感じていた。


to be  continued……