残業は、口実かと思ったが、本当に仕事は山のようにあった。毎日、警察の事情聴取と、計算書や書類の捜査があり、協力しろと手を取られる。事件後に増えるクレームの電話対応で、昼間はまともな仕事ができないからか、日常の仕事をそのままスライドして、残業で消化するしかない。それまで引っきりなしに電話に対応していた真野も、定時になり、同時に留守番電話に切り替わると、ほっとした顔をしていた。社員によっては、この先、継続できるかわからない会社に期待していないのか、形式だけ勤務している社員もいる。辞めるにしても、とりあえず次の職が決まるまで――と、明らかに腰掛けにしか思っておらず、残業するほど仕事は残っていても、定時で退社してしまう者も多かった。
けれど、少なくとも、真野は違っていた。他の社員が帰る頃、これからが仕事の時間だといわんばかりに、張り切り始めるのだ。
変わった男だな――と思う。余程仕事が好きなのか、あるいは、自分が犯した罪が、他人にばれぬよう見張っている――とか。いずれにせよ瑠実には真野がよくわからない男にしか見えない。
「とりあえず、見積の修正とチェックしてもらっていい? 単価はそのままで、この赤文字で書いた数字に直して。それが終わったら、プリントアウトして、再チェック。あと、このファイルに綴じてある、図面の附箋がついたところだけ二部ずつコピーしちょって」
瑠実は、早口で説明する真野の言葉を聞き漏らさないようにと、メモをとり、後に復唱する。確認すると、すぐに仕事にとりかかった。
真野に言いつけられた仕事は、雑用ばかりだった。もちろん、バイトで入ったのだし、学生の瑠実にできる仕事といえば限られている。それでも、いいつけられた仕事は、ちゃんとやらなければ気に入らない。いつの間にか瑠実は仕事に没頭していた。
ようやく任された仕事の修正が終わり、ほっと息をつく。データを印刷していた時だった。真野が後ろの席から声を掛けた。
「そろそろ腹が減ったっちゃない? 何か夜食を買ってくるよ。何がよか?」
「いえ、お気遣いなく」
瑠実が断ると、振り向きながら真野が、にやりと笑った。
「それとも、そろそろおウチに帰りたい?」
直接はっきり言葉には出さないけれど、言葉の裏には『所詮バイトだ』『お嬢様だからな』と言われているような気がして、勝ち気な瑠実にはカチンと来た。見た目の容姿とは違い、案外短気なのは、自覚しているつもりだ。自分がある程度はなんでも何でもこなせるからか、自分にできないことが他人にできなかったり、出来ても時間がかかりすぎると、とたんに不機嫌になる。母からは「その性格さえ治ればねぇ。まるで女王様ね。それとも瑠実様なのかしら」と冗談交じりに嫌みを言われてきたけれど、呑気で天然な性格の母に言われると、余計に腹がたって性格を直すどころではなかった。すでに真野にはバレているのか? と、瑠実は一瞬焦ったが、ここまで言われては瑠実様が廃る。
「大丈夫です。私にお手伝いできる仕事があるのなら、じゃんじゃん指示してください」
売り言葉に買い言葉。本当はお腹も空いてきたし、疲れていた。何しろ、バイト一日目からこんなに扱き使われると思っていなかったのが、正直なところだ。瑠実は返事をした後で、しまったと思ったが、もう遅い。真野は瑠実の言葉を真に受けて、「なら、別の仕事も頼むよ」と、真野のデスクにあった帳票の束を、遠慮無くどさりと瑠実のデスクに置いた。
(……なに? これ。 マジでこの量を私にやらせるつもりなの?)
言った側から瑠実は後悔したが、言ってしまったものはしかたがない。瑠実は心の中でため息をつきながら、真野に問いかけた。
「これは?」
「ウチの会社の発注書。たぶん、瑠実さんが修正してくれた数値と、発注書の数値がズレているはずだから。今、任せているデータチェックが終わったら、こっちやって」
(なんでズレている数値がわかっているのに、チェックさせるの?)
「はぁ……」
意味が全然わからず、瑠実が曖昧な返事をすると、真野は「内容は理解しなくていいから」と、急に辺りを見回し、小声になる。
「いや……実はね、この数値チェックは、会社の者には頼めないんだ。バイト一日目から残業を頼んで悪いけど、外部の瑠実さんだから、信用して頼める」
(どういう意味なの? なんで私なら信用できるの? 第一、バイトでしかない私に、こんな仕事をさせていいものだろうか?)
「私を信用していんですか?」
声に出していうつもりのない言葉が、思わず口に出た。マズイ。反発するような発言をして、真野が隙を見せなくなったら、どうしよう。瑠実は失言だったと慌てて真野を見たが、真野は「取り立てて問題はない」という態で、返事をした。
「もちろん、俺は瑠実さんを信用しちょるよ。だって、副社長が偽装事件に関わっちょらんと、一番に信じちょるのは、瑠実さんやろ?」
悔しいほど爽やかに言うと、真野は「夜食を調達してくる」と席を立った。
to be continued……