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一期一会

本も人の出会いも一期一会。時々読者、時々物書き。好きな本やコミック感想を中心に、日常のつれづれと共につぶやいていきます。




 瑠実は引き続き、香月建設に通っていた。真野のパソコンから内緒で一部データをコピーして持ち帰り、検証してみたが、疑惑の発注書はあったけれど、目的の偽造計算書の証拠はなかった。古賀に言われた偽造計算書の元データが見つからなければ、疑惑の発注書など、ただの入力ミスの書類にしかならない。ただの入力ミスなのか、故意に入力したのかは、確かめたいところだ。確かめるには、もう少し調べてみる必要がある。瑠実は表面上は、真野の信頼を得られるように、真面目に仕事をこなした。信用されれば、もう少し情報が手に入りやすくなるかもしれない。

「瑠実さん、今日も残業を頼める?」

 ちょうど終業チャイムの鳴る頃、真野が瑠実に尋ねた。瑠実がバイトに来るようになって、今日で三日目。毎日ずっと残業続きだ。流石に初日のように、二十二時過ぎまで会社に残ることはない。けれど、帰宅すると慣れないバイトと、証拠探しに気を使うせいか、クタクタに疲れている。

(今日あたりは、早く帰って、ゆっくりお風呂に浸かりたい……)

 まるで親爺みたいだな、と思いつつ、残業も考えようによっては、証拠探しのチャンスだ。先日のように、誰もフロアにいなくなる機会があれば、証拠探しも楽になる。瑠実は早く帰宅したい気持ちに無理矢理どうにか蓋をして、優等生な返事をした。

「もちろん、いいですよ」

 サービスで笑顔もつけてみたが、真野には不必要だったらしく、無表情で「なら、頼むわ」と、ただの連絡事項と返事で終わってしまった。瑠実がバイトに入ってからというもの、連日決まって残業をするものだから、いつの間にか仕事帰りに飲みに誘われることもなくなっていた。本当は、飲みに行く機会があれば、同僚から見た真野の情報も仕入れたいところだったが、残念ながら機会がない。代わりに、瑠実は気を利かせて給湯室にちょくちょく顔を出し、先輩の女子社員と一緒に、上司のお茶を淹れながら、真野の様子をさりげなく聞いて回った。

 けれど、女子社員の多くは、瑠実に対して冷たい態度だった。もしかして、初日に男子社員に囲まれていたのを、悪く思われたのだろうか。ゆわるゆ僻みというヤツかもしれない。今まで、意図しないところで異性の注目を浴び、結果、同性に嫌われた経験のある瑠実には、思い当たる節があった。やたらと尋ねて回らないほうがよいかもしれない。こちらはそんなつもりではないのに、悪意を持ってみれば、瑠実が男子社員に媚びていると思われるかも知れない。慎みある態度が望ましいだろう。けれど、かといって、ただ証拠集めをするといっても、限度がある。少しでも早く証拠なり、証言なりを揃えるには、現場の人間に聞くのが一番だ。味方は、少ないより多いほうがいいに決まっている。ならば同性に好かれる行動をとれば、話してくれるのではないか。瑠実は女子社員に好かれるよう、努力しようと考えた。

 一日中ずっと職場を見ていると、共通通路の掃除の小母さんや、宅配便の小父さんなど、業者の出入りも少しずつだが判るようになってきた。こうなったら、外堀から埋めていくのも一つの方法だろう。明日は朝早く出て、様子を見よう。少しは他の社員に馴染めるかもしれないし、チャンスがあれば、掃除をする振りをし、証拠探しもできるかもしれない。


to be  continued……
1

 瑠実が会社を出たのは、二十二時を過ぎたところだった。真野は、まだ会社に残っていた。タクシーで帰宅してもいいと言われたが、まだバスも走っている時間だし、無理なら母に迎えに来て貰いますから。と、断った。一刻でも早く、家に戻りUSBメモリの中身をチェックしたい。瑠実は逸る気持ちを抑えつつ、自宅に戻ると、すぐに隆司の使っていたパソコンの電源を入れた。

 ファイルの中身は、見積やCADデータと発注書だった。データが存在するにもかかわらず、そのうちのいくつかは、隆司のパソコンで拡張子を読み込めるソフトがインストールされておらず、開けないものもあった。それでも、大半は見ることができた。 調べていくうちに、不可解な点がいくつもあった。特に単価と数量だ。瑠実は残業中にかかってきた電話を思い出した。

(留守電に入っていた鉄筋量と鉄骨の量の件は、どういう意味だろう……)

 そもそも、学生である瑠実がわからない点があるのは仕方ないにしても、疑問に思う点が多すぎる。まずは見積書の日付によって、鉄筋の単価が大幅に違って事実に気がついた。

(鉄って、時期によって、こんなに値段が違うものなの?)

 ドルや為替の値段さえ気にしたことがないのに、鉄の値段など、気にも留めないどころか、値段を調べるなど、発想もしなかった。学生である瑠実の生活からは仕方ないが。

 瑠実はネットに繋ぐと、鉄材の値段を調べ始めた。すぐに検索に懸かり、鉄材取引の価格表に辿り着いた。

 よく見ると、ある時期から、じわりじわりと鉄材の価格が高騰していた。最低価格は平成十二年の一月で一トン当たり約二万六千円。瑠実が他で検索して見つけた価格表では、平成十九年一月で、一トン当たり約七万七千円に上昇している。七年間で一トン当たり約五万円も値が吊り上がっていた。

 え? 一トンにつき五万円も?

 驚いた瑠実だったが、表を更に見ると、これだけではなかった。更に鉄の値上がりが続き、平成二十年の六月のピーク時には一トン当たり十四万円近く鉄の価格が高騰していた。

 最低価格の平成十二年から平成二十年のピーク時を比べると、一トン当たり十一万四千円もアップ? なんと五・三倍も価格高騰しているとは。

(こんな暴騰が、世の中、許されるの?)

 瑠実は驚きを通り越して、腹立たしさえ感じていた。
 今は、いくらだ? 気になって価格表を睨むと、現在は一トン当たり七万七千円前後。平成十九年あたりの価格に落ち着いていた。しかし、なぜ、こんなに鉄の値段がこれほどまでに短時間で変動したのだろう。

(これって、もしかして……)

 瑠実は何年か前に、新聞やニュースで、鉄筋の単価が上昇しているのが話題になっていたのを思い出した。確か、ドバイの建築ラッシュや中国でのオリンピック、急激な好景気で、建物の新築着工数が大幅に増え、世界の鉄材がドバイや中国に流れ絶対数が不足。需要と供給の関係から価格上昇になったと。留守番電話では、三倍の鉄筋と鉄骨量だと言っていた。単価上昇に加え、設計量を一とした場合の三倍の量が使用される見積と、設計量の八割に減らされた見積の差はいったいいくらなのだろう。構造について明るくない瑠実でも、相当な金額の差になると想像がついだ。普通、建物の鉄筋量は、建物用途、規模、構造によって違ってくる。同じ鉄筋コンクリート造でも、建物意匠によっても、かなり違う。大学では、『鉄筋コンクリート構造計算基準』や『鉄筋コンクリート造配筋指針』『鋼構造設計基準』の分厚い専門書を引き、用途や規模で鉄筋量をおおまかに知ることができる――とは教わった。だが、意匠専門の瑠実が理解できるのは、それくらいだ。

 ざっと見積書を見ると、鉄筋コンクリート造の集合住宅の六階建て(壁式工法)五千平方メートル程度の規模で、使用する鉄筋量総量が最初の発注書では一千八十トンと記されてあった。瑠実には、一千八十トンが多いのか少ないのかわからない。再びネット検索をし、建物ごとの必要鉄筋量が載っているページを見ると、首尾良く見つかった。

 鉄筋コンクリート造のマンションの場合、コンクリート一立方メートルにつき使用する鉄筋の量は〇・一〇七トンとあった。コンクリートの使用量は、延べ床面積一平方メートル当たり〇・六五立方メートル。これを先程の見積にあった鉄筋コンクリート造の集合住宅の六階建て(壁式工法)五千平方メートルに当てはめると―――。

 電卓を叩き、計算する。0.655,000=3,250立方メートルのコンクリートが必要だ。

 鉄筋コンクリート造なので、もちろん、鉄筋も入る。一立方メートル当たり、必要鉄筋量は〇・一〇七トンなので、これを計算。3,250x0.107=347.75トン。つまり、非常にざっくりとした計算だが、必要鉄筋量は約三百五十トンになる。

 なに?

 発注書の数量は一千八十トン。瑠実が計算すると、約三百五十トン。その差が三倍もするではないか。まさか……。これを金額に計算すると、どれくらいの差額になるのだろう。

  鉄が一番高騰していた時の値段は、一トン当たり十四万円していた。瑠実が計算した三百五十トン必要だと思われる数値を、仮に適正鉄筋量だとする。これで計算すると、350トンx140,00049,000,000円。鉄材だけで約五千万円弱も掛かる。見積は、必ず損分も加味する。仮に損分を一割とすると、49,000,000x1.1倍=53,900,000円になる。つまりは、五千四千万近く掛かることがわかる。ふむふむ。けっこう掛かるものだ。

 これが見積の三倍、一千八十トンだとすると、1,080トンx140,000151,200,000円。

 適正鉄筋量と見積鉄筋量の価格の差は―――。

 ええと……いくらだ? 瑠実は更に電卓を叩いた。

 151,200,000から53,900,000を引くと―――。瑠実が電卓を叩き、液晶画面に弾き出された数字は、97,300,000円。一瞬、目を疑った。

 え? 約一億? 誰だ? こんな見積を作ったヤツは!

 瑠実は驚きを通り越して、腹立たしくなった。しかも、持ち帰ったデータをよく見ると、ご丁寧にも同じフォルダに、同じ物件の発注書が保存してあった。これを見ると、発注した鉄筋量は、二百八十八トン。適正鉄筋量を三百五十トンとすると、約〇・八倍。つまりは、必要だと思われる鉄筋量の八割しか発注していないことになる。なるほど。もしかして、留守番電話でいっていたのは、このことだったのか……。

 見積は客先に提出するものと、業者に見積もらせて実施工事で使う実行用見積と、常に二つ存在する。瑠実が見つけたのは、客先用。つまりは、クライアントに見せる見積だった。鉄筋量に不正があったとしても、まず、素人には絶対わからない。大学で建築について専門で学んだ者でも、構造専門でなければ、鉄筋量なんてこんなものか。と思うだろう。価格についても、当時は世界的に鉄が不足し、高騰したためだと言われれば、客は一切わからない。微妙なコントロールだ。一方、発注書は、客に見せるものではなく、業者にしか見せない。客には適正鉄筋量の三倍もの鉄筋量の価格を請求し、業者には適正鉄筋の八割程度しか納品させない。おそらく、発注した人物は、差額をピンハネしたのだろう。

(もしかして、この発注書って……偽造発注書ってこと?)

 瑠実はこの時、偽造計算書を見つける前に、偽造発注書を見つけてしまったことに、初めて気がついた。

 データは真野のパソコンから持ってきたもの。偽造発注を指示したのも、真野なのか? だとしたら、何のために? お金が目的なのだろうか。瑠実は考えると、怖くなった。


to be  continued……


12

(……信用か)

 信用していると言われて、瑠実は良心が痛んだ。ここには真犯人捜しに来たのだから。

 瑠実の本当の目的を、真野が知ったら、どう思うだろう。真野は瑠実を信じているようだが、瑠実はまだ迷っていた。仕事に対して信頼はできるが、偽造計算書については信用ができない。証拠は見つからないし、まだ真野が怪しいという疑問も払拭できていない。

(とにかく、偽造計算書が見つかれば、はっきりする)

 周りを見ると、いつの間にか同じ部署の人間は皆、退社し、瑠実一人になっていた。今がチャンスだ。再度、周りを確認すると、やはり誰もいなかった。心臓がどきどきする。

 瑠実は胸が高鳴るのを鎮めながら、今のうちに。と、誰もいないのをいいことに、手当たり次第、デスクの抽斗の中身を全部すっかり見た。担当している物件のファイルに、辞書や建築基準法。その他の基準法の解説書がきっちりファイリングしてあり、必要箇所には沢山の附箋が付いていた。どれほど使い込んでいるのか一目でわかる。真面目に仕事をしている証拠だ。全部の中身を確認したが、特に証拠品となるものは見当たらなかった。全て綺麗に整頓してあったおかげで、短い時間で確認ができた。

 次に瑠実は、開いたままの真野のパソコンをいじり始めた。ざっとファイル名に目を通し、問題の物件名のファイルを見付けると、急いで用意しておいたUSBメモリにデータをコピーする。早くしなければ見つかってしまうので、ファイルごとコピーをした。

 よし。これでなんとかなるかも。

 その時だった。デスクの電話が鳴り響いた。周りを見渡すが、もちろん誰もいない。電話に出たほうがいいのだろうか。考えている間に、留守番電話に切り替わった。案内メッセージが流れ、録音ガイダンスに切り替わる。中年の男の声でメッセージが聞こえてきた。

「えー、藤田鉄工所と申します。真野さんに用があって、お電話しました。先日お問い合わせのあった篠原ビルの鉄筋量ですが、やはり数量が合わんかったとです。なんでも、見積が訂正されちょりました。設計図の鉄筋量が、床面積一平方メートル当たり〇・一二トン、鉄骨量が〇・〇六トンだったのに対し、最初の見積書には床面積一平方メートル当たり〇・三六トン、鉄骨量が〇・一八トンになっちょった。なんと、設計図の三倍の量の鉄筋と鉄骨ですよ。これが後日に訂正されちょって、実際に納品したのは、設計図の鉄筋と鉄骨量の八割程度。ゆうちょきますけど、これは、ウチの間違いじゃないとですからね。また電話します」

 ピーと録音終了の音声が鳴り響き、再び静かになった。

(……なに? これ)

 どうやら抗議の電話らしいが、意味がよくわからない。録音された内容を瑠実は頭の中で反芻していた。確か、鉄筋量がどうとか。数量の変更がどうとか――。

 もしかして、先程、真野に言われた数量チェックのことか? と、瑠実は思い当たり、急いでチェックされた一覧表を広げてみた。確かに、単価はそのままだが、数量だけが違っているようで、真野の訂正が入っている。これは、どういう意味だろう。

 本当ならば、鉄筋量は構造計算書に基づき必要量が決定する。見積は必要量プラス、作業中に無駄になる損失量を加味し、全体の一割前後は多く鉄筋量を見積ことが普通だ。

 それが、設計図の鉄筋と鉄骨の三倍の量が見積りしてあるとすると、間違いにしては大きすぎる。これは単に間違えたのか、それとも故意に数量を多く水増ししたのか。瑠実が思考を巡らしていると、静寂になったフロアに、ドアが開く音がした。慌てて差し込んだUSBメモリを抜き取り、自分の席に向き直った。


to be  continued……



11

残業は、口実かと思ったが、本当に仕事は山のようにあった。毎日、警察の事情聴取と、計算書や書類の捜査があり、協力しろと手を取られる。事件後に増えるクレームの電話対応で、昼間はまともな仕事ができないからか、日常の仕事をそのままスライドして、残業で消化するしかない。それまで引っきりなしに電話に対応していた真野も、定時になり、同時に留守番電話に切り替わると、ほっとした顔をしていた。社員によっては、この先、継続できるかわからない会社に期待していないのか、形式だけ勤務している社員もいる。辞めるにしても、とりあえず次の職が決まるまで――と、明らかに腰掛けにしか思っておらず、残業するほど仕事は残っていても、定時で退社してしまう者も多かった。

 けれど、少なくとも、真野は違っていた。他の社員が帰る頃、これからが仕事の時間だといわんばかりに、張り切り始めるのだ。

 変わった男だな――と思う。余程仕事が好きなのか、あるいは、自分が犯した罪が、他人にばれぬよう見張っている――とか。いずれにせよ瑠実には真野がよくわからない男にしか見えない。

「とりあえず、見積の修正とチェックしてもらっていい? 単価はそのままで、この赤文字で書いた数字に直して。それが終わったら、プリントアウトして、再チェック。あと、このファイルに綴じてある、図面の附箋がついたところだけ二部ずつコピーしちょって」

 瑠実は、早口で説明する真野の言葉を聞き漏らさないようにと、メモをとり、後に復唱する。確認すると、すぐに仕事にとりかかった。

 真野に言いつけられた仕事は、雑用ばかりだった。もちろん、バイトで入ったのだし、学生の瑠実にできる仕事といえば限られている。それでも、いいつけられた仕事は、ちゃんとやらなければ気に入らない。いつの間にか瑠実は仕事に没頭していた。

 ようやく任された仕事の修正が終わり、ほっと息をつく。データを印刷していた時だった。真野が後ろの席から声を掛けた。

「そろそろ腹が減ったっちゃない? 何か夜食を買ってくるよ。何がよか?」

「いえ、お気遣いなく」

 瑠実が断ると、振り向きながら真野が、にやりと笑った。

「それとも、そろそろおウチに帰りたい?」

 直接はっきり言葉には出さないけれど、言葉の裏には『所詮バイトだ』『お嬢様だからな』と言われているような気がして、勝ち気な瑠実にはカチンと来た。見た目の容姿とは違い、案外短気なのは、自覚しているつもりだ。自分がある程度はなんでも何でもこなせるからか、自分にできないことが他人にできなかったり、出来ても時間がかかりすぎると、とたんに不機嫌になる。母からは「その性格さえ治ればねぇ。まるで女王様ね。それとも瑠実様なのかしら」と冗談交じりに嫌みを言われてきたけれど、呑気で天然な性格の母に言われると、余計に腹がたって性格を直すどころではなかった。すでに真野にはバレているのか? と、瑠実は一瞬焦ったが、ここまで言われては瑠実様が廃る。

「大丈夫です。私にお手伝いできる仕事があるのなら、じゃんじゃん指示してください」

 売り言葉に買い言葉。本当はお腹も空いてきたし、疲れていた。何しろ、バイト一日目からこんなに扱き使われると思っていなかったのが、正直なところだ。瑠実は返事をした後で、しまったと思ったが、もう遅い。真野は瑠実の言葉を真に受けて、「なら、別の仕事も頼むよ」と、真野のデスクにあった帳票の束を、遠慮無くどさりと瑠実のデスクに置いた。

(……なに? これ。 マジでこの量を私にやらせるつもりなの?)

 言った側から瑠実は後悔したが、言ってしまったものはしかたがない。瑠実は心の中でため息をつきながら、真野に問いかけた。

「これは?」

「ウチの会社の発注書。たぶん、瑠実さんが修正してくれた数値と、発注書の数値がズレているはずだから。今、任せているデータチェックが終わったら、こっちやって」

(なんでズレている数値がわかっているのに、チェックさせるの?)

「はぁ……」

 意味が全然わからず、瑠実が曖昧な返事をすると、真野は「内容は理解しなくていいから」と、急に辺りを見回し、小声になる。

「いや……実はね、この数値チェックは、会社の者には頼めないんだ。バイト一日目から残業を頼んで悪いけど、外部の瑠実さんだから、信用して頼める」

(どういう意味なの? なんで私なら信用できるの? 第一、バイトでしかない私に、こんな仕事をさせていいものだろうか?)

「私を信用していんですか?」

 声に出していうつもりのない言葉が、思わず口に出た。マズイ。反発するような発言をして、真野が隙を見せなくなったら、どうしよう。瑠実は失言だったと慌てて真野を見たが、真野は「取り立てて問題はない」という態で、返事をした。

「もちろん、俺は瑠実さんを信用しちょるよ。だって、副社長が偽装事件に関わっちょらんと、一番に信じちょるのは、瑠実さんやろ?」

 悔しいほど爽やかに言うと、真野は「夜食を調達してくる」と席を立った。


to be  continued……


10

 定時のチャイムがなる頃、再び男子社員の二人組が、瑠実のデスクの側にやってきた。

「ごめん。ちょっといい?」

 掛け声は謙遜の色が伺えたが、一度瑠実が顔を見て頷くと、一方的に自己紹介を始める。瑠実も慌てて席を立った。

「俺は加藤。よろしく」

 歳は真野より少し上くらいだが、随分と背が高い。おそらく真野よりも上背も横幅もあるはずだ。ごつい体に精悍な顔つきで、スポーツをやっていそうな印象だった。加藤は大きな体を屈折させて挨拶をした。挨拶をしたついでに、加藤は、首から掛けた顔写真入りの社員票を瑠実に見せようとした。ところが、あいにくシャツの胸ポケットに入れたままになっていて、社員表を探す手だけが、笑顔と反対に慌てていた。視線は瑠実に合わせたまま、ようやく手探りで社員表を掴むと、白い歯を見せてにっこりと笑った。いまいちスマートではないが、ここで笑うわけにはいかない。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 少し間の抜けている人なのかな。と、思いながら、瑠実も挨拶をした。

 加藤の様子を見ていた男子社員が、「お前、いつも一歩、抜けてるんだよな。だから、この間の馬券もスったんだろ?」と、合いの手のように口走った。

「あれは、たまたまだ」

 加藤はムっとした顔を男子社員に差し向けたが、男子社員はおかまいなしだ。

「僕は黒木です。瑠実ちゃん、よろしくね」と無視したまま、瑠実に右手を差し出した。

 差し出された右手は、男の割には手入れの行き届いた手だった。細くて長い指先には、桜色の爪が光っている。マニキュアを塗っているわけではないが、間違いなくヤスリで手入れしているだろうと思わせる爪だ。

 黒木と名乗った男子社員は、加藤より少し背は低かったが、歳の頃は加藤と同じくらい。薄いピンクのシャツにグレーとエンジのストライプのネクタイをして、細身のズボンを身につけていた。なんとなくいい匂いがする。コロンの香りだ。お洒落に気を遣う人なのかな? というのが、黒木の第一印象だった。瑠実は迷いながら、差し出された右手に手を出した。社会人の挨拶は、握手するものなのか? と少し疑問に思ったが、これは社交辞令だと割り切る。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 丁寧に返すと、横で見ていた加藤が、いち早く文句を言った。

「お前、ずりー。すでにちゃんづけで名前を呼んだ上に、握手まで!」

 加藤は抜け駆けだと言わんばかりに黒木を睨み付けたが、黒木は何処吹く風だ。

「こんなの、社交辞令だろ? ねえ? 瑠実ちゃん?」

 加藤が文句を言っている側から、黒木は性懲りもなく瑠実に向かってウインクまでする始末。

「はぁ……」

 瑠実がどう返事してよいものか迷っていると、加藤が更に文句を続けた。

「お前、いいのか? 美人がいると、すぐに、これだから。後で、弥生ちゃんに言いつけるぞ」

「お好きにどうぞ。俺、弥生ちゃんは本命じゃないから。それに、店を変えたし。……女の子は、みんな可愛いもんだ。愛でなきゃならん。ちゃん付けで呼ぶくらい、いだろ?」

 どんな持論だ? と思う。だが、黒木に言われると嫌味でないのが不思議だ。加藤と黒木の内輪喧嘩が始まるのを、瑠実は黙って聞いていた。文句をいいつつも、二人は仲がよさそうだ。同僚なのかもしれない。まるで学生同士みたいで微笑ましいな――と思っていると、瑠実の様子にいち早く気付いた黒木が、「ほら、瑠実ちゃんが驚いてるだろ?」と加藤を肘でつついた。加藤も察したらしく、文句をいうのを止めると、黒木が口を開いた。

「瑠実ちゃん、そろそろ仕事が終わるなら、この後、呑みにいかん?」

 なんだ。こっちが本題か。なら、さっさと誘えばいいのに。どうやら、瑠実を呑みに誘いたかったらしい。あからさまな誘いに、瑠実は視線を泳がせた。おそらく、従いてゆけば、隆司の状況を根掘り葉掘り聞かれるかもしれない。瑠実も隆司と会っていなくて、様子も全然わからないのに、訊かれるのは苦痛だ。どう断ろうかと考えあぐねていると、打ち合わせから戻ってきた真野が、割って入った。

「話し中、ごめん」と断りを先に入れる。真野は、そのまま体を瑠実に向けた。

「瑠実さん、悪いけど、残業、頼める?」

 え? 残業?

 二人に割って入ったので、何の話かと思えば仕事なのか。仕事一筋の真野らしい。一瞬、瑠実は「なんて気の利かない人なのだろう」と、真野を睨んだが、考えようによっては渡りに船だ。利用しない手はない。瑠実は明るく「残業ですね。解りました」と即刻引き受けた。

「すいません。せっかくお誘いして頂いたのですけど、聞いてのとおり、今日はまだ仕事があるので……」

 瑠実はわざと、残念そうな口調で返事をした。残業だと言われれば、それまでだ。古賀の言いつけで、瑠実の指導係は真野だと聞いていた。すなわち、真野の言いつけは古賀の言いつけ。普段から副社長に負けなくくらい勤勉で仕事のできる古賀には、誰にも逆らえない。二人は顔を見合わせると、文句の一つも言えない口元を尖らせた。

「仕事じゃ、仕方ないか」

 渋々だが、黒木と加藤は顔を見合わせた。

「……ばってん、仕事好きな真野は別として、瑠実ちゃんをあんまし扱き使うなよ」

 心配してくれたのは、フェミニストらしい黒木だった。

「ああ、わかっちょる。お前らに付き合わせちょるより、マシやろ」

 真野は片方の口角だけ上げると、当たり前のように答えた。口元だけ見ると、笑っているように見えるのに、目は笑っていない。見ていて、寒々とする笑みだ。瑠実は急に、加藤と黒木が気の毒になった。残業なのは仕方ないにせよ、せっかく誘ってくれたのだ。機会があったら、次は付き合おうと思う。

「ごめんなさい。また誘ってくださいね」

 瑠実は小首を傾げ、加藤と黒木に向かい、にっこり笑った。せめてもの報いだ。

(これで、どう?)

 サービス。サービス。心の中で毒付きながらも、瑠実は笑顔を称えた。肩を窄め、ぶりぶりに笑顔を振りまき、おまけにウィンクまでつけてみる。声もワントーン高く、ハートマークが飛び交って見えるほど可愛らしくいうと、二人は、急にほがらかな表情になった。

「そうやね。まだ一日目だし。……残念じゃけど、また今度」

 名残惜しそうに、加藤が言うと、黒木も黙って頷く。

「お疲れ様でした」

 礼儀正しく挨拶をする瑠実に、黒木と加藤は愛想笑いをした。横にいた真野を横目で睨み付けていたのは、気のせいではないだろう。だが、真野はまったく気にしていないようだ。真野は涼しい顔で二人に「お疲れさま」と挨拶をした。その場を退席する社員には悪いと思うが、残業したほうが瑠実にとって一石二鳥だ。飲みに行くのを断れるし、定時で勤務する社員の人数が減れば、古賀に言われた証拠探しもできるかもしれない。なにより真野の様子も探れるのだから、瑠実は断る理由はなかった。


to be  continued……



 瑠実が潜入捜査をしようとしているのは、古賀と瑠実だけの秘密だ。瑠実は古賀の差し金で、短期バイトとして真野と同じ部署に配属された。

「今日からお世話になります。香月瑠実です。よろしくお願いします」

 翌日から出社し、瑠実の自己紹介が終わると、早くも男子社員は、こぞって瑠実の周りに集まった。

「もしかして、香月って、副社長の娘さんやと?」

「瑠実さんは、建築科の学生さんやっちゃろ?」

「副社長はどんげしちょると? もしかして、瑠実さんが会社を継ぐの?」

 興味津々に尋ねてくる男子社員に、瑠実は苦笑いするしかなかった。そんなに新入りのバイト生が珍しいのか? と思うけれど、隆司の事件があったばかりだ。無理もない。

 その上、瑠実は母譲りの容姿で、他人目を引くことは幼い頃から多かった。容姿だけでなく、モデル並のスタイルをしており、大学ではミス・コンテストに毎年、常連で参加するほどだ。真野と出会った時も、ミスジャパンのコンテスト中だった。

 大学でも演劇サークル所属していて、看板女優として他人目を引くことには慣れていた。

 だが、社会人に、学生と同じ反応を示されるのは初めてだ。いつもなら、にっこり笑ってスルーするところだが、今回はそうもいかなかった。質問責めにされる内容は、単に瑠実に興味本位で訊くのに加え、隆司の様子と今後の会社についての見通しで、どう答えていいのかわからなかった。

 無視すれば、お高く止まったヤツだと思われる。瑠実が嫌われるだけなら、まだいい。

 だが、隆司を悪く思われるのだけは阻止したい。それに、皆瑠実より年長の者ばかりだし、これからお世話になる人々だ。侵入捜査を目的にバイトに来たのに、心象を悪くするのは悪手だろう。返事をしないわけにはいかない。瑠実は、いつものように笑顔を作ろうとしたが、上手く笑えたかどうか、さっぱり自信がなかった。

「瑠実さん、ちょっとこっち、手伝ってくれるや?」

 声の方向を見ると、遠くから、真野が瑠実を呼びつけた。

(よかった、これで免れる)

 慌てて、瑠実は「すいません、仕事を言いつけられたので」と、集団から遠ざかった。

「何をお手伝いしましょう?」

 強張ったままの笑顔を、真野に差し向けると、真野は視線を合わせないまま、てきぱきと瑠実に指示をした。

「パソコンは、使えるよね?」

「……はい」

 真野は瑠実にキャスター付の椅子を差し出し、座るように手で合図すると、液晶画面を見たまま、指示をした。

「今、開いたファイルのデータを全部PDF化して、CDに焼いてくれるやろうか?」

「解りました」

 瑠実は席に着くと、早速、言いつけられた仕事に取り掛かった。二人の様子を見ていた社員連中は、瑠実が仕事に取り掛かったのを見届けると、取り付く島もないと諦めたのか、散り散りになっていった。

(もしかしたら、助けてくれたの?)

 急に思い当たり、瑠実が後ろの席の真野を見ると、電話をしながら電卓を叩いていた。

 礼を言おうか迷ったが、忙しそうな後ろ姿を見ると、声を掛けづらい。真野の後ろ姿は、少しだけ隆司に似ていると、瑠実は思った。

to be  continued……






「わかりました。私にできることなら、協力します。ところで、何をすればいいとですか?」

 瑠実は、まっすぐに古賀を見つめて返事をした。素人がどこまでやれるのか皆目わからない。けれど、決心したからには、後はやるだけだ。

「なら、明日から、バイトとして会社に出勤してもらえんやろうか? 真野と同じ部署に配属するけん、まずは、証拠を掴んで欲しい」

「そんなに簡単に証拠が見つかるやろうか。私、素人ですよ? それに、真野さんも証拠を残しているのか全然わからないし……」

「そんげな自信のないこつで、どんげするとですか。副社長を助けたくないとね?」

 古賀は瑠実に発破をかけた。瑠実だって助けたいに決まっている。ただ、証拠といっても、実際、どんなものが証拠なのかさえ一切わからない。おそらく、構造計算書にあたるものになると思う。とはいえ、瑠実が見てわかるとは、とうてい思えない。なぜなら、瑠実は建築設計の中でも、意匠設計を専攻しているからだ。構造について勉強したことはあるといっても、ほんの基礎部分しかわからない。学生でしかない瑠実に、実務で使う計算書の違いなど、一目ちらっと見た程度で、わかるはずもないだろう。

「もちろん、私でできることなら、助けたいです。でも、実際、どんなものが証拠なのか……」

 瑠実は正直に、不安を述べた。古賀も意匠畑の人間なら、瑠実の言いたいことはわかるのだろう。もちろん瑠実の実力も、全て折り込み済みだと、ゆっくりと頷いた。

「うん、うん、わかっちょるよ。俺も瑠実さんと同じ、意匠屋じゃからね。構造計算は、手計算とコンピュータとでやる方法があるっちゃけど、今はほとんど、国土交通省に認可されたプログラムをコンピュータで走らせて、計算させる。結果は、変形量が規定値内に納まるかどうか。もしくは、基準値以上に必要壁量や鉄筋量があるかどうか、の判断しかない。要するに、計算式の最後の答が、OKかOUTのどちらかや。もちろん、計算上は全部OKにならんと、確認申請は許可にならん。問題の計算書は真面目に計算させると、OUTになるところを、たとえば一度、エクセル等の表計算ソフトに吐き出させて、手入力でOKとして、計算書を改竄しちょるはずじゃ。具体的な証拠品は、改竄する元のOUTになった計算書を手に入れればよか。瑠実さんはパソコンは使えるちゃろ?」

 仕事の現場でどれだけパソコンのノウハウが要求されるのかわからないが、瑠実も毎日パソコンは触っている。レポート作成から汎用CAD、グラフィック・ソフトの簡単なものなら扱える。けれど、パソコンの技術検定を受けた経歴もないし、仕事として扱った経験はないので、自分のスキルがどの程度か皆目わからない。古賀の話では、OUTの計算書を探せばいいと。これなら、瑠実にもできる気がする。自信はなかったが、ここまで来たら、乗りかかった船だ。

「たぶん……大丈夫だと思います」

「よし、なら、さっそく頼むわ」

 こうして瑠実は、真野が真犯人だという証拠を掴むために、翌日から香月建設にバイトとして雇われることになった。



to be  continued……


   7

「なら、なんでですか!」

 瑠実が興奮気味に問い質すと、古賀は一瞬ちらっと辺りを見回し、急に声を潜めた。

 打ち合わせ室に居合わせた社員は大勢いたが、誰も気にしていない様子だ。一拍を置くと、静かに口を開いた。

「さっき、構造担当が補正するっちゅうたやろ? 基本的には、そうやっちゃけど、副社長は忙しい人やから、補正書類だけ作って、誰かに任せることも、よくある。追加補正書類と印鑑があれば、副社長本人じゃなくとも、補正はできるし。それに……」

 古賀は考えながら、言葉を探しているようだった。

「もしかして……心当たりはあるんですか?」

 瑠実は心臓が高鳴っていた、他に犯人がいるのなら、絶対に突き止めたい。

 今まで怒りの矛先が古賀に行っていたのに対して、今度は真犯人に向っていた。自分でも単純だと思う。納めようのない怒りが胸の奥に広がっていたが、瑠実はようやく怒りを静めていた。

「これは、私の予想やけど、副社長の代わりに補正ができる者と言うたら……」

 古賀は瑠実に耳を貸せと仕草をすると、耳元で小さく名前を言った。

「たぶん、真野だと思う」

「え?」

(まさか、あの真野さんが?)

 驚く瑠実を「しっ!」と、口元に人差し指を持って行き、古賀が窘めた。

「これは、誰にも言わんで下さい。私と瑠実さんの秘密です」

 古賀は前置きをして、言葉を続けた。前屈みになり、小声になる。瑠実も古賀に合わせて、打ち合わせテーブルを挟み、身体を古賀に近づけ、話を聞いた。

「さっき、事件になった物件は、適合判定を受けないものじゃった、と言うたでしょう? 実は、真野は、副社長と同じ大学の出身でね。同じ構造畑出身なんじゃ。副社長としても、真野が気がかりなんやろう。会社に入社した時から、えらい可愛がっちょった。じゃから、時々、副社長が担当の物件も、忙しい副社長の代わりに計算しちょるごつあった。適合判定に回されん物件といえば、こう言う言い方したら怒られるかもしれんけど、技術的には難しくないかい、下の者でも計算はできる」

 確かに、そうかもしれない。真野からも、入社当時から隆司にお世話になっていたと言っていた。忙しい隆司に代わり、真野が補正したとは十分に考えられる。

「じゃあ、事件になった物件も、父の代わりに、真野さんが計算をしていたかもしれないんですね?」

「本人に聞いたことはないから、はっきりとはわからん。けど、補正だけじゃなく、計算も、したかもしれんね」

(やっぱり! だとしたら、やっぱり真犯人は真野なのか?)

「それに、ここだけの話じゃけど……」

 古賀はさらに小声になった。

「警察も、副社長が捕まった日の、真野のアリバイを調べちょるらしい」

 隆司が捕まった日といえば、真野と初めて東京で会った日だ。

 確か、真野は「家の用事でたまたま東京にいた」と言っていた。だが、実は別の理由があったのではないか。それにしても、なぜ警察も、隆司が逮捕された日の真野のアリバイを調べるのだろう。

「なんでですか? 調べるなら、父が逮捕された日じゃなくて、事件になった計算書を差し替えた日じゃないとですか?」

 普通は、そうだろう。計算書偽造の犯行に及んだ日が、一番重大ではなかろうか。

「じゃあよ。差し替えのあった日は参加三ヶ月以上も前じゃし、すでに記憶は、あやふやじゃわね。ばってん、なんでも副社長が捕まった日に、真野は東京におったという話じゃ」

 確かに、瑠実も真野が東京にいた事実を知っている。もしかして、証拠隠滅のために東京にいたのだろうか。これは重要な情報かもしれない。

 古賀の話から推測すると、確かに真野を疑う余地は十分にあった。もし、これが本当に真野が真犯人なら、早く警察に説明して隆司を解放して欲しいと思う。

「古賀さん、今、私に話してくださった情報を、警察に言うてもらえんですか?」

(……もしかしたら、助けられるかもしれない)

 瑠実は古賀の両腕を掴むと、必死に頼んだ。

 古賀は一瞬、驚いた顔をした。だが、瑠実の願いもよく理解できたのだろう。「まあ、まあ」と瑠実を宥めた。

「もちろん、警察には言いました。ばってん、……相手に全然されんかった」

 古賀は唇を噛みしめ、少し悔しそうな顔をした。

「瑠実さん、俺がなんでこの話を瑠実さんに話したか、わかっちょりますか?」

 そういえば、古賀はなぜ、話してくれたのだろう。警察に話して相手にされなかった以上、真野は白だ。真野が東京にいたのを知っても、相手にされなかった理由は、警察は隆司を犯人だと疑っていないからだろう。

 一介の学生にしか過ぎない瑠実に、話した理由がわからなくて、古賀に尋ねた。

「わかりません。……なんでです?」

「実は……瑠実さんに、協力して欲しいからなんや」

(もしかして、協力というのは……)

「私に? まさか真野さんが真犯人かどうか、私に調べろとでも言うんですか?」

 古賀は深く頷きながら瑠実の顔を見つめた。いつもの優しい古賀とは違う。見つめられると、瑠実はまるで大蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。

「どんな方法で? 私は……ただの学生ですよ?」

 上擦った声だった。瑠実がようやく声を絞り出すと、ようやく古賀は、双眸に写った瑠実から目を離した。

「俺も、副社長とは古い付き合いじゃけん。アイツが犯人じゃないと信じちょる。それにこれは、香月建設の社運が懸かっちょるとです。意味はわかるじゃろう?」

 真顔で訊かれて、瑠実は悩んだ。

 確かに真犯人がいるのなら、突き止めたい気持ちは山々だ。だが、警察に相手にされなかった内容を、一般人でしかない瑠実が知り得たとしても、いったい何ができるのだろう。

 瑠実は改めて、古賀が何を求めているのかを自覚し、怖くなった。けれど、このまま隆司が犯人にされるのは、もっと嫌だ。今は古賀に協力するしかない。

 瑠実は静かに瞼を閉じ、一つ大きく深呼吸をした。

(お父さん……。待ってて)

 隆司を救うことができるのなら、と心に決めた。

to be  continued……



 古賀の話で、適合判定に回される申請とそうでないものがあると判ったが、建物の安全性は本当に守られるのだろうか。

 適合判定に懸かる建物は、構造設計者、審査担当者、第三者の審査担当者と、トリプルチェックを受ける仕組みになっている。

 だが、適合判定に懸からない建物は、構造設計者、審査担当者のダブルチェックとなる。チェックするのであれば、ダブルより、トリプルのほうがいいに決まっている。

「それって、不公平じゃないですか?」

「そうでもないと思うよ。世の中の確認申請に出された物件を、第三者が全部チェックしよったら、いくら費用と時間があっても、足りん。そもそも、確認申請を受付したとすると、小規模な建物なら、通常確認申請を提出して七日間以内に、それ以外は二十一日間以内に、許可になるか、中断になるかの判断をせんといかん。ばってん、大規模建築物になると、提出したまま、許可が下りる事例は、ほとんどない。だから、大概、建築確認申請が中断されて、補正を求められる。大規模建物やと、最低でも一ヶ月は申請に時間が掛かるとよ」

 具体的な日数を言われ、瑠実は耳を疑った。

(え? 一ヶ月も掛かるの?)

 心の中でツッコミを入れていると、古賀は更に話を続けた。

「申請費用も、建物面積で決まっっちょるっちゃけど、適合判定に回される物件は、外注分の構造チェックの費用も余分に掛かるから、申請費用だけでも通常の倍は掛かる。まったく、馬鹿にならんよね」

「けっこう掛かるんですね。時間も、費用も」

 瑠実は思っていた以上に建築確認申請の手続きは、煩雑で費用と手間の掛かるものだと改めて思った。図面や書類を書いて提出すれば、自動的に建築確認申請は、許可になるものと思っていたからだ。

「じゃろ? 姉歯元建築士事件の後、建築基準法が改正されたっちゃけど、改正された直後は、大規模建築物の確認申請は、半年以上も掛かった時もあったっちゃが」

(半年も掛かるとは、建築主が可哀想……)

 古賀は当時を思い出しているのか、渋い顔をした。半年も掛かったら、さぞかし建築会社も大変だっただろう。

「……まあ、今は提出する側も、チェックする側も慣れてきたから、そこまで時間は掛からんけどね」

 古賀の説明を聞いてきて、瑠実は更に理不尽に思えてきた。

 建物を建てたい。建てるには確認申請が必要だ。ここまでは納得できる。だが、建物規模や構造によって、申請料も、審査に掛かる時間も、これだけ差が出てくるなんて。

 しかし、これが現実というものなのかもしれない。逆に大規模建物の確認申請許可が、簡単に下りるようだと、怖い気もする。

「さっき、ある一定の規模と構造によっては、構造計算だけ第三者機関にチェックしてもらうと話したやろ?」

「ええ、ゆうちょりましたね」

「事件のあった建物は、適合判定を受けんでもよか物件やったとよ」

 古賀の言葉に、瑠実はふと思った。まさか犯人は、わざと選んで適合判定を受けなくてもよい建物を、構造計算偽造としたのだろうか。

「でも、役所や民間でも、さっきの話やと、ちゃんとチェックできるとでしょう?」

「そうやね。そのはずやと思う。もし、計算にミスがあったらいかんけん、チェックも厳重にする」

 瑠実の質問に、古賀は穏やかに返事をした。他人事だからか、穏やかすぎるくらい冷静な態度だ。瑠実は神経を逆撫でされた気がして、さっと頭に血が上った。

to be  continued……



「一番簡単な検討方法として、許容応力度計算というのがある。許容応力度計算とは、どれくらい持ち堪えられるか? という計算上の数値じゃね。鉄筋コンクリートの場合、それぞれ鉄筋とコンクリートに分け計算するんじゃ。そもそもコンクリートは圧縮には強く、引っ張り……つまりせん断には弱い。反対に鉄筋は圧縮に弱いけど、せん断には強いからね。これをコンクリートには圧縮力を、鉄筋にはせん断力をそれぞれ負担する力として、長期と短期で考える。長期と短期は、わかるじゃろ?」

 これくらいならば、瑠実にもわかる。長期とは、その名前の通り、平常時の場合。短期とは、主に地震やその他の理由でなんらかの負荷が掛かった場合のことだ。

「ええ、なんとか。正直に言って、古賀さんの説明を聞いていて驚きました。意匠専攻とはいえ、建築学を学んでいるのに、あまりに構造計算方法を知らなくて。計算方法の名前さえも、なんだか、謎の呪文を聞いている気がします」

 瑠実が肩を窄めながら白状するのを、古賀は目を細めながら見ていた。知らないのを正直に述べる瑠実の態度は好ましい。

「構造が苦手なのがバレちゃったついでに教えてもらってもよいですか? 確か許容応力度と並んで、保有水平耐力というのがあったような……」

 てへ、と顔を傾げ、軽く肩を上げる仕草は、甘える時の癖だ。大学生になった瑠実は、今や誰もが振り返る美人になっていたが、これだけは変わらない。

「いや……正直でよか」

古賀は、小さい時と全く変わっていない瑠実の様子に、安堵したのか目を細めた。

「保有水平耐力計算は、地震がきたときに柱や耐力壁、筋交いが受ける崩壊を負担する水平方向のせん断力の合計じゃ。要するに、建物が受ける水平方向のダメージが、全部でどれくらいあるかの合計じゃわ。もっと簡単にいうと、地震は縦揺れと横揺れがあるじゃろ? この保有水平体力と言うのは、横揺れの力がかかった時……つまりは水平方向に、どれだけ建物が壊れるか? を検討する計算じゃわ。」

「なるほど。文字通りなんだ。基本的に構造計算は、建物が縦方向に受けるダメージ、と横方向に受けるダメージに分けて計算するんですよね?」

「そうそう。地味やけどね。平常時が長期、地震や大風を受けた時を短期と考えて、縦方向、横方向と分けて一つ一つの梁材、柱、壁の部材に受ける影響を、計算してゆく地味な作業やわ。まあ、どちらかというと、実際に行なう作業は、計算より分析や解析といったほうが近いかもしれん。構造計算ちゅうんは、最初に建物規模や高さによってルート計算、つまり計算方法と計算順序が分けられちょる。それによって計算したものが、計画建物として想定される地震や風力に持ち堪えられればいいんじゃ。OKかOUTか。答は二つに一つ。途中の計算は面倒やけど、非常にシンプルで潔いとよ」

 確かにOKかOUTというは、素人にも解りやすい。瑠実は古賀の言葉を、感心しながら聞いていた。大学で構造の講義を聴くより、わかりやすいかもしれない。

「地味やけどね。建物を造るには、規模は違っても構造計算というのは絶対に必要になってくる。だからこそ、手は抜けんし、ヘタすれば人の命もかかってくるから、大事やとよ」

 構造については素人同様の瑠実に、かなり噛み砕いて教えてくれたのだと思う。構造計算は専門でないからわからないと言っていた古賀だが、実はかなり詳しいのではないか?

「難しかったね?」

 古賀は瑠実の顔を覗き込んだ。 古賀が解説してくれるおかげで、瑠実は今まで不可解で絡まっていた知識の糸が、少しずつほぐれていくようだった。根本的にはまだまだわかってないなと思う。ほんの少し、わかった気がしただけ。というのが本音だ。けれど、瑠実が思っていた以上に、構造計算というのは、建物を設計する上で大事なのだとわかった半面、古賀が構造計算にかけてはプライドを持っているのが理解できた気がした。まるで古賀は意匠屋ではなく、構造屋のようだ。

「……はい。でも、少しだけわかった気がします」

 瑠実は、せっかくほっとした。腹の底から深く息を吐くと、今まで緊張していたのがわかる。安堵すると、別の疑問が湧き上がった。


to be  continued……