瑠実がぼんやりと考えながら複合機の前から立ち去ろうとすると、高橋がやって来た。
高橋は、制服ではなく、私服姿だ。先に会社を出たので、忘れ物でもしたのかもしれない。だが、高橋の足取りは、迷うことなく真っ直ぐに複合機へと向かっていた。
(まさか、高橋が見積の作成者?)
瑠実は、一瞬はっと驚いたが、平然を装った。
「あれ? 高橋さん、何か忘れ物ですか?」
瑠実は、わざと自分から挨拶した。高橋は誰もいないと思っていたのだろう。高橋がいる場所からは、視界に瑠実が入っていなかったのかもしれない。遠目にわかるほど、びくりと肩を震わせ、驚いていた。
「ああ。びっくりした。香月さんこそ、まだ、扱き使われちょったとやね」
高橋の口調は柔らかいが、目は泳いで落ち着きがなかった。何かを探しているようだ。定まらない高橋の視線を探りながら、瑠実は言葉を繋げた。
「ええ。真野さんは容赦ないから……」
瑠実がおどけ、肩を少し上げながら言うと、高橋は「そうやね」と、上の空で返事をした。なんとなく、瑠実が邪魔な様子だ。
(……もしかして、高橋さんが、見積書をプリントアウトした当人?)
予感が段々と確信に変わっていく。瑠実は「じゃあ、もう少し頑張ってきます」と高橋に挨拶すると、デスクに戻る振りをして、さっとパーテーションの陰に隠れた。ここからなら、複合機のある場所から死角だ。瑠実が隠れて見ていると、高橋は急に複合機に近づき、辺りを見回した。さっとトレイに手を伸ばし、手持ちのバッグにプリントアウトされた見積書を入れる。後は何食わぬ顔をして、立ち去って行った。
瑠実は陰で一部始終を見ていた。まさか高橋が見積を取りに来るとは思わなかった。どういうことだろう。そもそも、会社を退社し、私服で高橋がいたのも変だし、見積書を隠れるようにして持ち帰ったところも気に掛かる。仕事や用があって戻ってきたのなら、堂々とすればいいものを、高橋の様子は明らかに周りを気にしていた。
(……うむ。一応、真野に報告したほうがいいのだろうか)
迷いながらデスクに戻ると、真野の姿がなかった。夜食でも買いに行ったのだろうか。
真野の姿はない代わりに、デスクの上には客用の見積書があった。見ると先程、瑠実がコピーした物件と同じ見積書だ。だとすると、作成者は真野だったのだろうか。気になってパラパラと捲ると、見積総額が違っていた。あれ? もしかして、変更になった?
よく見ると、見積作成日時は同じ日になっている。ただの間違いか? とも思い、明細のページを捲ると、見積の項目と、ページ数が少ない気がした。明らかに、意図して項目を減らして作成したものだと解る。先程コピーした見積書をまだ手に持っているのに気がついて、ざっと照らし合わせてみた。気にした設計料の項目に目を運ぶと、コピーした見積書には、設計、建築確認申請料、設計監理料は別途請求となっていたが、真野の机の上にある見積書には、項目も上がっており、金額が載っていた。
あ、マズイ。
瑠実は、直感的に感じた。高橋はあの見積書をどうするつもりだろう。瑠実は気になって、コピーした見積書をバッグに入れ、代わりに財布だけ取り出した。一瞬、真野に書き置きを残そうか悩んだが、すぐに戻れば問題ないだろう。瑠実は大急ぎで高橋の後を追った。
瑠実が会社の外に出ると、すでに真っ暗だった。出るのが遅れたので、高橋は辺りにいないかもしれない。それでも、確かめずにはいられなかった。瑠実の勘が当たっているとすると、客用の見積書は二通が存在するはずだ。一通は正規の見積書。もう一通は、適正でない金額の見積書だ。
おそらく、適正でない金額の見積書をお客に提出し、会社側には、正規の見積書を提出しておく。誰かが差額をピンハネしている可能性がある。会社の目の前ある大通りの信号に捕まり、瑠実が信号待ちをしながらきょろきょろしていると、道路の向かい側の歩道を、駅に向かって歩く高橋の後ろ姿を見付けた。よかった。間に合いそうだ。
瑠実は、気持ちだけが先行しそうになる。その場で駆け足しそうになるのを、ようやく堪えて待っていたが、信号はなかなか変わらない。イライラしながら信号を待ったが、しばらく時間が掛かりそうだ。こうして信号待ちをしている間にも、高橋の背中はどんどん小さくなっていく。ダメだ。このままでは間に合わない。大通りの車が途切れるのを見計らい、瑠実は思い切って信号無視をしようと、飛び出そうとした時だった。
「おい、何処に行くんだ?」
咄嗟に腕を掴まれ、飛び出そうとした瑠実の体は、大きく弧を描いて男の胸に飛び込んだ。同時にブォーと低いエンジン音が、瑠実の背中の辺りをざっと通り過ぎる。
きゃっ!
まさに、間一髪だった。ほっとして瑠実が顔を上げると、背の高い真野と目が合った。
気がつくと、真野の大きな腕の中にすっぽりと収まっている。
(な、なんで? 真野さんが、ここに……?)
慌てて瑠実が腕を振り解こうとすると、檄が飛んだ。
「馬鹿やろう! 死ぬ気か?」
車ばかりに気を取られていたが、後方からバイクが前進してくるのに、全く気がつかなかった。危ない所を助けられ、おまけに真野の腕の中に収まっていた状態が恥ずかしくて、瑠実は一瞬、高橋の尾行をしていた状況を忘れそうになった。急がないと見失ってしまう。
「助けてくださって、ありがとうございます。すみませんが、私用で一時外出します。なるべく早く会社に戻りますから」
ぺこりとお辞儀をし、足早にその場を立ち去ろうとすると、再び真野に腕を掴まれた。
「何処へ行くんだ?」
「今は、説明しちょる暇はないとです。早くしないと、見失っちゃう……」
振り向かず瑠実が返事をすると、真野も後ろから追いかけて来た。手にはコンビニの袋を下げ、歩く度にカサカサと鳴る音が耳障りだった。そうか。真野さんは夜食を買い出しに行ったのか。ようやく真野が通りにいた理由が飲み込めたが、従いてくるとは。
従いてくるな! というオーラを背中に発しながら急ぎ足で歩いても、真野には通用しないらしい。後方からカササカと袋の音を立てながら追いかけてくる。瑠実は無視して、そのまま先を急いだ。
to be continued……